ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(6/n=6)

以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第4部に対応するIV. Du côté de Schreber.の後半の翻訳です。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。

原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.541~p.547に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました

  1. B.Finkの英訳

  2. ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II

  3. 日本語訳(佐々木訳)

1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。

2のドイツ語訳に関しては ‎ Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。

基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。

また参考文献として以下を参照しました。

またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)
二つ目のシュレーバー回想録の英訳版は以下のページで閲覧できます。ただしネットで閲覧できるものは1988年の改版(?)と思われるのでラカンが本論文を執筆した時のバージョンではありません。
Memoirs of my nervous illness : Schreber, Daniel Paul, 1842-1911 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

注意事項

・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います

以下、本文


V. Post-scriptum
 フロイトにしたがって、我々は大他者とはフロイトが無意識の名の下に発見した記憶であるということを教えよう。フロイトはこの記憶を、何らかの欲望の破壊不能性を条件づけるものとしての、開かれたままの問いに関する対象と考えたのである。この問いに対して我々は、原初的な象徴化によって一度開始されたものとしての、シニフィアンの鎖の認識によって応える。(フロイトによって反復が持つ自動性の起源において光が当てられたFort! Da!の遊びは原初的な象徴化を明らかにする。)この鎖は論理的なリエゾンに従ってのみ発展する。シニフィアンの効果によって、[シニフィアンによって]指し示されるべきもの、即ち存在者(l'étant)の存在に対してこのリエゾンが行われる。それは我々によって隠喩或いは換喩として描かれたものである。
 まさに、このレジストリの事故において、またそこで起こったこと―即ち大他者の代わりである父の名の排除―そして、父性隠喩の失敗において、我々は裂け目(défaut)を指摘する。この裂け目が精神病について、精神病を神経症から区別する構造と共に、精神病の条件を与えるのである。
 ここで我々が精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問いとしてもたらした、この論文はその弁証法の更にその先を追求する。しかしここで我々はこの追求を止めて、その理由を述べよう。
 それはまず何よりも、我々の停止によって、発見されるものが何であるかを指し示す価値があるからだ。
 その主観的な視点に基づいて、シュレーバーと神の関係を分離することができないような観点はシュレーバーと神の関係に否定的な特徴を与える。この否定的な特徴は、この関係を存在と存在の結合というよりは、むしろ存在と存在の混合物として出現させる。この関係の内で嫌悪感と共に組み立てられる貪欲さにおいて、またこの関係の暴虐さを支える複雑さにおいて、この否定的な特徴は諸事物をそれらの名で呼ぶがゆえに、神秘的経験を照らし出す<現前(Présence)>や<喜び(Joie)>を描き出さない。この君(Du[独語親称])との関係―我々は君(Tu[仏語親称])との関係と言いたい―における驚くべき不在は対置(opposition)[=神とシュレーバーの対置のことだと思われる。]を明らかにするだけでなく、正当化しさえするのである。いくつかの言語においては、君[=つまり親称]という語(Thou[古英語、汝という意味])を神からの呼びかけ、また神への呼びかけに割り当てている。そしてこの君[=汝]という語はパロールにおいて大文字の他者のシニフィアンである。
 我々は慎むべき間違いを知っている。こうした間違いはこの点に関する科学において見られる。衒学が、自身がしないできた努力の効力をなくすために、衒学が現実のいい表せなさ、それどころか«病的な認識 conscience morbide»を引き合いに出す時に、これらの過ちは衒学の思考の友人であるのである。それ=エス(ça)が話しているゆえに、まさに言い表せないものではない場面において、また現実が分離するどころではなく自身を伝える場面において、主体性が本当のその構造―この構造においては、分析されるものは分節化されるものと同一である。―を委ねる場面において、[衒学がしないできた]この努力は要求されるのである。
 妄想的な主体性によって我々が運ばれた、まさに同じ展望台から、我々は科学的な主体性の方へと転回する。科学の仕事に際して、科学者が科学を支えている文明人たちと共有しているような主体性について我々は話したいのである。妄想的であると形容されうべきであるような自由についてのディスクール(これについて我々はセミネールを一回割いたのである)や、そこにおいては決定主義(déterminisme)がアリバイでしかないような現実界の概念―もしひとが[決定主義の?]領野を偶然へと広げようものなら、それは直ちに不安をかきたてるものになる(実験的なテストにおいて、我々の聴衆に対して我々はこれを試したのである)―、サンタクロースの象徴(誰もが理解しているもの)の下に、少なくとも世界(univers)の半分のために人々を集合させるような信仰を持った人が、我々に諸基準を尋ねることについての内実を、我々が住むこの世界で、我々は十分に見てきたのだということを、我々は否定するのではない(?)。その人は、我々が正当なアナロジーによって社会的精神病のカテゴリーの中に彼を位置づけることを止めさせるのである。もし我々が間違っていなければ、パスカルによるこのカテゴリーの創設は我々に先んじていたのである。
 そのような精神病が良き秩序(bon ordre)と共存可能であるということが明らかになるのは疑いえないことである。しかしこのことは、精神科医が―たとえ精神分析家であったとしても―自分が、彼の患者がちぐはぐなものとして示しているような現実性について十分な観念を持っていると思うために、この秩序に対する彼自身の適合性を頼りにすることを許すものではない。
 こうした条件において、恐らく彼は精神病の基盤についての自身の評価の観念を省略すべきである。このことが精神病治療の目的の観点へと我々を連れ戻す。
 精神病治療の目的という観点から我々を隔てている道のりを見積もるためには、緩慢さの集積を思い起こせば十分である。巡礼者たちはこの道のりの標柱を立てて行ったのである。転移のメカニズムについてのどんな練り上げも、たとえその練り上げが巧妙であったとしても、実践において転移のメカニズムが、実践の[患者と分析家の]関係における純粋に双数=決闘的な関係であるとか、この関係の基盤における完全な混乱であると看做されないようにするには至らなかったということは誰もが知っている。
 転移を、反復の諸現象に関するその基本的な価値としてのみ捉えることについての問いを導入するならば、フロイトがここでその結果を示している迫害者たちにおいて、一体何が繰り返されねばならないのか?[恐らく迫害妄想のことを指している。]
 我々に届く軟弱な解答は以下の通りである。:あなた方のアプローチに従えば、恐らく父性の欠乏[が繰り返されている。]この流儀において、ひとはあらゆる思想傾向によってそれについて書かないことはなかったし、精神病者の«取り巻き»[の人々]は、伝記的・性格学的レッテルのあらゆる断片を緻密な調査の対象にしたのである。既往歴はそれらの断片を登場人物たち(dramatis personae)、つまり彼らの«人間関係»から引きはがすことを可能にしたのである[原注1]。
 しかし我々が明らかにした構造の諸関係に従って進んでいこう。
 精神病が発病するためには、排除されている(verworfen, forclos)―即ち、決して大他者の位置に来ることはない―父-の-名が大他者の位置に、主体との象徴的対立において、呼び出されねばならない。
 父-の-名の欠如において、シニフィエの内に発端を開く孔によってシニフィアンの再編が滝のごとく押し寄せ、それによって想像界の成長しつつある破綻が、妄想的な隠喩においてシニフィアンとシニフィエが安定化する水準に到達するまで進行するのである。
 しかしどのようにして、主体によって父-の-名が唯一の場所において―この場所より父-の-名は主体に対して登場し、またこの場所に父-の-名は決して存在しなかったのだが―呼び出されるのだろうか?[それは]他でもなく現実的父によって―それは必ずしも主体の父親である必要はないのだが―、[即ち]ひとりの-父(Un-pére)によって、である。
 しかし、主体が事前に呼び出すことができない場所にひとりの-父(Un-pére)は至らねばならない。a-a´の想像的なペア、つまり自我-対象あるいは理想的現実をその土台に持つ何らかの関係において、このひとりの-父(Un-pére)は自身を第三の位置に置くと述べれば十分である。この想像的ペアは、このペアが結果としてもたらすところの、性愛化された攻撃の領野へと主体を巻き込んでいるのである。
 この劇的な状況の探求は、精神病から始めるべきである。この劇的な状況が子供を産む女性に対しては彼女の夫の形象の内に現れ、自身の過ちを告白している患者に対しては彼女の聴罪司祭である人物の内に現れ、恋に落ちている若い娘に対しては«若者の父»との偶然の出会いの内に現れるということは、常に見出されることであり、小説的な意味における«シチュエーション»を指針に進んでいくのならば、より容易に見出されることである。ここで、これらのシチュエーションは小説家にとって彼の正真正銘の資源であるということ、即ち、如何なる心理学的照準をもってしても小説家が到達することができない場所である«深層心理»を、湧出させるものであるということをついでに理解されねばならないのである(原注2)。
 さて、父-の-名の排除(独:Verwerfung, 仏:forclusion)についての原則へと進むためには、父-の-名が大他者の位置において、シニフィアンの法を構成する限りでの象徴的三要素のシニフィアンそれ自身を二重化するということを認めねばならない。
 思うに、精神病の«環境»の座標に対する自身の探求の中を、欲求不満にさせる母から肥え太らせる母へと、亡者として彷徨う人々にとってこの試みは全くなんでもないことだろう。それでも彼らは、家族の父の位置の方へと進路を向けることによって、ハンカチ隠しの遊び(cache-tampon)[訳注1]において言われるように、彼らがあと[隠されているものまで]あと少しである(ils brûlent)ということを感じるのである。
 父性の欠如に対するこの手探りの探求において、父の分布は依然として落ち着くことがなく、雷鳴のように怒号をあげる父とお人好しな父、大変力強い父と辱められた父、厳格な父と馬鹿げた父、家事を行う父と[外を]ぶらぶらする父、[の間を揺れ動く]。以下の主張に何らかのショック効果を期待するのは誤りであろう。即ち、この全て―そこではエディプスの三要素も決して省かれることはない、というのも母の畏敬はエディプスにおいては決定的なものだと看做されているからである―において作用している威光の諸効果は主体の想像界における、二人の親の敵対関係に帰着する、即ちある問いの中で分節化してゆくものに帰着するのである。自分を大切にしている幼児の中で、この問いの宛先は当然とまでは言えなくとも、規則的であるように思われる。[その問いとは即ち]«お前はパパとママ、どっちの方をより愛しているんだい?»[というものである。]
 我々はこの比較によって何かを還元することを狙うのではない。その反対である。何故なら、そこにおいて幼児が、彼の両親の幼稚さを感じることによって露わにする嫌悪感を必ず露わにするこの問いはまさに、両親(この意味においては、家族の中に彼らの他に子供はいないのである。)であるところの幼児たちが、場合に応じて彼らの和合あるいは分裂の謎を隠そうとするところのものであるからだ。即ち[その謎は]、彼らの息子が確かに全くの問題であると知っている謎であり、また自身をそのようなものとして提示する謎である。
 ひとはそこで、我々に以下のように言うだろう。彼らはまさに、愛と尊敬の紐帯―そこにおいて、母は父をその理想的な位置に置いたり、置かなかったりする―の上にアクセントを置いていると。我々はまず以下のように応じよう。反対の意味の紐帯が引き合いに出されないのは奇妙なことである。この反対の意味の紐帯においては、幼児性健忘によって両親の性交の上にかかっているベールに理論は協力しているということが証明される。
 しかし我々が強調したいことは、[上述のことが]母が父の人格に適応するやり方に固有なものではなく、以下のことについても考慮すべきということである。[即ち、]母が父のパロール―いや、語と言おう―父の権威を重視する時、言い換えれば、法の昇格において、母が父-の-名に割り当てている場所を重視する時にも、[上述のことが]そのやり方なのである。
 それでも更に、この法に対する父の関係はそれ自身において考慮されねばならない。というのも、そこにおいてこのパラドクスの理由が見つかるからである。これにより、父が実際に立法者の機能を持っていたり、立法者の機能を使用する事例において、父性的な人物の破滅的な効果が特徴的な頻度で観察されるのである。これは、父が実際に立法しようが、自身を信仰の支えとして提示しようが、[父が]完全無欠さや献身の規範であろうが、[父が]徳を持つ人や[何かの]達人であろうが、救済の行為―そこで問題となっているのが何らかの対象であれ、欠如であれ―に奉仕したり、国家や民族に奉仕したり、安全性や衛生に尽くしたり、遺産や合法性に奉仕したり、純粋なもの、最悪の物、あるいは帝国に奉仕すること、これらは全て、まさに主体に対して大変しばしば不名誉で、無能で、おまけに不法な立場を与える理想、要するに父-の-名の、シニフィアンの中における自身の位置からの排除を与える理想なのである。
 この結果を得るのに多くのことは必要ではない。そして幼児の精神分析を実践している人々は誰も、振る舞いの嘘は幼児たちによって災害してさえも受け取られるということを否定しないだろう。しかし、このように受け取られた嘘がパロールの創設的機能への参照を含意しているということを誰が分節化するのだろうか?
 同様に少々の厳格さは、最も接近可能である経験にその真実の意味を与えるのに多すぎることはないことは明白である。診察と技法において、この経験から期待される結果は他の場所で評価される。
 ここで我々はまさに軽率さを評価するために必要なものを与えるのである。良いインスピレーションを持つ著者たちは、精神病の起源において父との関係の転移についてフロイトが認めた卓越性の場の上で、フロイトに従って彼らが最も重要であると看做しているものをこの軽率さと共に操作する。
 フレヒジヒについての妄想的な系譜について注意を引き付けることによって、ニーダーランド氏はこれについての著しい例を与えた(原注3)。この系譜は、シュレーバーの現実の系譜の名たち、ゴットフリード、ゴットリープ、フリュヒテゴット、とりわけ父祖代々より伝わるダニエルによって構成されている。そして、それらの名たちの神(Gott)の名へ向かう収束―この収束は妄想の中での父の機能を明示している―において、重要な象徴的な鎖を示すために、シュレーバーはダニエルのヘブライの意味を与えるのである。
 しかしここで父-の-名の審級を区別する必要がある。ここでこの審級が裸眼で見ることができるということでは、この審級を認識するために明白に不十分なのである。そこにおいて主体が体験する性愛的攻撃が企てられるような鎖を把握する契機をニーダーランド氏は欠いている。またニーダーランド氏は、まさしく妄想的同性愛と呼ばれねばならぬものを位置づけることに貢献する契機も逸してしまった。
 したがって、どのようにしてニーダーランド氏はシュレーバーの第二章の最初の数行から、先に引用したフレーズ(原注4)がその陳述の中に隠していたものに立ち止まったのだろうか?:それらの陳述のうちの一つは、それらを全く聞き取られないように大変明示的に為されているので、それらはきっと耳に残るに違いない。忠実にこのフレーズを受け取るとして、シュレーバーがその被害者であるところの悪習の原則を我々に導入するために、著者がフレヒジヒとシュレーバーの名を魂の殺害と結合している、平面の対等性ということは何を意味するだろうか?何か見破られるべきものを、将来の注釈者たちに残さねばならない。
 ニーダーランド氏が同じ記事で行った試みも同様に不確かなものである。[その試みにおいて、ニーダーランド氏は]今度はシニフィアンからではなく、主体の側から出発し、妄想の始まりにおいて(これらの語はもちろんニーダーランド氏にとっては未知のものである)、父性機能の役割を明確にしようとする。
 もし、ニーダーランド氏が実際に精神病の契機を主体による父性の単純な引き受けの中に指し示すことができると言い張るのであるならば―これが彼の試みの主題である―、その時ニーダーランド氏は、シュレーバーが記したようにシュレーバーの父性への期待を失うこと(訳注2)と、シュレーバーの控訴院への加入を同じものとして扱うという矛盾を犯している。控訴院でのシュレーバーの肩書である議長(Senätspräsident)は、彼の控訴院への加入が彼に与えた、父の資格を強調するのである。一回目の発症が帝国議会への立候補の挫折によって同様に説明されるのは別の話ではあるが、[ニーダーランド氏は]この控訴院への加入がシュレーバーの二回目の発症の唯一の誘因であると看做している。
 しかし、この症例全体において父性のシニフィアンが呼び出される第三の位置への言及は正しく、またこの矛盾を取り去るであろう。
 しかし、我々の観点からは、シュレーバーの問題の全てを支配しているのは原初的な排除(仏:forclusion,独:Verwerfung)であり、ここで我々を突然放りだすことなく導いてくれるのは省察である。
 何故なら、ダニエル・ゴットロープ・モーリッツ・シュレーバー(訳注3)の仕事に遡るならば、彼はライプツィッヒ大学の整形外科研究所の創設者で教育者、というよりは英語で述べるなら«教育主義者(éducationnaliste)»であり、体育によって«大衆に健康、幸福、至福をもたらすため使徒の使命を持った»社会の改革者であり(イダ・マカルピン, 上記引用書, p.1)(原注5)、勤め人が食の理想主義を保つことを目的とした小さな野菜畑の創始者である。[こうした小さな野菜畑は]今でもドイツ語でシュレーバー農園(Schrebergarten)[都市周辺部の家庭農園のこと]の名でよばれている。『医学的室内体操』第四十版は言うまでもない。体操を説明している、«へのへのもへじのいい加減に仕上げられた»小さな男たち(訳注)は殆どシュレーバーによって想起されている(S.166-XII, 邦訳p.137)。我々はこれらの諸制限を過ぎてしまったと考えることができよう。それらの諸制限において、出身(natif)と出生(natal)が自然(natural)、自然主義(naturisme)、おまけに帰化(naturalisation)へと行きつき、徳(vertu)はめまいへ(vertige)になり、遺産(legs)は同盟(ligue)になり、救済(salut)は儀礼(saltation)になる。そこにおいて、純粋さは悪の帝国に触れる。またそこにおいて、プレヴェールの有名なざれ歌の見習い船員に倣って、幼児がこの不朽の一節の筆致に従って一方では父親の企てを見破った後に、欺瞞の鯨を退ける=棄却する(verwerfe)ということに驚かないだろう。
 (マカルピン夫人の本は我々に写真を与える。その写真は我々に大脳半球の巨大な引き延ばしを背景に、フレヒジヒ教授をくっきりとを示している。)フレヒジヒ教授の顔立ちが、彼の研究者の引力の中で、突然認識された、最初の排除により生じた空虚(vide)を補うことに成功しなかったということを誰も疑わない。(«小さなフレヒジヒ!チビのフレヒジヒ!»と声たちは叫ぶのである。)
 少なくとも、主体がフレヒジヒの人格に対して行った転移を、主体を精神病の中へと陥れたファクターとして指し示す限りにおいて、これがフロイトの見解である。
 これにより、数カ月の後に、父の名をその背後にあるD…(原注6)[=神Dieuか?]の名とともにf…[=fu@k]されに、神の絶叫は主体においてその合唱を聴かせに行かせ、そして、これらの試練の終わりにシュレーバーは全世界の上に«[クソを]する(faire)»(原注7)ことがまさにできるようになるという確信の中で、息子(Fils)を打ち立てるのである(S.226-XI)。
 我々の時代の«内的体験»が我々にその計算(comput)を伝えた最後の言葉が、シュレーバーがその矢面に立たされていた弁神論によって50年前に分節化されていたのである。[その弁神論とは]«神は娼婦である(Dieu est une p... [恐らくはprostituée])(原注8)»
 過程が絶頂に達する終点は、法の座としての大他者のシニフィアンである。父-の-名によって、即ちシニフィアンの座としての大他者のシニフィアンによって、破産が開始された後に、この過程によってシニフィアンは現実界の中で«連鎖を解かれる( déchaîné )»。
 ここで我々はさしあたり、精神病の如何なる可能な治療にも先立つこの問いをそこに残しておこう。ご存じの通り、この問いは、この治療において転移の操作により形成される概念を導入する。
 現場で我々が為せることについて述べることは時期尚早であろう。というのも、それは今や«フロイトを越えて»ゆくことであろうし、我々が述べたように、精神分析がフロイト以前の段階に戻っている以上、フロイトを追い抜くことは論外であるからだ。
 少なくともこの問いは、フロイトが発見した経験へのアクセスを復元するという目的とは異なるもの全てから、我々を遠ざけてくれるだろう。
 何故なら、フロイトが創設した技術を、この技術が適用される経験の外で用いることは、砂上の舟で櫓をかいてハァハァ息を切らすことと同じくらい馬鹿げているからだ。
 (Déc. 1957-janv. 1958)


原注1:アンドレ・グリーンの「スキゾフレニー患者の家庭環境(Le milieu familial des schizophrènes )(Paris, 1957)」を参照。もしより確かな目印が彼をより大きな成功へと導かなかったなら、特に奇妙なことに«精神病的断層(fracture psychotique)»とその論文で呼ばれているものについてのアプローチに関して[彼を導いたなら]、彼の仕事はその確かな功績を傷つけることはなかっただろう。
原注2:ここで我々は、この考察の道へと進んでいった我々の門弟に良き幸運が訪れんことを願う。その道では批評が、彼を誤らせることのない筋道を確かなものとする。
原注3:Op. cit. [回想録S23~26(邦訳p.26~27)]
原注4:このフレーズは558ページ[仏語版エクリのページ]の注に引用されている。[(邦訳p.25, S22)のこと]
原注5:同じページの脚注に、マカルピン夫人はこの著者[=シュレーバーの父]による本の題名を引用しており、以下のようである。Glückseligkeitslehre für das physische Leben des Menschen 即ち、人間の身体的生活における至福についての講義(Cours de félicité bienheureuse pour la vie physique de l'homme)。
原注6:S. 194-XIV.わけても、「えい、畜生」なる言い回しは、なお基本の言葉の名残をとどめており、世界秩序と相容れない何らかの現象が魂たちの意識の中に入ってきたときには「えい、畜生、言いにくいことだが」なる文句がいつも使われた。たとえば「えい、畜生、言いにくいことだが、親愛なる神がf…されるがままにしているとは」と。
原注7:我々は、基本の言葉と同じ領域(registre)にこの婉曲話法を取り入れることができると考える。声と、しかしシュレーバー自身も慣習に反してここでこの婉曲話法を用いていない。
 他の場合にも見られるようなこの婉曲な言い回しによって、フロイトの経験が明らかにしたものを、軽微でそれどころか愚かなものへと還元することの偽善を指摘することで、科学的厳密さの要求をよりよく満たすことができると信じている。通常、以下のように言及することによって為される形容し難い用法について、我々は語りたいのである。[その言及とは]「分析の時に、患者が肛門期にまで退行する」[というものである。]もし、患者が
分析家の長椅子の上で、緊張してしまい、さらには泡を吹くたらすようになったなら、分析家の顔が見ものである。
 これらすべてはまさに隠された昇華への回帰である。この昇華は「尿と糞便の間に我々は産まれたのだ」(inter urinas et faeces nascimur)[という諺の中に]の中に逃げ場を見出すのである。[この諺はここで、]この汚い起源ははまさに我々の身体に関係することなのだということを含意している。
 分析が明らかにするのは全く別の物である。分析が明らかにすることは、くだらないことではない。分析が明らかにすることはまさに人間の存在なのである。人間は屑の中に加わったのである。この屑において、彼らの最初のお祭り騒ぎはその付随物を見つけるのだ。それは、人間の欲望が始まるところの象徴化の法がその網の中に、部分対象の位置によって人間を捉える限りにおいてである。この位置において、人間は大他者の欲望が法を作る世界へと到達するのである。
 シュレーバーによって、彼が―曖昧さを残すことなしにそれを述べれば―ウン...の行為(l'acte de ch...)、とりわけその行為において彼の存在の諸要素―彼の存在が彼の妄想の無限性の内へと分散することが彼の苦痛を産み出していたのだが―が集合することを感じたという事実(訳注)について伝えていることにおいて、この関係はもちろん明確に分節化される。
原注8:この形態の下で、「太陽は売女(S.384-App., 邦訳 p.317)」[なのである。]太陽はシュレーバーにとって神の中心的な側面なのである。ここで問題となっている内的体験はジョルジュ・バタイユの仕事の中でも中心的な著作の題名である。マダム・エトワルダにおいて、バタイユはこの経験の特異な極限を描写している。(訳注5)


訳注1:cache-tampon
ある若い女性が部屋から出る、あるいは仲間から離れておく。そして丁寧に目を閉じておく。その間、他の女性たちは小さな対象、例えば丸く折りたたまれたハンカチ―ここよりハンカチ(tampon)の名が由来する―を隠す。その隠された対象を見つけるべき女性が呼び戻された時、彼女は対象が隠されているかもしれない全ての場所を探し、彼女が隠された者に近づいているか、遠ざかってゆくかに従って、他の女性たちは彼女に以下のようにいう。Tu brûles (直訳:君は燃えている。[意訳:あと少し!])、Tu as froid(直訳:君は冷たい。)と。
以下の一部を和訳した。
cache-tampon — Wiktionnaire, le dictionnaire libre (wiktionary.org)
訳注2:

欲望空想の出現を現実生活における不首尾及び欠乏と関連付けることが本稿の課題である。シュレーバー自身が分かりやすいかたちでこの欠乏を公言している。全体としては幸福と見なされもよい彼の結婚生活は、子宝に恵まれないままに過ぎていった。特に重視すべきことだが、父と兄を失った彼を慰めたであろう息子、十分に満足させれらなかった同性愛的情愛を注げたであろう息子に彼は恵まれなかったのである。

フロイト全集11,p.158

私の最初の病気の治癒ののち、私は、すべてにおいて全く幸福な、また外面的な名誉にも満たされた、そしてただ子宝を得る望みの数回の挫折によって時折曇らされた八年間を妻とともに過ごした。

S35(邦訳p.35)

訳注3
シュレーバーの父。以下引用。
モーリツ・シュレーバーの教育論は、息子シュレーバーの著作が、ニーダーランド等によって、父親の教育法と関連付けて読まれるようになって以来、「黒い教育学」のレッテルを貼られてきた。(言語と狂気, p.24)しかし、父親によるサディスティックな教育こそがシュレーバーの精神を破壊した(=魂を殺害した)という見方に対しては、近年批判的な態度を取る論者も多い。(同, p.131)

出典:Aerztliche Zimmergymnastik.pdf (umfst.ro)

『医学的室内体操(Ärztliche Zimmergymnastik)』には上図のように運動を示す男性の図が多く見られる。恐らくこれが、シュレーバーの幻覚に登場する小さな男たちの起源であると考えられる。
訳注4

腸内に存在する大便によって惹き起こされる持続的圧迫から解放は、とりもなおさず、官能的快楽神経にとっての強い快感に通じるのである。排尿に際しても事情は同じである。この理由ゆえに、いつでも一切の例外なしに、排便と排尿に際して、すべての光線が統合されていたのである。

(S.227,邦訳p.187)

訳注5

ことわっておこう。マダム・エドワルダについて、彼女は神であるというとき、皮肉と受け取ることは思い過ごしである。だが「神」は妓楼の売春婦で、狂女であるなどとは、正気の沙汰ではない。

p.39 バタイユ著作集 聖なる神より


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