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福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長(その3)

前項までに記した「基礎」をもつ福田博士の研究は、以下のような3つの特長を有していました。

① 古典・原典の重視
福田博士の論文や教科書(経済講話、経済学原理)などを読むと、単に理論の説明をするだけでなく個々の理論の生まれた経緯・背景などについて詳細に解説がなされています。他人の経済学の成果を漫然と受け売りするのではなく、それを解体・再構築した上で自己の理論としようとした気概を感じられます。「節を屈して学ばざるべからず」と心がけるとともに、ドイツ語文献であれば吹田順助(ドイツ思想史)、ギリシャ古典であれば山内得立(ギリシャ哲学、現象学、仏教哲学など)など、語学・思想の専門家に問い質して、独善的な解釈を出来る限り防ごうとしていたことは福田博士の学問への誠実さをよく示しています。


福田博士は、経済学文献の発掘に巧みであり、K・マルクスの『資本論』等を一早く日本の学界に紹介したこと等々で知られています。それらの原典は出来るだけ読みやすい形で市井に提供されました。国内文献の発掘としては、三浦梅園の『価原』の復刻・紹介が有名です。海外文献は自らも積極的にブレンターノやワグナー等の文献を翻訳した他、弟子にも積極的に翻訳を行わせました。主な成果だけでも、例えば以下が挙げられます。


坂西由蔵  : フックス  『国民経済学』
小泉信三  : ジェボンズ 『経済学純理』(経済学の理論)
大塚金之助 : マーシャル 『経済学原理』
手塚寿郎  : ワルラス   『純粋経済学要論』
中山伊知郎 : クールノー 『富の理論の数学的原理に関する研究』
杉本栄一  : ロッシャー 『英国経済学史論』
山田雄三  : ロッシャー 『国家経済学講義要綱』


古典の読書会も有名でした。アダム・スミス『国富論』に関する千駄ヶ谷読書会は、小泉信三、三辺金蔵(ともに慶応義塾)の他、車谷馬太郎(後に大和證券会長)、武井大助(後に海軍主計中将)、内藤章(一橋)などが参加し、後に武井大助を通じて英国エディンバラ(アダム・スミスの出身地)でアダム・スミス再評価が行われる契機へとつながりました。

また、一橋のプロゼミナールで行われていたカウツキー版『資本論』の読書会には、河合栄治郎(東京帝大。社会民主主義の泰斗として知られる)が学生を連れて聴講に来ていました。

② 進取の精神
ラジオが未だ実験段階であった頃の話です。福田博士は、ある日の帰途、電車で乗り合わせた学生に、教室の後半分には講義の声が届いていないと聞き、その学生の持っていたラジオ関係の雑誌に載っていた拡声器の説明を見て、憤然、電車をおりてしまいました。日本での取扱い業者を調べ、品川にスピーカー業者がいることを突き止めて、車を飛ばして買いに行ったのです。そして翌日には、「朝顔の花を横にまげたようなスピーカーが二つ、A教室の中央部の右手と左手とに配置され、教壇にマイクロフォンが備へられた」といいます。勿論、福田博士の自腹です。


このように、いいと思えば即断即決で自ら取組む姿勢は、学問の上にも反映されました。丸善が新しい洋書を入荷すると早速その内容を取入れた講義をしたと伝えられているように、新しい学問に対し自分なりの摂取の仕方を考えました。

たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章がアルヒーフの第20号第1分冊(1904年。明治37年)に、第2章がアルヒーフの第20号合本(1905年。明治38年)に発表されたことに関連して、福田博士は、一橋YMCAの第一回講演会(1906年(明治39年)2月26日)で「宗教と商業」についての講演を行いました。これは、丁度同テーマについて自殺者を出すほどに悩んでいたYMCAのメンバーに対しての適切な訓話であった一方で、「私の同門の最長学兄」(『社会政策と階級闘争』)と慕うマックス・ウェーバーが、師ブレンターノ等との論争を反映させて書き上げた著作に対しての、福田博士としての所信表明でもありました。

なお、結果としては未完に終わっていますが、その講演で触れられた「余剰価値の宗教論」構想は論説「維摩経を読む」(一橋会雑誌)に連なったものと推察されます。仮に維摩経ではなく、善生経(シンガーラへの教え)等、仏教徒としての経済活動について述べられた経典を基に考察が行われていたならば、もっと建設的な議論が展開されたのではないかと残念に思われるところです。

③ 歴史学と経済学との融合
福田博士は、歴史学の素養を活かし、経済学の古典と思われるものは取り立てて分野を限定することなく片端から読んだようです。福田博士を一躍有名にした「トマス・ダキノの経済学説」や、河上肇との論争により三浦梅園の再評価を惹起した「三浦梅園著『価原』を同人に頒つの序」「ボアギュベールの貨幣論と三浦梅園の貨幣論」などのように、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225(?) -1274。スコラ学を大成)も三浦梅園なども、同じ地平で同様に紹介・解説をしています。

こういった素地が、福田博士をしてドイツ歴史学派やマルクス主義における理論や歴史観の甘さを気づかせ、それらを摂取するに当たっても批判的な態度を維持することができた一つの要因であるように思料されます。

ドイツ歴史学派に対しては、理論的な成果を生み出すことができなかった点を批判しています。1913年(大正2年)に発刊されたジェボンズ『経済学純理』(The Theory of Political Economy, 1871)の翻訳書(小泉信三訳)に寄せた有名な序文において、福田博士は、古典派経済学を倒したのは歴史学派ではなくジェボンズ等の限界効用論者であったこと、及び歴史学派が古典派経済学の誤謬と欠点を指摘することに汲々とし、過去の事物を並べ立てるだけで何ら建設的な学問的成果を生んでいないと批判しています。

(なお、福田博士が「ロッシャーのだらだら経済論は、我々でもウンザリするところである」等と述べていることを鑑みると、江戸っ子で短気な福田博士が、理論的結論の出にくい歴史学派に辟易したのではないかと考えることもできます。)

また、マルクス主義については、その理論的な前提と歴史認識の甘さとを共に鋭く批判しています。もともと福田博士は、労働価値説を「天衣無縫」であるとし、労働価値説に愛着をもっていました。しかし、マルクスの理論的前提は、マンチェスター学派の労働賃金説にたって、生産設備の能力に向上がなく、労働者は貯金などをしないまま窮乏に喘ぎ続けるという想定にありました。先ずことのことが、マンチェスター学派の労働基金説を批判し、また(貧困層の出身者として)労働者階級の能力的な発展可能性を信じていた福田博士にとって納得のいくものではありません。その上、経済学を経世済民の学問と考え「価格闘争から厚生闘争へ」と唱える福田博士にとっては、マルクスのように価格のみで経済学を語ることに違和感がありました。さらに、企業経営者の圧制に対して労働者が立ち上がりさえすれば後は何とはなしに資本主義体制は崩壊するだろうという安易な将来予測・歴史認識についても、到底、賛同することはできませんでした。


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