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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (3)各種エピソード(続き)

貧乏エピソードをまとめてみます。

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福田博士の自記「福田徳三年譜」から、いくつか引用してみます。

1890年(明治23年)
(17歳) 〔九月〕高等商業学校予科へ進入、これより勉強殊に努む。学費乏しく、米人スウヰフト氏(後に商大講師)の秘書役をつとめ、時に漫遊米人のガイドに雇はれ、以て学資を弁ず。翌年十八歳の時より青年会夜学校に教師となりて聊か余裕を得たれども…

1895年(明治28年)
(22歳) 〔九月〕高商研究科入学。…母校素修学校に英語を教へ、辛じて学資を弁ず。日曜毎に神田[乃武]先生を訪ひて、其の温顔に接するを、無二の慰めとせり。


1901年(明治34年)
(28歳) (4年間余のドイツ留学の最後の3ケ月が私費留学扱いとされたため)
〔八月〕留学延期の為め、旅費枯渇、神田[乃武]先生に数十磅[ポンド]を拝借し、辛ふじて、切符を購ふ。

1905年(明治38年)(32歳) (※高等商業学校休職処分中)
〔三月〕小田原に移る。左右田喜一郎氏の厚意により其の別荘に住む。外務省の賃訳により辛ふじて生活す。高橋作衛、坂田重次郎、本田熊太郎、佐藤尚武四氏の斡旋するところなり。


この他、千朶木仙史編『学界文壇時代の新人』(1898年(明治31年))には、以下のエピソードが掲載されています。
① 福田博士は、雨天の場合は、電車まで下駄を提げて裸足のまま出勤する。
② 福田博士は、雨天の場合は、古びた洋傘一本で外出し、濡鼠になって帰宅する。
③ 日本大学の門番が破帽垢衣の福田博士を見て、田舎出の書生と間違えて無礼を加えたことがある。
④ 1905年(明治38年)の高等商業学校休職中、慶応義塾の講師としての採用が決まり担任学科と時間表が確定した後、形式的に鎌田栄吉塾長(当時。徳川御三家の紀州藩の士族出身。貴族院議員、文部大臣、枢密顧問官などを歴任。)と初面談する機会があった。しかし、鎌田塾長が福田博士の「風采甚だ昂らざるを侮り稍軽蔑の語を洩らした」という理由で、福田博士は憤り、慶応義塾の講師となる契約を破棄し、飄然として地方に旅行し去った。これを知った鎌田塾長は驚き、詫び、懇ろに礼遇することで、福田博士を講壇に招き入れた。

こういったエピソードを読むにつけても、士族と商人との身分格差や、身分格差に伴う生活習慣・衣服などの違いが当時厳然として残っていたこと、そして、福田博士の心の中に金満家コンプレックス(ないしは、士族階級への被害妄想)があったことが推察されるように思われます。


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