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左右田喜一郎④ 山内得立の追憶(2)

経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。

第4弾は、山内得立による追憶文を紹介する。これは、1975年(昭和50年)に、周年忌があった際に編纂された『左右田哲学への回想』に山内が「京都大学名誉教授」の肩書で寄せた文章である。

当日朝は交通が止まっており、左右田喜一郎に教えを受けた者たちが遅刻してくる中、前日入りし墓参も済ませていた山内は「価値自由の問題」を定刻通りに講演したといわれている。

なお、山内は、マックス・ウェーバーの「客観性論文」で示された「価値自由」と、左右田喜一郎の「極限概念」を結び付けて検討するようになる。この展開については、以下の論文・講演録を参考にされたい。

1.「マックス・ウェバーの Wertfreiheitについて」龍谷大学論集(1969年5月号)

2.「価値自由の問題」横浜市立大学論叢(社会科学系列)(1975年10月号)

3.「限界効用と極限概念」如水会会報548号(1975年12月)

#左右田喜一郎

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左右田博士と私
                 山内得立

私が左右田[喜一郎]博士に初めてお目にかかったのは大正12年[(1923年)]10月の或日であった。それは恰も関東大震災の直後であり、東京の市街はまるで焼野原のように荒廃し、神田の校庭も荒寥を極めていた。私はヨーロッパにゆき、[大正]12年に帰るつもりであったが、パリで新聞を見ると日本は大震災のためにひっくりかえり、富士山が海中に没したなどという記事があって驚いてマルセイユまで出たが「日本沈没」はその頃からあったのである。

博士のお名前は早くから知っていて何となく長身の立派な紳士であるように想像していたが、或は之は博士の姓名が長いのでそのように思ったのかもしれない。実際にあって見ると誠に立派な容姿と威厳をそなえた申分のない学者であった。しかしその頃から博士は身辺遽に多忙となり、銀行の整理や実務のため学問の研究が思うにまかせず、いささか焦燥にかられているように見られた。

周知のように博士は多年ドイツに留学し新カント学派の哲学について造詣が深く、恐らくリッケルトの唯一の弟子ともいうべき人であって畢世の目的は「価値と貨幣」との哲学を大成することにあったのであるが世事紛々、恵まれた境遇が却って禍いをなし健康を損ね、夭折せられるようになった(博士の死は四十六歳のときであった)のはかえすがえすも残念なことである。

私はリッケルトの弟子として二人の偉大な学者があった、一人は博士であり、一人はマックス・ウェバーであると思っている。もっともウェバ―は博士よりも二十年ほど年長であり、彼がリッケルトに接近したのはむしろハイデルベルヒ大学の同僚としてであったが、しかしウェバーもリッケルトの影響をうけること多大であり、彼の「価値自由」の思想は新カント学派から出たものである。

ウェバーはマルクスと比び称されるほどに大成し我国の経済学者でもマルクス主義でない人はウェバー学派であるというほどに称揚せられているが、左右田博士が我が国に於いてさえ忘れられがちであるのは残念で仕方がない。

天もしかすに年月を以てすれば博士も世界的な学績をあげられたにちがいないと思って私は悲痛にたえない。博士逝かれて既に五十年、うたた感慨に堪えぬ次第である。
                (京都大学名誉教授)

【出典】
左右田博士五十年忌記念会編『左右田哲学への回想』(昭和50年(1975年))p.229~230



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