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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長(その2)


② ロッシャーからブレンターノへ
福田博士が学生時代に精読したというロッシャーは、経済学は、そのスタート、ゴールともに「人間」にあるとし、歴史的進化の周期的な段階論を唱えていました。そして、アダム・スミス、マルサス、ラウ等のイギリス経験論をドイツの学問に移植しようとした人物でした。


福田博士の師であるL・ブレンターノ(Lujo Brentano, 1844-1931)は、ロッシャーに高く評価されたエルンスト・エンゲル(Ernst Engel, 1821-1896。一般家計の生活水準を推定するための「エンゲルの法則」(家計の消費支出に占める飲食費の割合が高いほど生活水準は低いとする経験則)の発案者)のゼミナールに学びましだ。

エンゲルは、プロイセン統計局長として1867年に協同組合理念に基づく「利潤分配制」をプロイセン皇太子に提案しており、翌年にブレンターノとともに社会問題の先行国であるイギリスに自己の理論の有効性を証明すべく視察に出かけています。

ブレンターノは、そのまま英国に留まって研究を重ね、1870年には労働組合研究を出版し、自由貿易と労働組合(労働協約)の社会的有用性・必要性を理論的に確信するに至りました。マーシャルを積極的に評価し、マーシャル同様ドイツにおいても賃金を高水準とすることで高生産性を確保すべき旨を唱えましたが、あくまで社会改良主義者で、現状維持派ではないが、急進的な改革は斥けていました。

ブレンターノの著作で日本語に翻訳のあるものを列挙するだけでも、『労働経済論』(福田徳三訳)、『労働者問題』(森戸辰男訳)、『イギリス労働組合史』(島崎晴哉・西岡幸泰訳)などの労働問題関連の他、『近世資本主義の起源』(田中善治郎訳)、『ヨーロッパ古代経済史概説』(舟越康壽訳)、『農政学原論』(東畑精一・篠原泰三訳)、『プロシャの農民土地相続制度』(我妻栄、四宮和夫訳)などが挙げられます。

これらの著作に加え、シュモラーとともに構想・創設した社会政策学会などの社会的活動を合わせ鑑みると、歴史(事実)、理論、政策を三位一体として捉えていたことが良く分かります。

授業におけるブレンターノは、あたかも政治的集会に対すると同じようにそのクラスに講演し、クラスはこれに対して喝采したり反対の声を挙げたりしたそうです(J・A・シュンペーター。東畑精一訳『経済分析の歴史』第5巻)。また、弟子に対しては、自身G・シュモラーやマックス・ウェーバー等の親しい友人との間で激しい論争を行っていた経験上、処世の面で不利にならないように利殖・財産形成の方法なども教えていたといいます。


ブレンターノの眼には、福田博士が常に微笑みを浮かべながら鋭い眼差しで講義を聞いていることが不思議に見えました。ブレンターノが福田博士に対し理由を尋ねたところ、福田博士が「欧州経済史に関する講義が、悉く日本の歴史と一致している」旨を答えたところから、ブレンターノは福田博士に日本の経済史についての著述を委嘱し、福田博士は、竹越与三郎の『二千五百年史』を座右において執筆にとりかかりました。ブレンターノは、ミュンヘン大学の講師を2名補助として福田博士に付けた他、原稿が一章出来上がるごとに自らの前で朗読させ、福田博士と議論をしました。更に、夏にはブルーム湖畔にある山荘に福田博士を招待し、そこで著述を続けさせた上、完成草稿の校閲も自ら行ったといわれています。こうしてできあがった『日本経済史論』は、日本人・ドイツ人の複眼的な視点から外国語(ドイツ語)で日本人が書いた初めての日本経済史となりました。

福田博士は、『日本経済史論』を纏めるためにブレンターノの別荘に滞在していたことから、おそらくはブレンターノ一族に接したか、少なくとも話は聞いたと思われます。


ルーヨ・ブレンターノの伯父クレメンス・ブレンターノ(Clemens Maria Brentano, 1778-1842)は、ドイツ・ロマン派の作家であり、『ゴッケル物語』『愛の泉』などの作品を著した他、詩集『子供の魔法の角笛』など近代化の中で埋もれ行く民衆詩を発掘・編集しました。(『子供の魔法の角笛』は、G・マーラー(Gustav Mahler)が曲をつけたことで歌曲集となり、クラシック音楽のファンには良く知られていますね。)


兄フランツ・ブレンターノ(Franz Brentano, 1838-1917)は、哲学者で現象学の祖であるフッサール(Edmnd Husserl)の師です。ウィーン大学教授として哲学を講じ、純粋に理論的興味に導かれ専ら経験から学ぼうとする態度を以って「自然科学の方法」と呼びました。その結果、哲学を世界観のような体系構築のための学問と捉える立場に対しては強い異議を示していました。

時の権威に対抗する自由な兄弟(ヘーゲル的な哲学と対立する兄F・ブレンターノと、シュモラー等の規範的な経済学に対する弟L・ブレンターノ)という関係を見て取れるように思います。

以上を鑑みるに、学生達から「ブレンタノキ」と揶揄されるほどに福田博士がブレンターノに心酔していた所以は、以下のように纏められ得るであろうと思われます。


1) 学問的にも社会・国家としても隆盛期にあったドイツにおいて、自ら(福田博士個人として)の力が世界に通用するという自信を与えられたこと。
2) その関連で、鼎軒田口卯吉により示唆されていた文明開化の本質論(西洋文化の発展は日本においては町人の発展であって、士族主導の文明開化は本当の開化ではない)に対し、精神的な裏付けを得たこと。
3) ブレンターノが、福田博士が愛読した経済学者(マーシャル、ロッシャーなど)の長所を綜合的に体現した人物として出会えたこと。
4) 学問の生命は議論にあることを再確認し、激しい議論をしても、それが友人との友好関係に影響を与えずに済んでいる生きた事例を得たこと。
5) ブレンターノ家を通じ、文学・哲学を含めた「ドイツ文化」そのものに親しく触れ得たこと。

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