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商学から文化研究に到るまで

Rin Tsuchiya

私は今、博士後期課程で文化人類学を学んでいる。「文化」は比較的理解されても、ここに「人類」がつくと途端に理解されない。たまに「人間の骨を測ったりしてるの?」とも言われる。それは別の畑の話だとツッコミを入れることも慣れたものだ。
ごくごく簡潔にいうと、文化人類学は「異文化を学ぶ学問」という事になる。これではいささか不十分だが、それはさておきここでは私が文化を学び始めた経緯についてお話ししたい。

「文化」というものほど捉えようのないものはない。おまけに世の中大勢の人から見れば文化を研究するということは「役に立たない」「金にならない」「意味がない」などとコテンパンに叩かれている。なんなら日本という国からも役立たず扱いされている。その煽りを食らって文系の学部が消えた大学もあるという話だ。
ではなぜ、私がそこまで異端扱いされる文化研究をするに至ったか。それにはいくつか理由がある。

①お金だらけの世の中がキライ!!

端的にいうと金にまみれた世の中が嫌いだ。
と言いつつも、私は学部生の頃は商学部に所属していた。本当は歴史やそれこそ文化などを勉強したかったが、そこしか受からず他に行く当てもなかったので、流されるままに経済学や商学などを勉強した。
そこではやれ会社のリーダーになれだの、人を働かせるにはどうしろだの、効率のいい儲け方はどうだのといったことが毎日のように囁かれていた。まるで経文である。そしてその種々の経文の目的は「金儲け」である。なんとも世俗に埋もれた経文だ。少なくとも私を成仏させることはできない。

それだけではない。この世の中、全てがお金というものに取り憑かれすぎていると私は感じる。確かに生きていくためにはどうしても必要なものだ。これ抜きで生きている人間は存在しないといってもいいだろう。しかし、お金はあくまで交換のための道具である。道具を集めることに躍起になった挙句に、それに埋もれてしまっている人のいかに多いことか。

政治だって、私の目から見たらお金(しかも税金)に埋もれてしまっている。某政党の経済政策の恩恵を受けているごくごく一部の大企業が、社員に対して「(当該政党)に投票しなさい」と命じるという話を何度も聞いた。投票の権利さえ、盲目的にお金を追いかけるあまりないがしろにされる。

そんな資本主義に満ち満ちた、お金をがむしゃらに掻き集めようとする世の中が、私は嫌いだった。もちろん今も嫌いである。

②やっぱり文化!!!

さてお金が嫌いだということに気が付いた私は力の限りオールを漕いで世の中の荒波に負けまいとしたが、この波にはある程度流される他なかった。時に学部3年生、いわゆる進路選択の必要が迫ってきたのだ。

商学徒として潔く骨を埋める気にもなれず、かといって根本的にソリの合わない資本主義の只中に漕ぎ出す気力も持っていなかった。そんな時、ふと文学部のゼミに参加させてはもらえぬだろうかと思いついた。そして恩師の方々は私を快く受け入れてくれた。

たどり着いた先にあったのは、これぞ大学で学ぶこと!!の連続であった。私は民族学考古学という学科のゼミに所属させてもらっていたが、もとより歴史や文化が好きな私にとってここは掛け替えのない存在だった。勉強というのは、こうでなくてはいけない。「研究するなら、これだ!」と思ったのである。

そして私はそこで卒論生の一員として勉強させてもらい、さらに勉強を続けたい、もっと知りたいと決意し修士課程に進んだ。当時、私は京都の魔除けに関心を持って研究していた。私には京都が未知のものでできた塊のように思われ、その「未知」を少しずつ自分の手で切り崩して自分のものにしていくのが何とも嬉しかった。商学というキライなものに囲まれていた反動もあってか、文化を学ぶということがそれだけで嬉しかったのだ。

③私の文化研究

そして今は博士課程で、スペインをフィールドに研究を行なっている。場所は違えど、文化を少しずつ自分のものにしていく喜びは変わらない。

この営みが役に立たない、金にならないと言うのは勝手だ。好きにいってもらって構わない。だが、私が言いたいのは、お金という一つの交換手段を追いかけることもよいが、もっと色々な世界を知ることも同様に重要であるということである。

              * * *

人間が関与していること全てに、文化人類学の射程は伸びているといってよいだろう。殊に近年では災害、セクシュアリティ、紛争etc...といった言葉もニュースなどで耳にするようになった。様々な人間の営みを自分の足で紐解いてゆく、自分の足でなくとも人類学者の歩んだ未知を知るということは、現代社会を生きる人間として、積極的に行なってもよいことだと私は考える。




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