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あること、ないこと

吉田篤弘「あること、ないこと」について書きたいと思う。

でも、実はまだ、読みおわっていない。119ページまでをいっきに読んだところで、もう、たまらなくなって、書いている。

このたまらなさは、何に似ているかと考えて、こんな光景が浮かんだ。

***

駅のホームに立って電車を待っている。となりは親子連れだ。お兄ちゃんは、6歳くらい。妹は、2歳くらいだろうか。なんでも、「そっちがいい」かつ「じぶんでするの」の時期らしい。お兄ちゃんは散々、自分の一人遊びを邪魔される。母親は何かに忙しく、兄妹の方を見ていない。

何かのきっかけで(そう、まるでコップが倒れたように)妹が泣き出す。頬は横へ広がり、みるみる下くちびるが突き出て、ワアアアンがやってくる。そこへきて、やっと母親が目をあげ、「どうしていつも意地悪するの!貸してあげればいいでしょう!ほら!」と、お兄ちゃんのなにかを妹に与えてしまう。お兄ちゃんは一瞬開きかけた口を、ぎゅっと結び直す。妹はまだ泣いているが、指はしっかりと獲物を握っている。母親はまた何かに忙しくなり始め、お兄ちゃんだけがなまえのない感情に取り残されている。

隣のわたしは、やさしいことばをかけたくてたまらないが、そんなこと、お兄ちゃんにとってはなんの役にも立たないばかりか、ことを荒立てることにしかならないと、十分に承知している。お兄ちゃんは唇を何度かもごもごやって、結局なにも言わず黄色い線を見つめている。

そのときの気持ち。

***

本著のp.91<デイリー・プラネットに書いた6つのコラム>「6.この世はさびしさでまわっている。」から、<ルーシーのいない空>にかけて、「わたし」は、

「妹におもちゃを明け渡さざるを得なかったお兄ちゃん」

「それをホームで横目に見ているわたし」

「自分自身」

の3つに分離され、系統立てられた上で、異星人のマユズミさんからの質問である「あなたが好ましく思う、この惑星ならではのものを三つあげてください」にたいする作中の答えを前に、いっきに消え失せてしまう。

「ああ!!」

と声にならない声をあげて、思わず天を仰ぎ、嘆息し、何かを閃いたような気分で失われたこれまでの自分にさようならをする。(いい文章との出会いは、自己喪失にあると思うのだが、どうだろう?)

***

わたしには、「強いこだわり」がない。「これじゃなきゃやだ」も、「絶対これがいい」も、あんまりない。好きなものは多分、人並みくらいにはあって、牡牛座のO型だから所有欲と我慢強さと頑固さには定評があって、でも、こだわりがない。だから、なににも大成しないのだなあ、と思う。

Eテレの「100分de名著」はわたしの好きなものの一つであるが、観るたびに「わたしも研究者になりたいぃぃ」と思う。こんなふうに一つのことに集中して、深く掘り下げて、多角的に見て、人にキラキラ語りたいぃ。そう思うが、なれない。

なれないから、書いてあることはそのまま飲んでしまう

蛇を踏んだと言われれば蛇を踏んだんだな、と思うし、正式には松本春綱先生である、と言われればそうか正式には松本春綱先生なのだな、と思う。

そのうしろに隠されているらしい寓意とか、恣意とか、隠喩とか、びっくりするほど、読み取れない。小学生の頃、精一杯背伸びして大人の本を読んでいたときの読み方と、なにも変わらない。

畢竟やくざなんだな。呉れるんだな。気をやるんだな。

「100分de名著」の夏目漱石・夢十夜の解説の際には、解釈をしないように気を付けながら話している先生が「まあ、これはすぐ読み取れる内容として西向きの船ですから、西洋に向かっていく日本ということがわかると思うんですが」と前置きしているのを聞いて仰天した。全く気づかなかった。西に向かっているんだろうな、と思っていただけだったから。

そういう読み方をするわたしにとって、クラフト・エヴィング商會ならびに吉田篤弘の文章は、もう、断然すごい。なにがすごいって、タイトルだけで痺れてしまう。


あの灯りのついているところまで

ルーシーのいない空

ヴィヴィアン・リーの頭蓋骨


このタイトルと、小見出しと、小粋な装丁をみているだけで、わたしは恍惚となってしまう。わたしは研究者ではないから、無遠慮に恍惚となっていいのだ。さいこうだ。

まだあと、182ページも、わたしには楽しみが残っている。

夜は長い。お兄ちゃん、家で存分に一人遊びしていますように。






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