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松岡享子「先生」

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1月26日夕方、福音館書店の担当編集者から着電。「至急、折り返しのこと」という留守電が入る。

「あ、もうほぼ間違いない」と思った。

1月25日の夕方、#松岡享子 先生が亡くなった、という知らせだった。

その後、松岡先生を担当されている別の編集者から電話があり、公表するまで伏せておいて欲しいということや、葬儀は内々で済ませるから弔電も固辞されることなど詳細を聞く。そして、その2日後に公表された。石井先生の時とはちがって、意外にもマスコミなどに漏れなかった。

去年の夏に入院されたものの、意識ははっきりされていることがわかり、一度、胸を撫で下ろした。面会は謝絶だが、手紙はOKとのことだったので、手紙を書いた。「まるでお別れの手紙みたいじゃない」と、怒られそうな気がしたが、すべてを出し切るつもりで書いた。石井先生や渡辺先生、細谷さんやマーシャ・ブラウン女史の時など、これまで何度、それができずに後悔してきただろう。自己満足と言われても仕方ない。でも、今度こそ、後悔しないように書こう、そう思った。

そのおかげか、訃報の知らせが届いた時は、意外にも冷静な自分がいた。というより、深く考えようとしていなかったのかも知れない。ただ、去年の秋に同報のお手紙を受け取り、さらに文化功労賞のコメントが出てから、たった3ヶ月足らずだ。あまりにも早すぎる、というのが最初の印象だった。

僕が書いた手紙は、松岡先生との思い出や感謝の羅列だったが、それだと、あまりにも告別感が出てしまうので、最後に、この期に及んで、まだ先生を困らせるような悩みを綴った。また元気になって、その問題をどうにかしてくれないと、死ねませんよ、という感じで。

もちろん返事はこなかったけれど、先生は、どう思っただろう。「それは、自分で解決すること。あなたが、おやりなさい」と、言うだろうか。きっとそう言うだろう。わかってて書いたんだもの。でも、無理です…。

「少なくとも、私が死ぬまで、人にしゃべってはいけませんよ」という約束もありましたね。それは、もう解禁です。これで遠慮なく、あちこちで話せます。あなたが、いかに偉大で、いかに大きなものを僕に授けてくれたかということを。

僕は、存命中の恩師には「先生」と付けない。なぜなら、これまで知り合った、私の中での「本物の人」というのは、みな「先生」と呼ばれるのを嫌っていたから。

でも、亡くなられた方には「先生」と付けている。だから、これからは「松岡さん」ではなく「松岡先生」だ。きっと、しばらく慣れない。もういやだ。「先生」と呼ぶ人が、これ以上増えるのは。

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