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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (3)各種エピソード

前回に続き、「日本の近代経済学の中興の祖」福田徳三について、振り返ってみたい。各種エピソードを2回に分けて紹介する。

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福田博士の気風については、多々、風説が流布されてきました。親しい人物たちの証言を基に、実像をここで確認しておきましょう。

(1) 江戸っ子
極く初期の弟子である菅礼之助(元・石炭庁長官、東京電力会長、経団連評議会議長)によれば、「先生は毒舌が達者で意気組みは素晴らしいが、元来運動をしたことも無し腕力にかけてはゼロであることをよく自覚して居られた。」「気ばかり強いが極く弱虫…つまり喧嘩を吹っかけるのでは無く、甘えて居るのだ」「江戸っ子で喧嘩早い処も無いとはいわぬが、遁げ足の方がもっと早かった。先生は…口だけで充分に戦える人である。こういう人は決して人を殴れるものでない、又殴る必要がないものである。沢山喧嘩をした者でないとこの消息はわからない。」といいます。

教え子の内田敬三も、同様に「先生は江戸っ子である。慈雨も雷鳴もある。撃石火、閃電光、叱られた経験は側近程多い。然し酒興酣わになると『九太夫は縁の下で真黒けのけ』と唄われ、無邪気さは本来の江戸っ子である。…先生のユーモラスな弥次性は天稟と申したい。」としています。

福田博士は、宮武外骨、中田薫、滝本誠一、内田銀蔵、河上肇などの論客と親しく付き合いました。「吾々は幾度か論争を重ねたが、それは私的の交際には少しも影響しなかった」と河上肇(京都帝国大学教授/経済学)が回顧しているように、学問の上では激しくやりあっても、論敵との交友関係は親密を保っていました。

これらの他にも「天真爛漫」「ざっくばらん」等とする回顧・追憶は数多くあります。

この点で、しばしば福田博士の人柄紹介のために引用される弟子の上田貞次郎の以下の福田博士評は、上田博士が明治37年に全くの濡れ衣で偶々福田博士に殴られた日記への記載であること、および身分制度(上田は紀州徳川藩の士族、福田博士は下級の商人の身分、という差)の文脈から、慎重に取り扱うべきもののように思料されます。

「何というても福田徳三氏は余の恩師なり。余は氏に接するごとに、思想の博大高遠にして、かつ精神の活動の活発なるに感服し、身をつり上げらるる心地す。…しかし大体についていえば、氏は狷狭不介にして、利益を度外視し、情の行くところに任ずる人なり。高尚なる人格にあらざれども、また決して下劣にもあらず。調子はずれの奇人なり。この奇人たる性質は氏の生涯を不幸にする基なれども、また奇人なるがゆえに奇抜なる説を出しうるなり。奇行奇説はすなはち氏の本領にして、充分に本領を発揮するの外なし。」

(2) 兼愛
恩師である和田垣謙三及びルヨ・ブレンターノに対し、福田博士が晩年に至っても恭倹に仕え続けたことは、あまり知られていません。

優秀な学生をおだてて学問の道に誘導したことについては上田貞次郎、小泉信三、三辺金蔵、高橋誠一郎の例など枚挙に暇がありません。また、土屋喬雄(東京帝国大学教授/経済学史)のように、人生の岐路にあたって相談に行き決定的な影響を与えられたと回顧する研究者もいます。

しかし、学生(門下生以外に、授業聴講生なども含む)に対する厳しい指導の内実が、全ての提出レポートに対して朱筆でコメントを入れ、学問への情熱を掻き立てるために適宜手紙を送り、またご自身の論文などを適宜プレゼントし、更に時間をとって面談をし何なりと質問を受け入れた上で、学生の学問水準を高らしめるために厳しい姿勢をとったものであることはあまり知られてはいないようです。(ゼミは厳しかったものの、通常の授業の採点は厳しくなかったと言われています。)

博士の膨大な研究の中で、いつ学生に向けた時間があったのか驚く他はありません。

福田博士は、もともとは角倉了以(すみのくらりょうい。1554年(天文23年)~1614年(慶長19年))の業績を、自分の仕事の理想に近いものと考えていた由です。角倉は、安土桃山・江戸初期の豪商であり、海外貿易を行った他、河川事業では富士川・天竜川の疏通をし、大堰川・鴨川・高瀬川を開いた人物です。家訓として子孫に遺した「人を捐(す)てて己を益するにはあらず」という先義後利の精神は、福田博士には常に横溢していたところです。元々、江戸っ子は「宵越しの銭はもたない」のですから。

キリスト教・禅宗という2つの宗教的基盤に支えられた江戸っ子精神が、福田博士の場合は、兼愛として顕現したように思われます。

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