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左右田喜一郎③ 山内得立の追憶(1)

経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。

第3弾は、山内得立による追悼文を紹介する。これは、1927年(昭和2年)に岩波書店が発刊した雑誌「思想」の10月号で「左右田博士追悼録」が特集された際に、弟子や西田幾多郎等の追悼文と並んで発表されたもの。「左右田哲学」を命名した文章として知られている。

#左右田喜一郎

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左右田博士のことども
                  山内得立

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左右田[喜一郎]博士については語るべき多くのものを私はもつてゐない。

博士に接するようになつたのは[関東大]震災以後のことであり、この頃はむしろ博士の悲境時代であり、種々なる事件の突発のために心身を労せらるること多く、さしも健康を誇ってゐられた身体にも種々の故障が生じ、稀に見る峻厳なる論理を駆使せられた博士の頭脳もかなりひどい神経衰弱に悩まされてゐられたやうである。前半生の華麗なりし生活を聞くだけそれだけ私は痛ましさに堪へなかつた。

殊に財界の動乱あつて以来めつきり憔悴せられ、[昭和2年(1927年)]4月末にお目にかかつたときも -------それが私の博士にお会ひした最後であつた------ 話は元気であつたが、見ちがへるやうにお痩せになつてゐた。法隆寺の近くにでも隠栖して暫く身体を養ひたいなどとも語られたが、大和は私の郷国でもあり、何となく嬉ばしい感じもして斑鳩岡の近辺のことなど話しながら一日も早く決行せられんことをすすめて置いた。

夏休みになつて私は山にゆき暫く世事とも遠ざかつてゐたが偶然手にした新聞に博士の訃報を見出し驚いて帰宅した。翌朝早々麹町区の御宅(*1)をお伺ひすると明るい日光の下に主なき広い邸宅はひつそりと静まりかへつてゐた。葬儀はその前日横浜ですまされたとかで、ただ霊前に恭しくぬかづき令夫人にお目にかかり弔詞を申上げて辞した。

夫人のお話しでは病床には長く居られたが臨終の間際まで死のことは言ひも考へられもしなかつたさうである。まだまだ生きてこれから学問的にも大になすにあらんとせられたのであらう。秋になつて涼しくなれば皆にも逢はうと言つて多くは訪客を断はり続けてゐられらたといふことである。私は之を聞いて暗然とした。

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博士に初めてお目にかかつたのは震災のあつた年[大正12年(1923年)]の秋、私が外国から帰り東京に出で青山の左右田銀行支店に博士をお訪ひしたときであつた。その時どんな話をしたか、今ははつきり思ひ出せないが多分学校の受持科目などについてであつたであらう。

震災のひどい打撃に拘らず割合に元気に見え、ファイヒンゲル文庫(*2)の話が出たときもああいふものを買ふのも考へものだ、書入れなどのある本を見るとむしろ悲惨な気がすると語られたのを未だに覚えてゐる。

震災前はめつたに洋服を用ゐられず、いつもりゆうつとした和服に草履といふいでたちであつたさうであるが、震災後「左右田も洋服を着て電車で歩きまはつてゐる」と或人が珍らしさうに評されてゐるのを聞いてさうであつたかと私も思つた。それでもその頃外国で流行したやうにチョッキの最下のボタンを外してゐられるのを見て ------ 迂遠な私ではあるが帰朝当座であつたためにそんなことにも気がついたのであらう ------ 申し分のない紳士であることを覚つた。

博士は学者であると共に実際家でもあつた故か常識にも十分達して居られ私如き礼にならはざるものをも行きとどいた仕方で交り導いて下すつたことを思うて感謝にたへない。

普段は穏健な話振りであつたが性格的には極めて強いところがあり学問上の問題には随分猛烈な論戦を上下せられることが多かつた。博士の立場に全然同意してゐる人は二三直系の弟子達だけで多くは博士と構陣の位置に立つ人であつたが併しこれ等の人も ------ 私もその一人であるが ------ どれだけ博士の鋭く力強い論陣によつて裨益せらるる所があつたかもしれない。

かつて博士と土方[寧]博士との経済学上の論議のときも自ら土方氏の私宅を訪はれて肉薄的に論陣を張られたさうであるが結果は余り面白くなかつたのであらう、自分の立場の理解せられないことを慨いてゐられた。

しかし学問上の論争と私交とを截然と区別せらるるところに博士のゆかしい士情があつた。福田[徳三]博士とは学問的には論敵の間柄であつたが、交情はよそ目にも羨しい程美しいものがあつたやうである。いつかもルヨ・ブレンタノをさんざんにこき下されたので私も少々腹が立つた。ルヨについては与り知る所でないが兄のフランツ・ブレンタノには常々尊敬を払つている私であつたからである。何もその弟がくさされても腹を立てる必要がないわけであるがあの兄の弟にしてといふ考へが私をしてその時さういふ感じを起さしめたのであらう。博士の論難は実に痛烈であつた。

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以上はとりとめもない思出話であるが私は博士に接近すること日浅くお目にかかつたこともほんの数へるほどしかないのであるから博士に対する個人的思出も至つて貧しい。が量に於て貧しい印象も一つ一つ強く私の頭に残つて思へば思ふ程博士の早世は残り惜しい気がするのである。

商科大学(*3)としても博士の活躍せられた時代が最も哲学的気運の旺盛であつた時期のやうにも思はれ、日本の学界に於てもあれだけカント哲学に参入した人は今までにはなかつただらうといつても過言ではあるまい。リッケルトの高弟として価値哲学をあれだけに発展した人はドイツの西南学派の中にも稀であるであらう。

博士の弟子の一人(*4)がドイツに留学するよりも博士のゼミナールに居た方がよいといつたさうであるが ------ 併しその人は今ドイツに在外研究とやらをして居り、従てこの言の真偽も疑はしいが ------ たしかに博士にはさういふ感を抱かせるだけの偉い所があつたのである。博士も日本人が日本文で綴られた論文を軽読する傾向のあることを憤慨してわざと、でもあるまいが少くとも意識的にあの晦渋な文体を創始せられたといふことである。あるドイツ人は博士のドイツ文を名文であると讃めてゐたが日本文は果して如何であらうか。

漢学の素養の豊かであつたためか博士にも「青春徒らに去り易し。忘れ難きは若き年の春なり」といふやうな豪快なセンチメンタリズムもあつた。これらの点から推して博士は情操にも豊かな人であつたといふのは聊か膚浅なる観察のやうに思ふ。誰にでもこれ位の感状はあるものである。

やはり博士の最も長じてゐられたのは論理的思索の一路であつたであらう。近頃リッケルトの認識論にも漸く飽いてだんだん道徳、芸術、宗教等の問題に進出しようとしてゐられたが、察する所宗教や芸術についても学としてのそれらが如何なる根拠に立つべきであるか、即ち主としてこれらの学問の方法論について論ぜられたのであつて、芸術又は宗教そのものの体験について語られたのではなかつたらしい。博士のやうな立場からしてこれらの問題が如何に取扱はれるかは我々にとつても興味多きことであり、それだけ期待せらるることも多かつたが、有体をいへばこれらの問題は博士にとつても中々克服し易からざるものであつたであらう。しばしば論ぜられたロダン論にも、たまたま話された松井須磨子論にもかなりな博士一流の所論があつたやうである。これらの問題は単なる「価値の体系」(*5)だけでは容易に論じつくされないものであるであらう。

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かつて博士は西田[幾多郎]博士の哲学を「西田哲学」と命名された(*6)が ------ この命名は当り前のやうであつて実は新奇の感を我々に抱かせたものであるが、我々は今安心して博士の哲学を「左右田哲学」と命名し得るやうに思ふ。

さうして博士をこの名によつて思い起すことが最も博士を正しく記念する所以のもののやうに思はれることは私を喜ばしめると同時に悲しめもするのである。といふのは博士をこの名によって憶ふことは二つの意味に於て最も妥当であると思はれるから ------ 一は博士の哲学は既に一家をなし、まさに左右田哲学とよばるべきものであるであらうから、二にこの名が一般に生前の人のよりもむしろ故人の哲学に冠する方がふさはしいもののやうに思はれもするから。


【出典】
 思想 72号(1927年10月号)p.394~398


【入力者による注釈】

(*1) 麹町区は千代田区の前身。左右田邸は番町にあった。

(*2) ファイヒンゲルは、カントの第一批判の注釈書を書いたハンス・ファイヒンゲルのこと。ファイヒンゲルの蔵書は、左右田喜一郎が買い取って蔵書としたため、ここでいうファイヒンゲル文庫は、現在は左右田文庫の一部として一橋大学図書館に所蔵されている。

(*3) 東京商科大学。現在の一橋大学のこと。


(*4) 杉村廣蔵のことではないかと思われる。

(*5)「価値の体系」は、大正8年(1919年)に発表された左右田喜一郎の代表的な論文の一つ。

(*6) 左右田喜一郎の絶筆となった論文「西田哲学の方法について」(哲学研究127号所収)において、西田幾多郎の哲学が「西田哲学」と命名されたことを指摘するもの。なお、山内得立は、西田幾多郎の京都大学における最初の3人の教え子の一人でもある。(ドイツでは、現象学の創始者フッサールに師事した。)

なお、上記の他、 [  ] 内も補足した。


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