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「いのち」への畏怖や畏敬の念をなくした「民意」、これでいいの?

今年6月、長崎県の大村入国管理センターで、収容されていたナイジェリア人の男性が、長期収容などに抗議してハンストをした末に死亡するという事件がありましたが、入管庁は、男性に犯罪歴があったことなどに触れ、「対応に問題はなかった」と発表しました。
 一つのいのちが失われたという問題が、法律や手続きの問題にすりかえられてしまったのです。
 一部の人たちから「勝手にハンストをして死んでいったんだから、自業自得だ」というような声があがったことにも、非常に衝撃を受けました。
 「いのち」を賭けて何かを訴えるということに対する畏怖や畏敬の念が、まったくなくなっている。”

なんかネットの匿名で思い上がってる人達だけじゃないですよね、この感覚。

人が亡くなって、家が壊れて、車が流されて、大切に育ててきた農作物が泥まみれで全部ダメになるような災害について
「まずまずだった」(二階幹事長)とか「私は雨男だから台風が3つも来てる」(河野防衛相)とか言えてしまう人たちが国の中枢にいる。

いのちを何だと思ってる?
今まで通りの生活ができなくなってるんだよ?
暮らしが壊れてるんだよ?
今日も避難所で不安な気持ちを抱えて過ごしてる人たちがたくさんいるのに、何でそんなジョークにできるの?
怒りを通り越して悲しいし悔しい。

いのちは、機械のボタン押せばポンと出てくるもんじゃないんだよ。

体重3kgで生まれてくるまでには10カ月お腹で育てる必要があるし、
やっと命懸けで無事に産まれてきても、ふにゃふにゃな身体で気が抜けないし、
体がしっかりしてきたと思ったら毎月のように熱出すし、
そういう苦労があった上で、やっと1人の人間が少しずつ育ってくのに。
どんなに偉い人も、どんなに名もない人も、あなたも、私も、そうやって育ってきたんです。

でもね、こういうこと言う人たちも「民意」で選ばれてんですよ。
国民主権で民主主義の国家だから選挙で選ばれてるし、みんな大して追求しない。毎日忙しすぎてそんなことに関心払ってる暇もない。
実はそうさせられてるのかもしれないけど、それにも気付けない。

そういう「民意」でいいのか?
いのちを何とも思わないのがこの国の「民意」でいいのか?
って憤っています。

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