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逆襲のバスク 第3章 風雲編

歴史ストラテジーゲーム『Europa Universalis IV』のプレイ結果を年代記風に脚色したAAR(リプレイ)です。以前、個人サイトに掲載した内容に大幅な加筆・修正を加えました。

本文中の出来事は「歴史家の評価」も含め、すべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。

1560年のナバラ王国。相変わらず小さいままの国土に貴族の不満が高まりつつある。

これまでのあらすじ

ナバラ独立戦争を勝利に導き、植民地の拡大に尽力し、新天地を守るために戦い抜いた偉大な王は世を去った。

王国全体が喪に服する中、先王の政治に不満を持つ貴族たちは正統なナバラ王の擁立を目指して武装蜂起の準備を進めていた。

ガルシア6世の治世

Garcia VI de Navarra(統治2、外交4、軍事3)

ナバラ王ガルシア6世(Stable Diffusion画)

1555年

ガルシア6世は先王の喪が明けるのも待たずに軍隊を動員すると、反体制派の弾圧に乗り出した。尋問に名を借りた拷問は苛烈を極め、獄中で命を落とす者が後を絶たなかった。

謀反を企てたとして獄につながれた貴族の一人はこう漏らしたとされる。「エンリケがあと3年生きておればこの国に正統な王が戻られたものを。」

徹底的な弾圧により王朝の正統性に疑問を唱える者は姿を消した。

1557年

ガルシア6世は独立以来長らく敵対関係にあったフランスと同盟を結んだ。

先王エンリケ2世の死によりフランス側の態度が軟化した側面もあったが、カスティーリャを共通の敵として利害が一致したことが外交に変化をもたらした。

1558年

ジブラルタルの領有をめぐって争っていたイングランドとカスティーリャが講和。講和条約にはイングランドとナバラの同盟破棄が盛り込まれた。

地中海と大西洋をつなぐジブラルタル海峡は古来戦略上の要衝であった。
航海案内書『キターブ・バフリエ』より(16世紀初頭、ピーリー・レイース著)

1560年

この年、ナバラは中南米の熱帯地域で産するココアの交易を独占した。

1563年

2代ナバラ王ガルシア6世は世を去った。享年63歳。

高齢による自然死だったが、獄死した者たちの祟りだと噂するものがあとを絶たなかった。王子はまだ若く、王妃カタリナが摂政となった。

歴史家の評価

高齢で王位を継承したガルシア6世の治世は短かったが、市場の整備に力を入れ、のちのナバラ経済の基礎を作り上げた功績は大きい。

フランスとの同盟を成功に導く一方、イングランドとの同盟は維持できず、その外交手腕に対する評価は分かれている。

苛烈な粛清の是非については長らく議論の的となってきたが、近年の研究で不平貴族による武装蜂起が目前に迫っていたことを示す史料が続々と発見されており、内戦の危機を未然に防いだことは間違いないと考えられている。

ペドロ2世の治世

Pedro II de Navarra(統治4、外交4、軍事3)

ナバラ王ペドロ2世(Stable Diffusion画)

1570年

成人したペドロ2世がナバラ王に即位し、カタリナは摂政の座を退いた。ペドロ2世は若くして英邁の誉れ高く、人々はナバラ王国の新たな黄金時代を予感した。

即位早々ペドロ2世は重大な決断を迫られた。中央アメリカの盟友シウに対してイングランドが戦争を仕掛けたのである。シウとの協調路線は初代国王エンリケ2世が定め、先王が引き継いだ国是であった。

しかし、今のナバラにイングランドと戦う力がないことをよく知っていた国王はシウの使者を謁見もせずに追い返した。ナバラの後ろ盾を失ったシウはこののち衰退の一途を辿ることになる。

1571年の中央アメリカ。メキシコ湾に進出したイングランドと先住民のシウが衝突した。

1571年

ネーデルラント諸州がカスティーリャの支配に対して反乱を起こし、ネーデルラント連邦共和国を建国。ネーデルラント独立戦争が勃発した。

ペドロ2世は即座にネーデルラントへの支援を表明。さらにフランスがカスティーリャに宣戦布告するに至り、風向きをうかがっていた低地諸国は次々とネーデルラントに合流した。

1574年

ナバラの探検隊が黄金の国と伝えられる極東の島国・日本に到達した。

1575年

ペドロ2世は外交政策の大転換を宣言。フランスとの同盟を破棄するとイングランドと同盟を結んだ。

1576年

カスティーリャがネーデルラント、フランスに相次いで敗北。ネーデルラントは独立し、カスティーリャの旧ブルゴーニュ領は消滅した。

フランスは領土をピレネー山脈の南にまで拡大。ナバラ本国を取り囲んだ。

1576年のヨーロッパ。急激に版図を拡大したフランスは再びナバラの脅威となった。

1581年

3代ナバラ王ペドロ2世が急死。享年26歳。将来を嘱望された王は若くして世を去り、王妃カタリナが摂政となった。

歴史家の評価

ペドロ2世は外交面でその才能を発揮した。先住民宥和政策の放棄、ネーデルラントの独立支援、フランスからイングランドへの鞍替えなどは、その後のナバラ外交に大きな影響を与えることとなった。

フアン3世の治世

Juan III de Navarra(統治4、外交5、軍事4)

ナバラ王フアン3世(Stable Diffusion画)

1586年

成人したフアン3世がナバラ王に即位し、カタリナは摂政の座を退いた。

フアン3世は先王の血を受け継ぎ、幼少より非凡の才を発揮したとの逸話が残る。ナバラ王国の人々はその治世が長く続くことを祈った。

1590年

中央アフリカの植民地をめぐり、イングランドが現地のクバ王国と戦争を始めた。イングランドから援軍を求められたフアン3世は陸軍の主力部隊をアフリカへ派遣した。

攻撃側:イングランド、ナバラ、他
防御側:クバ、他

17世紀初頭のアフリカ。前人未到の奥地ではクバ王国が勢力を拡大していた。

1592年

ナバラ軍の主力部隊はアフリカの密林でクバ軍の襲撃を受け、数と地の利にまさる敵に手痛い敗北を喫する。敗走を余儀なくされたナバラ軍は密林の奥地で完全に退路を断たれた。

全滅を覚悟したナバラ軍であったが、現地指揮官の奮戦で包囲網の突破に成功。奇跡的にカリブ海への帰還を果たした。フアン3世は生還者を英雄として讃えた。

1593年

フアン3世は東洋に使者を送り、明、日本と相次いで同盟を結んだ。

この年、22歳でまだ独身だったフアン3世は1歳年下の庶民の娘カタリナに心を奪われた。相思相愛の関係になった二人は保守的な貴族の反対を押し切って結婚する。この結婚は国民に祝福され、新しい王妃は庶民から親しみをもって迎えられた。

1596年

フアン3世と王妃カタリナの間に嫡子フランシスコ誕生。

1597年

8年におよぶクバ王国との戦争がようやく終結した。

1599年

ナバラ艦隊が初の世界一周に成功。艦隊は丸二年かけて偉業を成し遂げた。

世界一周を成し遂げた船が描かれた地図(1590年)。

1602年

教皇が王妃カタリナは異端であるとして婚姻の無効を宣言した。フアン3世は教皇への対抗措置として上訴禁止法を制定。教皇とフアン3世の対立は決定的なものとなった。

1604年

カリブ海に初めてフランスの私掠船が出現。以後、カリブ海ではフランスの私掠船とナバラ艦隊の飽くなき攻防が繰り広げられた。

1606年

ポルトガルがモロッコの攻勢を受けて本国の半分を喪失。さらに、外交的にも孤立した。フアン3世はこの機を逃さずポルトガルに宣戦布告した。

攻撃側:ナバラ、他
防御側:ポルトガル、他

1609年

戦争はナバラの完全勝利に終わり、講和条約が結ばれた。ポルトガル国王は残る本国領土をすべてナバラに割譲し、南アメリカの植民地に落ち延びた。

1609年のヨーロッパ。ナバラ王国はポルトガル北部を獲得。悲願の版図拡大に成功した。

1615年

この年、ナバラの植民地でタバコのプランテーションが初めて建設された。

1617年

植民地の拡大を目論むイングランドは西アフリカのヌペ族に対して戦争を仕掛けた。ヌペ族はモロッコと盟約を結んでおり、モロッコと旧ポルトガル領は地続きであった。

イングランドから参戦を求められたフアン3世はモロッコと戦うことを決断した。

攻撃側:イングランド、ナバラ、他
防御側:ヌペ、モロッコ

1620年

ナバラ海軍はジブラルタル海峡を封鎖。モロッコ軍のヨーロッパ侵攻を阻止した。戦争はイングランド側の全面勝利で幕を閉じ、ナバラはモロッコ領の一部を獲得した。

1620年のヨーロッパ。イングランドが主導した戦争に勝利し、ナバラはさらに勢力を拡大した。

1622年

フアン3世は対フランスで利害が一致したボヘミアと同盟を結んだ。

1623年

ナバラの裏庭だった南アメリカにイングランドが侵略の矛先を向けた。伝説の黄金郷の征服が目当てである。続いてフランスも侵攻を開始した。

1631年

イングランドとフランスが南アメリカに侵攻したことに危機感を持ったフアン3世は一向に文明化しないカハマルカに見切りをつけ、自ら征服する意志を固めた。

フアン3世はカハマルカに使者を送ると盟約の破棄を通告した。

現在のカハマルカ市。インカ帝国最後の皇帝が幽閉され、最期を迎えた地としても知られる。

1635年

明が日本への侵攻を開始した。はるばる海を越えて日本から救援を求める使者が訪れたが、フアン3世は使者に謁見を許さなかった。

1636年

フアン3世はかつての盟友カハマルカに自ら手を下すことを決断した。

攻撃側:ナバラ
防御側:カハマルカ

南アメリカではイングランド、フランスに続き、ポルトガルが起死回生の大攻勢を行っていた。もはや、カハマルカの文明化を待つ猶予は残されていなかった。

1638年

ナバラ軍の前にカハマルカはなすすべもなく降伏。領土の半分を失った。フアン3世は滅亡していたキトとチムーを再興し、ナバラ王国の傀儡とした。

1639年の南米アンデス地方。カハマルカの支配地域はナバラとポルトガルに侵食された。

1639年

フアン3世はイングランドの助けを借り、再びポルトガルに宣戦布告した。

攻撃側:ナバラ、イングランド、他
防御側:ポルトガル、他

1640年

王妃カタリナ死去。享年68歳。庶民の出でありながら王妃となり、国民に広く愛されたカタリナは夫を残して先立った。

宿営地で訃報に接したフアン3世はしばし天井を見上げて沈黙し、その後何事もなかったかのように指揮を執り続けたと言われる。

ナバラ王妃カタリナ(Stable Diffusion画)

1641年

ポルトガルとの戦争はナバラ側の完全勝利に終わった。歴史家の多くはこの戦争を境にナバラが列強の仲間入りをしたと考えている。

1643年

4代ナバラ王フアン3世は王妃カタリナの後を追うように世を去った。享年72歳。狩猟中の事故であった。

46歳の嫡子フランシスコ1世が国王の座を継承した。

1643年のカリブ海周辺。ナバラだけでなくイングランドとフランスも植民地建設を進めている。

歴史家の評価

フアン3世は類稀なる才能で大国ポルトガルに勝利し、ナバラを列強の座に押し上げたことで高く評価されている。

しかし、その治世の初期において「密林の悲劇」と呼ばれる大敗を喫したことを忘れるわけにはいかない。フアン3世が生還者を英雄と讃えたのは犠牲の大きさを隠すための政治的演出であったと歴史家の多くが指摘している。それほどまでにナバラ軍が受けた損害は大きかった。

一方で、フアン3世は重商主義の積極的な推進者でもあった。カリブ海の主要港は新大陸の交易を支配するまでに成長し、そこからもたらされる富がナバラ海軍を支えていた。一般的な推計によれば当時の世界の海軍力は上からイングランド、明、日本、ナバラの順であり、フアン3世の同盟政策はこれを念頭に置いたものであった。

彼はまた家庭的な側面を持ち、恋愛結婚だった王妃と一人息子を変わらず愛した。フアン3世と教皇が対立するきっかけとなった王妃カタリナの異端疑惑であるが、カタリナが実際に新教徒であったことを示す証拠は見つかっていない。庶民出身の王妃に反発する貴族が教皇周辺に働きかけた結果であるとするのが通説である。

ナバラ王室と教皇との確執はフアン3世の死後も続くことになる。

現在の状況

  • 統治技術:レベル19(大聖堂)

  • 外交技術:レベル19(戦闘用ガレオン)

  • 軍事技術:レベル19(グスタフ歩兵)

  • アイデア:探検7、拡張7、軍量6、交易7、経済0

  • 列強順位:7位(1位:明)

  • 植民地数:63箇所

  • 交易収入:70ダカット/月

  • 交易首位:タバコ、砂糖、ココア

次回予告

ナバラ王国に重商主義を確立し、大国ポルトガルを破り、列強の座を勝ち取った偉大な王は愛する王妃の後を追うように世を去った。

ヨーロッパでの勢力拡大を果たしたナバラは、カスティーリャ、フランス、教皇と対立する一方、植民地拡大戦争への協力を通じてイングランドとの間に強固な信頼関係を築いていた。

列強間の利害対立をめぐり、新大陸が風雲急を告げる。

(第4章 飛翔編に続く) 

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