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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長

ここからは、学問的特長を考えたいと思います。
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福田博士の研究分野は、やはり労働問題を中核として、現実の社会的課題と向き合う中で多岐に亘り発展しました。

(1)学問的基礎

福田博士の学問的基礎は、一般に思われているところとは異なり、A・マーシャル(Alfred Marshall。Cambridge学派の祖。1842-1924)の理論経済学にありました。福田博士の情報源を鑑みると、当初から鼎軒田口卯吉に惹かれつつ、次第にその発展系としてマーシャルに私淑するようになり、やがて日本で得られる経済学の最新情報の主流がイギリスのものからドイツの情報へと変化していく状況下、ロッシャーに始まる歴史学派に影響を受けたと考えるのが自然でしょう。


関一博士の追憶によれば、福田博士は、学生の頃マーシャルの『経済学原論(Principles of Economics)』(1890年(明治23年))を愛読していました。明治23年は、福田博士が17歳で高等商業学校に入学した年であり、そして、高等商業学校の研究科に進学した後になって、W・ロッシャー(Wilhelm G. F. Roscher。ドイツ歴史学派の祖。1817-1894)の著書を精読し、歴史派経済学に興味をもつようになったとのことです。おそらくは指導教官である和田垣謙三の示唆があったように推察されます。

① 鼎軒田口卯吉とA・マーシャル

鼎軒田口卯吉とA・マーシャルは、庶民の立場(又は貧困対策)を重視した点、理論を尊びつつも理論の限界を認識していた点、そして歴史について深い造詣がある点で良く似ています。

(イ) 経済学に対する認識

 鼎軒は、「経済学は人為現象に就いて論ずる学問なり」と主張し、「富の学問」や「交易の学問」といった定義では経済学が矮小化してしまうと戒めていました(「経済学は何を論ずる学問なるか」1884年(明治17年)。なお、『自由交易 日本経済論』内「第一 緒言 経済学の主意を論す」1878年(明治11年))。

一方、マーシャルも、「政治経済学または経済学は、日常の事どもにおける人間の研究であり、人間の個人的・社会的行為のうちで福祉の物的条件の獲得・利用に緊密に結びついた部分を考察対象とする。従い、政治経済学または経済学は、一方において富の研究ではあるが、他方のより重要な側面としては人間の研究なのである」(『経済学原論』)と述べています。経済学を人間の研究とする点で、両者に共通性があったことが分かります。


(ロ) 市場万能主義への懐疑

鼎軒は、日本を国際的な貿易国家としようの独自の将来構想から、明治政府の産業保護政策に対して徹底して反対をしました。このことから戦闘的な自由主義経済論者と見做される傾向がありますが、「経済学の区域は需要供給の理の支配する所なり」としつつも、一手段に過ぎない「交易」だけで経済現象を説明できると考えることは間違いであると喝破していたことを無視してはならないでしょう。


マーシャルは、近代経済学の様々な分析道具(例えば、部分均衡分析、マーシャルのk、弾力性概念、消費者余剰・生産者余剰など)を発案した人物ですが、古典的な経済理論における消費者が自己の欲求の最大の満足のために行動するという仮定を痛切に批判しました。刹那的な享楽に身を委ねる生き方(Standard of Comfort)ではなく、生活の質の向上に役立つ生き方(Standard of Life)が重要と考えたからです。

さらに『経済学原理』においては、現代の競争には建設的なものと破滅的なものの2種類があり全面的に競争というものを肯定できない上、建設的な競争であっても理想的な愛国心に根ざした協働に比べれば福祉への寄与は少ないと分析していました。そして、理論そのものの限界についても認識していました。

例えば、数理経済学の大家であるエッジワース(Francis Ysidro Edgeworth。Oxford大学教授。1845-1926。Economic Journalの創刊以来の編集者としても活躍。エッジワース・ボックス等の発明者。)に宛てて書いた手紙(1902年(明治35年)8月28日付)の中でも、以下のように述べています。


私の見解では、『理論』は重要です。理論について研究するのでなければ、何人たりとも経済問題を本当に把握することはできません。しかし、私の考えるところでは、抽象的、一般的、あるいは理論的な経済学が『本来の』経済学ということほど不幸な考え方はありません。それは私には、経済学の本質的部分ではあっても、非常に小さな部分であるように思われます。そしてそれ自体は単なる暇つぶし、否、あまり良い暇つぶしですらないでしょう。

今日では忘れがちですが、そのエッジワースも、生産能力に制約があると市場均衡が達成されない可能性があるなど、前提条件をおかずに市場を信頼することについての危険性に注意を喚起していたことを改めて留意されても良いでしょう。

(ハ) 労働者・困窮者へのまなざし

福田博士は、江戸っ子である鼎軒が「同じく文明開化論者であり乍ら、福沢[諭吉]先生とは事異って始終一貫、政治的被圧迫者のイデオロギーを頑守せられた。而して、一切の事を其のイデオロギーを以て観察し、解釈し、言論せられた」と理解し、自己との共通点を見出していました。


他方、マーシャルは、厳格な福音派キリスト教徒であった父によって牧師となるために厳しく躾けられて育った人物です。イースト・エンドの貧民街を見て、ヴィクトリア朝というイギリスの最盛期にあって何故に貧困が存在するのか懊悩し、そのことが経済学研究を本格化させる契機となりました。

そのようなマーシャルは、労働者問題に関しても特徴的な議論を展開しています。マンチェスター商工会議所の唱えていた賃金基金説(企業の利潤は外在的に決定されてしまうため、労働者の賃金を下げることで企業利潤を確保し経済を進歩させようとする考え方)に反対し、賃金を高水準とすることで生産性を高め長期的な観点から資本を増大させしめて企業・労働者双方の幸福を追求すべきと主張したのです。

こういった点が、福田博士の鼎軒・マーシャルとの親和性を生んだのでしょう。


(ニ) 歴史観

鼎軒の歴史学・歴史観について、福田博士の目には経済学と理論的に結びついていないと捉えられていた点について前述のとおりです。

マーシャルは、将来構想として、経済騎士道に則った実業家と、生活の質を高めようとする労働者とが、労使対立ではなく労使協調によって手を握ることで、貧困を撲滅しつつ企業の生産性が向上し、国民所得が増大して、社会的進歩が実現する可能性に期待をかけました。

この点に福田博士が惹かれた痕跡が、1894年(明治27年)に作成した修学旅行報告書(群馬・長野の製糸業についてのフィールドワークの報告書。当時はフィールドワークを修学旅行と言った。)に、マーシャルを引用して「一国徳義の進歩は即ち一国生産の進歩を誘導する所以」と書かれている処などに残されています。


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