Night Swimming

それは夏休みの終わりを思わせる会話だった。
そして実際、私は「今」という時間の限界にも気づいていた頃だった。私がだらだらと引き伸ばしていた時間は、小学生の虫取り網が庭に放置されて薄く乾燥した土埃をかぶるかのごとく、誰からも忘れられて、そして、忘れられたということすら、誰にも思われない、そんな時間へと転換している最中だった。

彼らの話している内容は全く言語化されず、私の脳裏をかすめるそのリズムは、何かが終わりにむかう時の、美しさの瀬戸に片足だけを着けながら、そこで無邪気さを装って戯れるような感覚を孕んでいた。

私はR.E.Mの”Night Swimming”のことを思い出していた。アメリカでは夏休みに学年が変わる。夏というのは出会いと別れの季節である。そんな中、夜の学校に忍び込み、水と戯れる情景が、彼らの会話とオーバーダブした。無邪気ではいられないと分かりながら、それでも無邪気さを取り繕って良い、という時間が、人生には存在する。
私は、それを終わらせるのが人生のひとつの計だとばかり思い込んでいたのだが、そうでもないらしい。季節は必ず巡るのだ。また、夏は来る。

彼らは席を立った。それが、彼らにとって日常的に行われていることかどうかは推し量れない。久し振りに再会を果たした二人のようにも見えたし、毎日、決まった時間にここを訪れているようにも見えた。
いずれにしても、私はここに来るのは学生時代以来だったし、私はもうこの街に住んでいないので、それを想像することしかできない。

時間に見限りをつけていく友人達を最後まで見送るのが私の仕事だと思っていた。そして、もうこちらには戻ってこないように願い、そして、私は気づくと首元まで、水に浸かっていた。私が生きる水はここ以外にもある、という想像力を稼働させるのは無駄だった。
息苦しくもあり、そして心地よくもある。酸欠状態の脳が麻痺していく感覚は、私の中を、過去という時間と並行して流れるものだった。
私はここにいる限り平気だと思っていた。

しかしどうにも、胸が寒い。私は、皆が今、得ているものを一生得られないのではないかと、真っ暗なプールの中で思うことがある。
この時間はいつ終わらせてもいいのだ。そして、いつ再び戻ってきてもいいのだ。だとしたら、私は今、ここを出てみてもいいのかもしれない。

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