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逆襲のバスク 第4章 飛翔編

歴史ストラテジーゲーム『Europa Universalis IV』のプレイ結果を年代記風に脚色したAAR(リプレイ)です。以前、個人サイトに掲載した内容に大幅な加筆・修正を加えました。

本文中の出来事は「歴史家の評価」も含め、すべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。

1620年のナバラ王国。旧ポルトガル領への進出を果たし、順風満帆に見える。

これまでのあらすじ

ナバラ王国に重商主義を確立し、大国ポルトガルを破り、列強の座を勝ち取った偉大な王は愛する王妃の後を追うように世を去った。

ヨーロッパでの勢力拡大を果たしたナバラは、カスティーリャ、フランス、教皇と対立する一方、植民地拡大戦争への協力を通じてイングランドとの間に強固な信頼関係を築いていた。

フランシスコ1世の治世

Francisco I Febo de Navarra(統治3、外交6、軍事1)

ナバラ王フランシスコ1世(Stable Diffusion画)

1644年

この年、ナバラ商人がイエメン商人に代わってコーヒー交易を支配した。プエルトリコに建設されたプランテーションがその原動力となっていた。

1653年

フランシスコ1世は属国キトの旧領回復を名分に南米のカハマルカを攻めた。翌年、カハマルカは全面降伏。かつての盟友は事実上滅亡した。

1655年の南アメリカ。ヨーロッパの列強による植民と征服はとどまるところを知らなかった。

1657年

ヨーロッパに衝撃が走った。フランスがスコットランド併合を宣言したのである。スコットランドはフランスの属国となることでイングランドの侵略を免れていた。ナバラも独立戦争に失敗していれば同じ道を辿ったであろう。

1658年

フランシスコ1世はペルー地方にあると噂される黄金郷の征服を目論み、ポルトガルに宣戦を布告した。

攻撃側:ナバラ、他
防御側:ポルトガル、他

黄金郷エル・ドラードの位置が記されたペルーの地図(1652年)

1659年

再びヨーロッパに激震が走る。今度はカスティーリャによるアラゴン併合であった。

1660年

フランシスコ1世はポルトガルとの戦争が終わるのを待たず、カスティーリャの攻撃を受けて疲弊していたモロッコに宣戦布告した。

攻撃側:ナバラ、他
防御側:モロッコ

1661年

ポルトガルが全面降伏。ペルーの大部分がナバラ王国の支配下に入った。

1662年

ナバラ軍の主力が北アフリカの砂漠地帯でモロッコ軍の奇襲を受けて孤立。一時は全滅を覚悟するも、海軍と連携して海上への脱出に成功し、九死に一生を得た。

フランシスコ1世はモロッコに使者を送り、有利な条件で講和条約を結んだ。モロッコは旧ポルトガル領を放棄してヨーロッパから手を引くことを承諾。ここに二度目のレコンキスタが完成した。

さらにこの年、フランシスコ1世は長年にわたる交渉の末、オスマン帝国との同盟締結に成功する。

1662年のヨーロッパ。スコットランドとアラゴンが併合され、地図から姿を消した。

1664年

教皇との対立が続く中、フランシスコ1世は突如皇帝を僭称。自ら戴冠するとナバラ帝国の樹立を宣言した。この時、皇帝フランシスコ1世は67歳。ナバラの歴史は新たな段階に入った。

1666年

皇帝となったフランシスコ1世にネーデルラントから書簡が届いた。いわく「貴殿の悪行はアイルランドから中国まで知れ渡っているのをご存知か?」

激怒した皇帝は書簡を破り捨て、ネーデルラントとの戦争準備を命じた。

1668年

ペルーの統一を目指す皇帝フランシスコ1世は、カハマルカの残党を支援しているとの名目で南米奥地のチャルカを攻めた。

圧倒的な技術力の差を背景にナバラ軍は連戦連勝。翌年チャルカは降伏し、カハマルカは滅亡した。ここにペルー統一は達成された。

1669年

この年までに、ナバラ帝国は南米の傀儡国チムーとキトを併合した。

1670年の南アメリカ。先住民国家は姿を消し、列強間の利害対立が激しさを増している。

1670年

皇帝フランシスコ1世は上訴禁止法を撤廃。先代フアン3世以来、68年間にわたって続いた教皇との確執を歴史的和解に導いた。教皇はフランシスコ1世の戴冠を公に認め、フランシスコ1世は名実ともに皇帝となった。

1671年

初代ナバラ皇帝フランシスコ1世が崩御。享年74歳。皇太子は昨年病死しており、26歳の皇后ブランカが摂政となった。

歴史家の評価

フランシスコ1世が皇帝を称した1664年より前を王国期、それ以降を帝国期と呼ぶ。王国期における領土拡大の手段はもっぱら植民であったが、帝国期に入ると征服がそれに取って代わった。

フランシスコ1世は短気な性格で、戦を好み、数々の征服戦争に勝利したが、同時に類稀なる外交手腕の持ち主であった。その手腕は、オスマン帝国との同盟、教皇との和解を成し遂げたことで証明されている。モロッコ征服戦争で「密林の悲劇」と同等の敗北を喫しながら、有利な条件で講和したのも彼の外交力のなせる技である。

彼が唯一なし得なかったのは、その権力を自らの子供に直接引き継ぐことだった。亡き前妻との間に生まれた皇太子は一年早く世を去り、若き後妻との間に生まれた新皇太子はまだ赤子であった。

誕生したばかりの帝国は、皇后ブランカの手に委ねられた。

ブランカの治世

Blanca de Lerín(統治3、外交3、軍事3)

摂政ブランカ(Stable Diffusion画)

1672年

摂政ブランカは亡き皇帝の遺志を継ぎ、ネーデルラント領コロンビアに宣戦布告した。ネーデルラント本国は他の戦争のさなかであり、植民地に援軍を送らなかった。

翌年、戦争はナバラの勝利で終わり、ネーデルラント領コロンビアは帝国に併合された。

1677年のカリブ海周辺。帝国の版図はカリブ海から南アメリカ北部全域にまで及んだ。

1673年

摂政ブランカは陸軍の再編と帝国全土を網羅する要塞網の建設を命じた。

1680年

摂政ブランカはイングランド、オスマン、明の支援を取り付けると、カスティーリャに対して全面戦争を挑んだ。

戦争はナバラ海軍の奇襲作戦で始まり、カスティーリャ本土は瞬く間に完全占領された。

攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、明、他
防御側:カスティーリャ、ポルトガル、他

1682年

南北アメリカの植民地を巻き込んだ戦争はナバラ側の決定的勝利で幕を閉じた。ナバラはイベリア半島西部を獲得するとレオン王国を再興。これを傀儡国家とした。

1683年のヨーロッパ。日の沈まぬ帝国と讃えられたカスティーリャは落日の時を迎えていた。

1686年

2代皇帝ゴドフレド1世が即位。摂政ブランカはその地位を退いた。

歴史家の評価

ナバラ帝国の版図を大きく拡大したことでブランカは帝国臣民の信望を集めており、廷臣の中には彼女が皇帝を傀儡にして君臨し続けるのではないかと危惧する者もいた。

しかし、ブランカは新皇帝が即位すると政治の場から完全に退いた。この行動を高く評価する歴史家は多い。もし彼女が権力を振るい続けたならば、いずれは外戚の専横を招き、彼女と皇帝の間で帝国を二分する内戦が生じた可能性は高い。

ブランカは当時の女性としては極めて政治感覚に優れ、軍事にも通じていた。それは彼女が歴史に残した業績からも明らかである。もし彼女がナバラ帝国を簒奪していたら、現在の歴史は我々が知るものとは大きく異なっていたであろう。

ゴドフレド1世の治世

Godofredo I de Navarra(統治5、外交4、軍事1)

ナバラ皇帝ゴドフレド1世(Stable Diffusion画)

1687年

16歳の皇帝ゴドフレド1世は同盟国イングランドから8歳年上の皇后エリザベスを迎えた。

1691年

ゴドフレド1世とエリザベスの間に皇太子アンドレスが誕生。

1694年

オスマン帝国がオーストリアと開戦。同盟国であるナバラも参戦した。

ナバラ軍はオーストリア側についたカスティーリャの本土を瞬く間に占領。遭遇戦で窮地に陥ったナバラ軍をレオン王国軍の精鋭5千人が救援して伝説となった。

攻撃側:オスマン、ナバラ、他
防御側:オーストリア、カスティーリャ、他

1695年

ナバラ帝国は傀儡であったレオン王国を併合。伝説の5千人は新設された近衛兵連隊の中核となった。

この年、かつての盟友シウが滅亡。中央アメリカの地図から先住民国家が姿を消した。

1702年のカリブ海周辺。列強による征服により先住民国家は次々と姿を消していった。

1697年

戦争がオスマン側の優位で進む中、帝国内では騒動が持ち上がっていた。

当初はナバラ臣民に慕われていた皇后エリザベスだったが、イングランドの国教である聖公会の信仰を放棄していないとの噂が広まり、臣民から婚姻の無効を主張する声が上がったのだ。

皇太子はまだ6歳。ゴドフレド1世は臣民の声を無視して皇后と添い遂げる道を選んだ。

1699年

オーストリアがオスマンに全面降伏。ナバラ帝国はカスティーリャ領の半分を獲得した。

1702年のヨーロッパ。ナバラの隆盛は揺るぎなく、カスティーリャは没落の一途を辿る。

1703年

この年、カリブ海は世界最大の交易地となった。旧大陸の商品と新大陸の産物はすべてカリブ海を経由して取引され、その重要性は今やヴェネツィアやジェノヴァを上回るほどになっていた。

1704年

皇帝ゴドフレド1世は大交易商テオバルドを財務尚書に登用した。以後、財務尚書は代々交易商出身者が勤めることが慣例となる。

1707年

皇帝ゴドフレド1世は北アフリカのチュニスに使者を送り、盟約を結んだ。この頃、帝国はバルバリア海賊の襲撃に悩まされており、チュニスに海賊を取り締まらせるのが盟約の目的であった。

1708年

この年、帝都でささいな事件が発生した。17歳の皇太子アンドレスは先住民と親密になっていたが、それに不満を持つ一部貴族が皇太子を排除する陰謀を企てたのだ。皇帝ゴドフレド1世は陰謀に関わった者を厳罰に処した。

皇太子アンドレス(Stable Diffusion画)

1709年

皇帝ゴドフレド1世はロシア帝国と同盟を結んだ。この時のナバラの同盟国はイングランド、ロシア、オスマン、ボヘミア、チュニス、明。

宿敵フランスに対する包囲網は完成した。これを第一次対仏大同盟と呼ぶ。

1710年

皇帝ゴドフレド1世はバスク人の解放を掲げ、独立記念日を期してフランスに宣戦を布告した。ナバラ側の戦力は陸軍で3倍、海軍で2倍と、フランス側を大きく上回っていた。

攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、ボヘミア、他
防御側:フランス、他

1711年

皇帝ゴドフレド1世のもとには各地から戦勝報告が届いていた。ナバラ軍はピレネー山脈を越え、フランス本土に侵攻を開始した。

しかし、そこに飛び込んできた報せが皇帝を凍りつかせた。狩猟中の事故で皇太子アンドレスが死亡したのだ。享年20歳であった。

この時、皇帝40歳。皇后48歳。後継者は他にいなかった。三年前に起きた陰謀の残党による暗殺ではないかとの噂がまことしやかに囁かれた。

1712年

ナバラ軍はフランスの首都パリを急襲すると、あっけなく陥落させた。ヴェルサイユ宮殿で結ばれた講和条約により、フランスはイベリア半島の領土を割譲。ナバラ帝国の領土はついに本国と地続きになった。

講和条約が結ばれた夜、皇帝ゴドフレド1世は皇后エリザベスを裏切った。不貞の罪を犯したのだ。そして誕生した子は娘であった。皇帝は彼女レオノールを皇太子に指名したが、彼女は不貞の子と呼ばれることになった。

1712年のヨーロッパ。フランス領に脅かされていたナバラ本国はついに解放された。

1714年

皇帝ゴドフレド1世はバスク人の完全な解放を掲げ、カスティーリャに宣戦を布告した。

攻撃側:ナバラ、イングランド、チュニス、他
防御側:カスティーリャ、ポルトガル、他

1716年

戦争がナバラ側の優勢で進む中、明はナバラに同盟の破棄を通告した。この時、明はロシアと敵対しており、同盟の維持は困難になっていた。

1718年

カスティーリャはナバラに全面降伏。ナバラ帝国の旗の下、イベリア半島の統一は完成し、臣民は皇帝万歳を叫んだ。

ナバラ帝国の旗の下、臣民は皇帝万歳を叫んだ(画像出典)。

1720年

帝国経済の基礎を築き上げた財務尚書テオバルドが死去。皇帝は後任に貿易商出身のフェルナンドを登用した。

1724年

この頃、皇帝ゴドフレド1世は征服と浪費に傾倒するようになっていた。皇帝は財務尚書フェルナンドの諫言も聞かず、莫大な国費を投じて大宮殿の造営を命じた。

そればかりか、皇帝は征服を目的としてフランスに宣戦布告した。ナバラ初の帝国主義戦争とされるこの戦争は第二次対仏大同盟と呼ばれる。ナバラ側の戦力は陸軍で4倍、海軍で3倍と、フランス側を圧倒的に凌駕していた。

攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、ボヘミア、チュニス、他
防御側:フランス、他

1727年

第二次対仏大同盟はナバラ側の完全勝利に終わった。講和条約が結ばれ、フランスは首都パリを含む本国の中心部を失った。皇帝ゴドフレド1世はガスコーニュ公国を創設し、帝国の傀儡国家とした。

この年、ナバラ帝国で大臣が全員辞表を提出する騒ぎが起きた。終わりのない戦争に抗議する大臣たちを前に、皇帝はこう吐き捨てた。

「余はナバラなり。」

財務尚書フェルナンドはなおも食い下がった。戦争は経済を蝕んでおり、国家財政は破綻寸前であると。皇帝は渋い顔をすると貨幣の改鋳を命じた。

さらにこの年、オスマン帝国がコモンウェルスに宣戦布告する。オスマンから援軍を求められた皇帝は二つ返事で承諾した。

攻撃側:オスマン、ナバラ、他
防御側:コモンウェルス、オーストリア

1727年のヨーロッパ。帝国の下にイベリア半島は統一され、フランスはパリを失陥した。

1728年

帝国国内で立て続けに反乱が起きた。フランスの諜報員が背後で暗躍しているのは明らかであった。

1729年

最前線の指揮官から兵士の脱走が相次いでいるとの報告が届きはじめた。長引く戦争と反乱の続発により帝国の予備兵力はついに底を尽いた。

1731年

皇后エリザベス死去。享年68歳。晩年の皇后は皇帝と不仲になり、不遇な後半生だったと伝えられる。

この年、コモンウェルスがオスマンに大敗北を喫し、戦争は終結した。講和条約が結ばれた直後、オスマン帝国で政変が発生。オスマンの新政権はナバラとの同盟関係を一方的に破棄した。

1735年のヨーロッパ。欧州の覇権という野望を抱くのはナバラ帝国だけではなかった。

1736年

ナバラ帝国とオスマン帝国の間で緊張が高まる中、オスマンがボヘミアに宣戦布告。同盟国ボヘミアから救援を求められた皇帝ゴドフレド1世は勇み立ったが、大臣全員の猛反対を受け渋々オスマンとの決戦を断念した。

この時、オスマン側にはロシアが参戦しており、ボヘミアを救援することはロシアとの同盟を破棄することを意味した。すでにナバラの同盟国はイングランド、ロシア、チュニスの3カ国にまで減っていた。

この年、2代皇帝ゴドフレド1世が崩御。高齢による自然死だった。享年65歳。新たに至尊の冠を戴いたのは24歳の女帝レオノール1世であった。

歴史家の評価

ゴドフレド1世は絶対主義を代表する君主として知られる。彼の統治は皇太子アンドレスの死を境に大きく変わった。それまではバスク人の解放を掲げて戦っていたゴドフレド1世であったが、アンドレスの死後は一転して征服そのものが目的化した。彼は近侍の者に「余の心を満たしてくれるのは征服欲だけよ」と漏らしたと言われる。

最愛の一人息子を失ったことが、国家を犠牲にしても家族を守ってきた皇帝にどんな心境の変化をもたらしたのであろうか。その変化は「不貞の子」レオノール1世にも影響を与えた。ゴドフレド1世は彼女を新たな皇太子に指名したが、日常生活では冷淡だった。

そんな彼女を陰から支えたのは皇后エリザベスだった。当時の重臣の回顧録には皇后の政治力を高く評価する記述が多く見られる。帝国の存亡に関わる無謀な戦争を直前で回避したのがゴドフレド1世の人生最後の仕事となった。

1727年のカリブ海周辺。列強による植民地争奪競争は終わりを迎えつつある。

現在の状況

  • 統治技術:レベル26(権力分立)

  • 外交技術:レベル26(インディアマン)

  • 軍事技術:レベル26(軽歩兵中隊)

  • アイデア:探検7、拡張7、軍量7、交易7、経済7、外交7、軍質0

  • 列強順位:2位(1位:明)

  • 植民地数:105箇所

  • 交易収入:410ダカット/月

  • 交易首位:タバコ、砂糖、ココア、コーヒー

次回予告

かつて大国の狭間で翻弄されていたナバラはついに帝国となった。

旧大陸と新大陸の交易を支配することで蓄積した莫大な富を背景に、ナバラ帝国はアンデス山脈とイベリア半島を次々に征服。二度の対仏大同盟を主導し、その国力は今や世界最高水準にある。

しかし、不敗を誇る帝国の前に立ちはだかったのは、常勝の帝国だった。

(最終章 怒涛編に続く)

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