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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (2)思春期

前回に続き、「日本の近代経済学の中興の祖」福田徳三について、振り返ってみたい。前回の幼年期に続き、今回は、思春期を振り返る。

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■ 思春期に影響を受けた人々(3名)

 母親を通じた縁なのか、福田博士は1891年(明治24年)18歳の時から日本基督教青年会(YMCA)の夜学校で講師をし、学費を稼ぐようになりました。(それまでは学費もままならない状態だったということです。)授業内容は、クレー・マコーレーやサミュエル・ジョンソン等による聖書の解釈についてのものでした。このアルバイト自体は、生徒の多くが年長者でもあり、時に質問責めをうけて悔し涙を流すことも多かったとされますが、日本YMCAを通じ一生のうちで最も多感な思春期に日本史上でも特筆される人物に多々接することが出来たことが、福田博士に得がたい経験を与えたように思われます。
 
(1)田村直臣
カローザスにより1874年(明治7年)に受洗した田村直臣は、当時まだ日本基督教会の牧師であり、日本YMCAの設立にも寄与した人物です。田村は、元々天下国家を論じ社会正義を達成するためにキリスト教徒となったと伝えられ、1893年(明治26年)に「日本の花嫁」事件によって教会を去った後も、苦学生を支援し(その一環として若き日の岸田劉生や山田耕作等の面倒を見ており)、また、足尾鉱毒事件では田中正造らを擁護して共に闘うなど、社会改良運動に一生を捧げました。


こうした田村の生き方が、福田博士に、原理原則を貫くことの尊さ、戦いに臨んで自己を見失わないことの凛々しさ、後進の育成の大切さ、そして社会改良運動の現実の厳しさなどの生きた見本を示したように推察されます。 

(2)北村透谷
田村直臣によって1888年(明治21年)に受洗した透谷は、史上初の日本近代詩「楚囚之詩」や評論「厭世詩家と女性」等によって島崎藤村や木下尚江等に大きな影響を与えた詩人・思想家・評論家として、また自由民権運動活動家として知られています。1894年(明治27年)に若干25歳で自殺をしてしまいますが、福田博士にとっては泰明小学校と日本基督教青年会(YMCA)での先輩であり、又、1893年(明治26年)にはナックス教師の神学講義の邦訳を分担した仲間でもありました。

透谷は、キリスト教と自由民権運動との接点にあった戸田欽堂などの影響を受けて自らの思想を練り上げていきましたが、福田博士の足跡を辿ると、透谷の次のような主張から多大な影響を受けたように思われます。


「人間は到底枯燥したるものにあらず。宇宙は到底無味の者にあらず。」(「内部生命論」)


「すべての倫理道徳は必らず、多少、人間の生命に関係ある者なり。人間の生命に関係多きものは人間を益する事多き者にして、人間の生命に関係少なき者は、人間を益する事少なき者なり。」(「内部生命論」)


「一国民の心性上の活動を支配する者三あり、曰く過去の勢力、曰く創造的勢力、曰く交通の勢力。…つらつら今の思想界を見廻せば…過去の勢力と外来の勢力とが、勢を較して、陣前馬頻りに嘶くの声を聞く…。今日の思想界、達士を俟つこと久し、何ぞ奮然として起り、十九世紀の世界に立つて恥づるなき創造的勢力を、此の国民の上に打建てざる。復古、爾も亦た頼むべからず。消化、爾も亦た頼むべからず。誰か能く剛強なる東洋趣味の上に、真珠の如き西洋的思想を調和し得るものぞ。出でよ詩人、出でよ真に国民大なる思想家。外来の勢力と、過去の勢力とは、今日に於て既に多きに過ぐるを見るなり。欠くところのものは創造的勢力。」(「国民と思想」)

(3)田口卯吉
 福田博士の母は、キリスト教徒同士であり地域的にも年齢面にも近しい木村鐙子と接点があったように推察されます。木村熊二(明治女学校の創立者。島崎藤村に洗礼を授けた。)の妻と知られていますが、鼎軒田口卯吉の実姉でもあります。

鼎軒は、幕臣の子として江戸目白台の徒士屋敷に生まれました。徳川家の静岡移封に伴う実家の沼津移住により沼津兵学校に学び、静岡病院で医学修行を行います。大学予備門、私立共立学舎などに学び、大蔵省勤務の傍ら1877年(明治10年)に自費出版で『日本開化小史』を刊行。大蔵省退職後はイギリスのエコノミスト誌を範に「東京経済雑誌」を創刊し論陣を張りました。鉄道経営などの実業家として知られた他、東京府会議員(後、府会副議長)や衆議院議員などとしても活躍した人物です。


福田博士の述懐によれば、博士は「直接には晩年の田口先生を知るのみであるが」、小学生(13~14歳)の頃に初めて鼎軒の『日本開化小史』を読んで以来「深く先生を敬慕して今日に至って」おり、「実に私が十三四の時から高商で休職を命ぜられた三十歳の時まで、先生の筆に成るもの、殆んど、其一も之を見落とさなかった」とのことです。日本YMCAの関係からか福田博士が10歳代の頃から東京経済雑誌社に出入りしていたことも、鼎軒の論文を入手しやすかった理由かも知れません。

鼎軒の文明論・経済学は福田博士に多大な影響を与えましたが、福田博士は、それらが理論的に結びついていない点を「残念」と述べています。

鼎軒は、『日本開化小史』『日本開化之性質』等の20歳代の著作において、明治初頭の「文明開化」以前に、既に日本人自らがなしてきた「開化」があることについて読者の自覚を迫りました。

福田博士が指摘する通り「江戸時代に於いては…我邦の史学は、当時としては、可なり目ざましい発展を遂げてゐた」が、他方で「明治の初年に於いて、我邦の史学が衰微の極みに陥ってゐた」。この矛盾は、明治維新によって「翻訳模倣の」日本文化が花開いたことが、「同時に、…自己忘却の文化であった」ためであるが、そのために、明治維新が「誠に有り難いことである」と同時に、「其の破壊による損失も可なり大」きかったという二面性を持っていました。

このことを踏まえ、福田博士は、風呂の中の湯を捨てるときに、中に這入っている赤ン坊をも一緒に流し去った(江戸時代に発達した学問が明治維新によって忘却されようとした)処から、鼎軒が赤ン坊(日本文化・学問)を拾い上げたと、その功績を称えています。

経済学の面については、福田博士は、鼎軒がイギリスの経済思想に基づいて日本の問題を論じ経済学の普及・啓蒙に努めたものの、ドイツ経済学(特に講壇社会主義)の流入により社会的影響力が弱まってしまったと見ています。

福田博士は、そうした過去の経緯を踏まえ、自己の手により新しい時代にふさわしい経済学を打ち立てる使命を感じていたのだろうと推察されます。

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