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言説の中の餅文化

文:Rin Tsuchiya

こんにちは。今日はスペインでも京都でもなく、とある大分県の町の話です。
正月ぶりに帰省し、今回こそは羽を伸ばそうと海に行ったり山に行ったり川に行ったり釣りをしたり、かつては日常的にやっていたことを物珍しげに再体験しています。

かつては日常だったのに、いざ客観的になってみると再発見することがたくさんあります。水道水がやたらうまいとか、植生が違うとか、おばあちゃんが発する方言の中に知らない単語を見つけたりとか、いろんなレベルの再発見があります。

その中の一つが餅です。小さい頃は比肩しようと前に出る者の追従を許さないぶっちぎりの甘党だった私は、祖父母から色々なお菓子を与えられるがままもぐもぐと食べていました。そのお菓子の中でも、私の実家あたりでは餅類がよく食べられています。
「餅類」と言ったのは、私のおばあさんが饅頭と餅をしばしば混同して差し出していたので自分の中で区別がついていないため、それと製法が似たり寄ったりなのでこう呼ぶことにしました。

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道の駅の直売所に行くと、なんとまあ色んな種類の餅類があります。名前はなんとなく覚えているけれど、いざまじまじと見てみるとなんの餅なのかわからない、というもの。例えば「しんちょき餅」「かんくろ餅」など。「いきなりだんご」くらいは割と九州のお菓子のうちでもメジャーでしょうか。

見た目は若干違うのだが、何が違うのかよくわからない。共通点は「サツマイモを材料とする」ことくらいです。しかし餅という名に反してもち米は使用しておらず、蒸して作るので饅頭のようでもあります。なので餅類と呼びたいのです。
売っているものの中でよく知られているのは「ヨモギ餅」でしょうか。これはもち米で作るので正真正銘、餅です。

たかが餅類、「その土地でたくさん作られていた作物が反映されている」くらいだろうと思っていたけれど、意外とそこには深みがありました。おばあちゃんに聞くと、餅には当時のエピソードが織り込まれていました。これは「しんちょき餅」の話。
白米が高価だった当時、午前中にはどの家庭でも午前中に芋を乾燥させて粉末にしたものを練ってあんこを詰め、お昼時になるとどの家庭でもヨシの枝を敷き詰めて作った蒸し器でその餅類を蒸してお昼ご飯に食べていたらしい。
30年以上前、おばあちゃんが一時期働いていた職場に持って行っておやつに食べる用にも作っていたらしいのですが、職場のひとにおばあちゃんのしんちょき餅がいたく好評で、今から2〜3年前、思い出したようにその同僚がおばあちゃんに「作り方を教えてくれ」と電話をよこしたほどでした。おばあちゃんは「そんな昔のことは覚えてねぇ」と笑い飛ばしました。

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餅類に限らず、食べ物というのは不思議なものです。栄養があるというだけではなく、調理という人間の介入を挟むことで大きな偏差が出てきます。私のおばあちゃんがしんちょき餅の名手だったように、みさなんの身の回りでも「〇〇さんの作る△△は美味しい」というような評判があるでしょう。

味の評価が人間同士の関係をつなぎ、さらに記憶を引っ張り出してきてエピソードを再構成する。その上興味深いのは、今回の「しんちょき餅」はあくまで言説の間で存在しているということです。
おばあちゃんの作った、大評判の「しんちょき餅」は今この世に現存しません。おばあちゃんや同僚の午後の活動エネルギーになり、その美味しさは食べた者の脳をシアワセ成分で満たしたことでしょう。
どんな材料をどんな配分で混ぜて作ると美味しい「しんちょき餅」が出来上がる、おばあちゃんが作るやつが美味しい、などなど・・・「しんちょき餅」という食べ物を巡る言説の上に、しんちょき餅が存在しています。こうしてみると、料理というのは不正確なレプリカを再生産し続ける営為のように思えてきます。
こういう考え方はオーラルヒストリーや口承伝承と言われる分野が得意とするものですが、餅類ひとつ取ってもこれくらいの考えを巡らせることができます。こういうのが、人文学の楽しみですね。



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