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短歌の味わい方


短歌の味わい方

 塾の講師という難儀な職業に就いた今、短歌と「教材」として向き合わなければならないことがある。しかも、「定期テストで点数が取れるように」教えなければならないが故に、教科書に書かれているとおりに講義をする必要がある。学校の先生の苦悩に思いを馳せつつも、「体言止め」や「擬人法」、「次の鑑賞文はどの短歌をについて述べたものか答えなさい」というような問題のコツを説明する。そうしてテスト対策とやらをしたあとで、わたしは丁寧な字で板書を始める。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ 東直子
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない 河野裕子

 生徒はぽかんとした顔でわたしとホワイトボードを交互に眺めている。
「どんな状況だと思う?」
 生徒は知らないわからないと繰り返すが、絵を描いてごらん、というとぎこちなくペンを動かし始める。わたしが微笑んでいるのを横目で見て、安心したようだ。やがて、いくつかの場面が浮かび上がる。

「オムライスが作れないシェフ」
「戦争」
「浮気がバレた」

 ぜったい違くない?眉をひそめる生徒に、わたしは言う。
「素晴らしい」
と。
「え、正解じゃないですよね?本当は何?」
「本当の本当は、作者の先生にしか分からないけれど、すごく面白くて好きだよ。どうしてそういう状況になったんだろうね」
 話をしているうちに、面白そうな雰囲気を感じ取った他の講師や生徒が混ざってきて、ああでもないこうでもないと言い始める。やがて、生徒が笑い出す。
「どうしたの」
「だって先生、これ全部妄想じゃん」
 わたしたちは湯気をあげるケチャップライスを前に呆然と立ちすくむシェフに心底同情し、燃えさかる祖国から逃れる女性を取り巻く熱気を感じ、恋人たちの危うい空気を想像する。
「そう、妄想なの。短歌ってすごいよねえ、31文字で、これだけ話が広がるんだよ」
ふうん、でもさ、コックじゃないって、絶対!
彼らの笑い声を聞きながら、わたしは短歌の味わい方について考える。

 わたしが短歌を読むときと、小説を読むときの味わい方を比べてみると、違いの一つに、作中の登場人物との距離感が挙げられるように思う。小説では、登場人物と一定時間を共に過ごす感覚が強い。だからこそ没入感が生まれ、登場人物もろとも大きな波に飲まれることもあれば、「なんじゃい、こいつは」と反感を覚えることもある。主人公と同じ目線で、同じ時間を過ごし、同じ世界を見る楽しさが、小説にはある。
 一方で、短歌において作中主体の詳細が語られることはほとんどない。これまでにどんな経緯があり、なぜ主体がこの景色の中にいるのか、わからない。これが、普段短歌を読まないひとたちにとって、「短歌は難しい」につながる一因かもしれない。そこで、わたしは「短歌を眺める」という楽しみ方について考えてみたいと思う。
 生徒たちも、どう読んだらいいかわからないんだもん、と、口を尖らせる。短歌は小説と同じように読まなくても大丈夫、目の前の単語から浮かんでくる景色を楽しんでもいいんだよ。今日は、それを一緒にできて楽しかったね。主にわたしが。その「眺める」の授業もどきが、冒頭のやりとりである。

 短歌を眺める、というと、なんとなく浅い楽しみ方に思われるかもしれない。作者の読み込みたかったことを受け取り、美しいリズムを楽しみながら自分と重ねて味わうことが、正しい「読み」であるかもしれない。一方で、普段短歌と距離がある人たちには、「短歌は一定の能力を有さなければ読むことができない」と思われている側面もあるように思う。わたしが生徒たちに伝えようとしていることは、短歌の奥深い世界の見渡し方、のようなものだ。

 わたしが「ああ、これは好きな歌だ」と思うとき、その歌だけのジオラマができる、といえばいいだろうか。その小さな世界の中を、わたしはどこからでも眺めることができる。離れて見ることも、ズームアップして観察することもできる。
短歌のジオラマの中では、わたしのあずかり知らぬところで時間が過ぎ、誰かが動き回り、景色さえも移り変わる。わたしがどうしていようと、彼らには何の関わりもない。彼らは彼らの事情でゆきすぎるだけだ。それが、どうにも心地いい。彼らが泣くとき、一緒に泣いても、泣かなくてもいい。その距離感を、短歌の味わいの一つとして考えている。
 例えばそれは、水族館の大水槽の前に佇んでいるときに似ている。理にかなった流線型である魚もいれば、「何を間違えたのかしらん」と思うような魚もいる。魚が何を思い、何を考えているのか、わたしにはもちろんわからない。魚に自分を重ねているような、そうでないような、いや昨日のあの一言は余計だった、それにしても、ああカタクチイワシの群れだ、綺麗だなあ。ぷつぷつと途切れがちな思考のあいだ、五感は青さに委ねられたり、過去とを行き来したりする。
 大人になってから、小説を読むには疲れすぎている夜が増えた。寝る前に、本棚の前で唸る日々が続く。大好きな本ばかり並んでいるのに、どうにも食指が動かない。そこで、歌集の登場である。ページをぱらぱらとめくり、ことばが流れていくのを眺める。胸や頭に乱立するさまざまなことばのジオラマを、ベッドの上から眺めているうちに眠くなる。そういえば、わたしの好きな歌集はどれも、夜の水族館のようだ。

「だって、短歌って詩でしょ。わたし、そんなポエジーないもん」
 あるとき、短歌について話していたら、生徒がこう言った。そうだった。短歌に触れるときのハードルをひとつ、忘れていた。
「そうだね、確かに定型詩ではあるけれど、まずは歌なんだよな」
 歌詞カード読んで感動したり、したことない?尋ねると、生徒たちは喜んで自分の好きな歌詞を教えてくれる。いかにそれが自分に即したものであったか、切実な声の代弁であったかを教えてくれる。それを聞きながらいつも、ことばが足りないときの逼塞感を思う。と同時に、中高生がいかに多くのことを考え、それに悩んでいるかを、思い知る。
「今まで思ってたけどことばにできなかったことを、代わりに言ってくれた感じがした」
 さっき教えてくれた歌詞のむこうで、ひとり涙をこらえていた彼女の後ろ姿を思い浮かべる。彼女を救ってくれた詩に感謝しながら、わたしは尋ねる。
「それを、三十一文字で、しかも気持ちいいリズムで伝えてくれるのが短歌だとしたらどう」
どうって、そりゃあ、と言ったきり、生徒は困った顔をした。
「ごめんごめん。でも、あなた十分ポエジーあるよ」
「ないわ!ないない」
「ほら、な・い・わ・な・い・な・い、七音でしょ。言ってて気持ち良くなかった?」
「もう先生短歌推しすぎ」
この世界と短歌が決して遠くないことを伝えようと、わたしは話を続ける。少なくとも、わたしにとって短歌はそういうものだった。ことばにならなかったことをすくい上げて、それを「眺める」対象にしてくれた。美しいいきものが、透明な壁の向こうで泳いでいる安心感。もどかしさ。切なさ。快さ。
「短歌を読む、じゃなくて、見るとか、眺めるとか、そういうのだったらできそうじゃない」
「どういう意味?」
「歌詞カードみたいにさ。あれって登場人物がだれで、このシーンは何でって考えなくてもわかるでしょ。それと一緒」
「ふうん」
そんなもんかなあ、と生徒はまだ腑に落ちない顔をしている。
そんなもんだよお、わたしは彼女の小テストを採点しながら、ひそかに微笑む。

 短歌には「眺める」楽しみ方もあるよ、と生徒に伝えたいとき、わたしが毎回選ぶのが冒頭の三首である。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ 東直子
何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない 河野裕子

 これらを生徒に紹介するのには、いくつかの理由がある。読み込まれている名詞が、中高生にとって身近でわかりやすいものである、というのが一つ目。作中主体の性別が(本当のところそうでなかったとしても)読み取りやすい、というのが二つ目。三つ目は言うまでもなく、わたしが大切にしている「一目惚れ歌」であることだ。
 先述のような読み取り方をしてみようとするときには、まっさらな土台の上に配置する初期アイテムが必要となる。その初期アイテムを元にして世界は発展し、歌のジオラマが出来上がる。「冷蔵庫」「みずうみ」「吊り橋」ーー身近なことばでありながら、そこから生み出される個々の景色の違いにはいつも新鮮な驚きを感じる。そこから生徒同士がああでもないこうでもないと話し合う姿を見るのが、わたしの楽しみの一つである。
 冒頭の一首。初めてこの短歌に出会ったとき、わたしの目の前には「おれ」の冷蔵庫の中身や「おれ」の住む家の間取りや、生活まで浮かんでしまった。

 「卵置き場」に「涙」が落ちるということは、家庭用の大きな冷蔵庫ではなく、一人暮らし用の小さな冷蔵庫に違いない。風呂上がり、パンツ姿のまま冷蔵庫を開けたものの、冷蔵庫にはいつ買ったかわからない玉ねぎと、のりの佃煮の瓶詰めしかない。1kの部屋はいやに明るく、テレビからは天気予報が聞こえてくる。大学はなんとなく通っているものの、やりたいことはこれといってない。告白されたら付き合ってもいいな、と思うような子はいるが、自分から何かしようという気にはなれずにいる。実家には1、2ヶ月に一度、米をもらいに帰る。彼は冷蔵庫を開けたまま、この後のことを考える。次のバイトはいつだったっけ、明後日の1限はこれ以上休めない、そして今おれのまえには食うものが何もない。ぽたり、と音がして、彼は自分が泣いていることを知る。向こうずねを冷やされながら、彼は自分が途方にくれていると思うーーー
 

 短歌を読むようになってすぐに出会ったこの歌と、そこから自分の中に湧き出したイメージの多さに、わたしは圧倒された。それはまさに「世界」だった。わたしは今、なにかを創作できたのではないかーーという頭の良くない、それでいて甘美な錯覚を覚えるほどに。
 

 ことばを眺め、与えられたアイテムを配置する。完成したジオラマをことばで説明するうち、そこには物語が生まれる。歌の中で時間が流れ始め、感情がぶつかる。その物語は他の誰のものでもない、読者自身の物語だ。それが、短歌の持つ大きな力であり、彼らを助けてくれるものであれば、どんなにか素晴らしいだろうと、わたしはいつも思う。わたしが助けられてきた体験を、いつか上手に伝えられればと、いつも思う。
短歌の授業をするときには、なるべくわたしの解釈を伝えないようにしている。偉くもないのに「先生」と呼ばれてしまっている今、うっかりわたしが「これは大学生の男の子で」なんて言おうものなら、「へーそうなんだ」と納得してしまうことだろう。中高生はいつだって、(そういつだって!)正解にたどり着くことを強いられているからだ。彼らの自由な発想をできる限り邪魔せず、もしも叶うならば「面白いなこれ」と思ってもらえればーーそんな気持ちで、わたしは普段の何倍も丁寧に板書するようにしている。

「先生なんで短歌が好きなの」
生徒たちの質問はいつもストレートだ。
「美しいからだよ」
わたしは自信を持って答える。
「美しいの?」
「美しいよ」
さぁほら行った行った。休憩は終わり。彼らを教室に追い立てながら、さっき生徒からもらったばかりの新しいジオラマの風景を反芻する。これも、わたしの短歌の味わい方の一つである。

作中引用歌出典
穂村弘「シンジケート」(1990年;沖積社)
東直子「青卵」(2001年;本阿弥書店)
河野裕子「日付のある歌」(2002年;本阿弥書店)

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