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「#文化」について話しましょう。

 赤城侑真(せきじょう ゆうま)と申します。一人更新が遅れてしまいましたが、これから随時更新していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

@1  「文化」の定義。

 さて、「文化」について話しましょう。「文化」の言葉の定義については、何となく骨格は摑めるけれど、フワフワしていて、それとなく曖昧なものですよね。そして多くの先人たちが「文化」について言及し、あるいは研究に取り入れてきました。一方で「文化」とは物事を俯瞰してみている言葉でもありますよね。それゆえに、教養のある知識人たちには大きく議論されてきたことですが、実際に住まう人々の中では「文化」はなかなか浸透しなかったように思います。諸説ある話ではありますが、文化は上流階級の人間達によって様々な発展がなされますが、一般人からしたら無自覚に伝承されていく当たり前のものだったかも知れません。

 ここで「文化」の語源に触れてみます。Googleの検索ツールを利用して「文化 語源」 と検索しました(2019/06/24 14:30 検索)。基本はCulture =「Cult : 耕す」について書かれていますね。類語としてはColonyやcolorなどがあります。また日本語の「文化」の語源は「文治教化 : 中国で刑罰や威力を用いないで、学問の力で感化し、教えを導く意味」から取られていると書かれています。これがいわゆる大衆的な「文化」の語源なのでしょう。

 では逆に、文化学者による「文化」の定義についても触れておきます。文化論研究としておそらく最も認知度の高いレイモンド・ウィリアムズは、文化について以下3つ変遷があるとしています。

①culture⇨cultura,colere(耕作);ラテン語=「住む」「耕す」「守る」「敬い崇める」=耕作や手入れ、精神の養育、尊敬や崇拝 。

②15世紀に英語化⇨「耕作」や「自然の生育物の世話」など「何かの世話をすること」。

③16世紀から17世紀⇨「人間の養育」がただの比喩から直接語義へ・「個別の過程」から「一般的過程」へ。

また、この後英語圏で独自の解釈が広がっていき、civilization(文明)とculture(文化)の語彙が複雑を極めて、知的、精神的、美学的発達の全体的な過程を示す言葉。そしてある国民、ある時代、ある集団、あるいは人間全体の、特定の生活様式を指す言葉。最後に「知的、特に芸術的な活動の実践やそこで生み出される作品」のような意味にまで膨らんでいき、産業革命後大規模な社会の変化と関連付けられています。

 一方で私の専門である建築学における文化の見解の一例を示したいと思います。そもそも「文化の価値」への理解が出現したのは19世紀で、文化の価値を認識し始めたのがフランス革命が契機だとされます。泉美智子著書の『文化財としての中世 近代フランスの知・制度・完成に見る過去の保存』(2013)によると、

 【革命のイデオロギーによって扇動された民衆の怒りが、旧体制のしるしとなる文化財への破壊行為となって国土を襲った。その深刻な事態を押しとどめるために造られた言葉が「ヴァンダリズム(vandalisme)」あり、「ヴァンダル族」に由来するこの言葉によって、破壊行為は文明への蛮行という意味づけの元で糾弾された。革命政府は、行きすぎた行為への対策として保護活動を目的とした委員会を設置し、<中略>「歴史的記念物」の概念とその制度の成立とともに発展して行くことになる。】

と書き記されています。詳しく述べると長くなるのですが、革命後の世の中は市民社会で、市民は今まで王政によって支配されていた反動から、国の文化資源や文化そのものを破壊し自らの富に変えていった経緯について話しています。これはアンリ・グレゴワールによって造られた「ヴァンダリズム(vandalisme)=蛮行」と呼ばれています。文化的な価値とはそのような深刻な蛮行問題をなくすこと。破壊行為から文明をなくしていかないものとしての対策として認識され始めて、大きく普及していきました。

 以上、様々な角度から「文化」について述べてみました。どうでしょう?読むのは疲れますよね(笑)。正直言うと読まなくても結構です。僕が何を言いたいかというと「文化」は捉えようがないけれども何か人間と結びつく何かではないですか?ということです。つまりモノでもコトでも人間との結びつきに変遷が生まれれば「文化」になり得るのではないでしょうか?

@2 僕の話。 発信していくことについて。

 そろそろ僕の話をさせていただきますね。

 僕は普段「環境設計」という建築学の分野で、主に「都市再生」を研究しています。研究の一環で長期のイタリア留学が決まり、イタリア都市の生態系を分析して日本へ輸入する手立てを考えるつもりでした。しかし、留学中に見聞きしたものを一人で料理するのも限界あるよな、と先行研究を調べていくと考えてしまいます。そこで留学中に見聞きした経験などをSNS社会を利用して発信していきます。発信する利点は、自分の考えを記録して好きな時に見返せることと、そのストックを使って人と共有しフィードバックを受けるられるところにあると思います。思ったことを書き留めるインプットや、ブログを書く一方通行なアウトプットだけではなく、地道に研究を公開し社会へ投げ掛けられる環境を作り、日本人の鎖国的な思想に訴えかける必要があると常日頃感じています。そんな時に、堀切さんから今回の「独りからはじまる文化研究」のお話をいただき、それでは一度試してみましょうかと、返事をさせていただきました。

 そうは言ったものの、先ほどツラツラと御託を述べていたように「文化」をどう語ると伝えられるのものかと。僕にとって「文化」を異国や異分野という括りで語るにはハードルが高いです。場所も自然も違う場所ではありますから、都市も文化も所詮は人間が考えたり創ったたりしたものなので、全く異化的な捉え方ができないからです。しかし、それを逆さに捉えるとするならば、文化はどの場所でも同じように発生して共有出来るということで、同じ地面の上、地続き的に考えられるのではないか?と思っています。日本都市にも様々な街がありますが、それぞれに世界と繋げて考えられるよう、地盤を作るための活動として位置付けられないだろうかと、これが僕の大きな目標であり、研究から受けられる成果につながるのではないかと思います。

@3 純粋な「文化」との対話。 どう捉えるか。

 そこで、僕が実践していきたいことは、文化にタグ付けをしていくことです。それがタイトルにもある、「#文化」ですが、なんだかチープな方法だなと思いますよね。ただ僕は「文化」をいわゆるトレンドぐらい不定期に現れる存在として扱いたいのです。その真意としては、すべての文化の価値や意義などを一度すべて抽象化し、骨格を取りやめた状態で捉え直し、改めて「文化」を対象のない超純粋形として仕上げてみたいからです。

 今までにない価値観を持つには、モノを純粋に見るということが大切だと思います。モノを見るということは目とモノに距離があって、距離は透明なものであります。僕はその距離をないものとしてみたいのだと思います。そして距離のないモノから遺骸のように見える「そう見えていた」という感覚を、距離を持つモノと比較して導きたいと思います。すごい観念的な言葉に聞こえますが、僕はこの文化研究の出発点として、風景を全て同じように見ていくということを重要にしたいです。

 しかし、#(ハッシュマーク)というものは興味深い考えですよね。SNSという匿名的なコミュニティの発言を全てタグ付けできる。僕は、とりあえず、外国で見ていくものの写真に#文化をつけていき、〇〇と#文化としてみなさんに共有していこうと思います。それが結果としてタグ化され、綺麗分類されていくと理想ですね。(おそらく、ならないと思いますが。)

 世の中でもかなりの順応力のある言葉の一つである「文化」を、いかに純粋に研究できるか。そう言った目線で僕の文章を見ていってくれると嬉しいです。

@4 コツコツと。

 僕がイタリアに留学する期間は来年2020年の3月までです。とても短いです。(研究自体はずっとやっていくつもりですが。)その期間でヨソモノの僕ができることはどれぐらいあるのかわかりませんが、将来的にはナショナリストとして、日本の都市に研究を還元できればと思います。

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