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挨拶の「間」

文:Rin Tsuchiya

以前、スペインで挨拶する際に身体接触が多くてあっけにとられたという記事を書かせてもらった(https://note.mu/_bunka/n/ncfbc16735964)が、今回もスペインの挨拶で戸惑ったことについて書きたい。

私の滞在する村は大きくも小さくもない、人口でいうと3000人の村だ。一歩住宅地を抜けるとヒツジがメエメエ鳴き、ブタがぶぅぶぅ鳴いている平和な村だ。ウシもモゥモゥ鳴いている。たまにディスコで若者がウェイウェイと騒いでいる。
住人全員が知り合いでもないけれど、知り合いの知り合いくらいまで人の輪を広げるとかなりの範囲をカバーできる。

そんな村では、知り合いというより「日本でいう知り合い」程度のつながりはみんなアミーゴ(友達)なので、アミーゴ同士で挨拶をする。もちろん、日本のようにご近所同士も挨拶をするのだが、ここには不思議な「間」がある。
私「(あ、ご近所さんだ)」
ここで目が合う
ご近所さん「・・・」
私「(あれ、怪しまれてる…?また変なアジア人がうろついてると思われてる…?通報とかされない?大丈夫?)」
ご近所さん「・・・やあ」
私「こんにちは(よかった普通に挨拶してくれた・・・)」

ご近所さん同士の挨拶はこんな感じだ。今の数秒目が合ったのはなんだったのか、私の心配を返してくれと心の中で呟いた。日本語で呟いても誰にも解されないからどうせなら呟けばよかった。

目があってから挨拶まで、謎の一瞬がある。この「間」がなんなのかはいまだに説明できないが、なにかを確認しているようでもある。私に対してのみならず、村の人々同士の間にもこんな「間」がある。すぐに挨拶をかわしてはいけないような、ここで一瞬目を合わせなければならないような、日本人の私にとってははがゆい一瞬がある。「こんにちは」と言わせておくれよ、という気持ちになる。そんな瞬間は瞬間的に終わるので、私のちいさな望みはすぐ満たされるのだが、なんとなく違和感が残る。レストランで注文した料理の付け合わせがお品書きとは違っていたけど、食べてみたら美味しかったからまあいいやという感覚に似ている(伝われ)。

日本の場合はどうだろう。少なくとも私が生まれ育った九州の東端に位置する、そこそこの自然とそこそこの市街地が隣接したどちらにも振り切れていない町では目が合えば「こんにちは」くらい言うものだった。

瞬間的に終わる違和感であっても、その後ここで文章を書くに至るほどには引きずっている。おそらくこれが文化と文化の間にある、埋め難く説明もし難いちいさなちいさな差というものなのだろう。


*トップ画像は私の村の住宅地の一角。真っ白に塗られている上に、壁の大半は中空のレンガでできているので夏の太陽光を防いでくれ、涼しく過ごす事ができるそうだ。



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