上京(2010)

僕は群馬県の生まれで、東京の大学に進学するために上京した。引っ越しの日は春らしく暖かかった。(今まで一度も、暖かくない日に引っ越しをしたことがない)
2010年3月27日のことだ。
お父さんが会社から借りてきた軽トラックに荷物を積み込んだ。準備をしていると、犬がその周りを動き回っていたので、トラックに載せると、びっくりして身体が硬直していたので、すぐに下ろしてやった。
高速道路だと危ないので、国道17号を使った。
父とは仲が悪いわけではない。幼少期に好きなものの話をするときは決まって父だったし、父は僕の興味を持っていること、考えていることをうなずきながら聞いてくれる存在だった。
しかし、高校生、浪人を経ると、自分の好きなことを大人に語ることが嫌になる時期がある。どうせわからないのだろう、という諦めというか、そんなことはないんだけど、とにかく無理解への恐怖のようなものが自分の中にあり、上京するにあたっては父親とはあまり話さなかった。

あまり話さずに車がそろそろ東京に入る、というところで、リンガーハットに入ろう、と父が言った。僕はそこに行ったことがなかった。住んでいるまちにもリンガーハットはなかったから。
うまい、うまい、とちゃんぽんと炒飯を食べる俺を、父は、自分が作った料理かのように嬉しそうに、うまいだろう、と言ってきた。
長距離のトラック運転してるとたまにあって、よく食べるんだよ、と言った。長距離トラックの運転をしている(た?)ことをそのときに知った。

車が東京に入る。路地を抜けて、恐らくここだろう、という位置までつくが、不動産屋の位置も覚えていない。近所のドラッグストアでその位置を教えてもらい、鍵を受け取って部屋に入った。
まっさらな部屋に入って「おまえもここに今日から一人で住むのかー」と言われて、なんてつまらないことを言うんだ、と無視をして掃除機をかけ始めた。

その部屋に決めたのは、引っ越しの2ヶ月前だった。
僕は買ったばかりのiPhone3GSに夢中になっていて、起きている間はそればかりいじっていて、そんな僕を連れて母は東京に行った。電車の中にいるときもずっとiPhoneを触っている僕を母はどうに思っていたんだろう。
池袋のサブウェイで昼食を食べて、江古田へ向かう。数件見るも、決まらない。ほとほと疲れて、僕は、駅からも学校からも遠い部屋でいいよ、とサインをしそうになったところで、明日もついてきてあげるから、一緒に探そう、と言われた。
たまたま入ったラーメン屋で(そこは僕のその後4年間の行きつけの店になるのだけど)油そばというものを初めてたべた。にんにく臭くなるのが嫌だったけど、母はにんにくを入れていて、帰りの電車で、臭いんだけど、と言ったら、反対側の席に移られて、何も言えなくなった。
翌日、何件か物件を見た最後、6畳の部屋をみつけた。
物件探しをしたことがある人ならわかると思うんだけど、間取り図で見ても実際に行ってみるとぜんぜんよくなかったり、怖い感じがしたり、逆に必要条件を満たしていないはずなのに妙に気に入る、というところがあったりする。
この最後に見た部屋がその、「なんとなく気にいる」物件だった。そして、満たしていない必要条件は、家賃だった。
群馬に帰宅し、不動産屋からもらってきた紙を眺めていると、「最後のところよかったね、家賃オーバーしちゃうけど、あそこにしなよ」と言われた。
「私は進学のときに恋ヶ窪の納屋みたいなところにして、安ければいいと思って決めたんだけど、お父さんがきたとき、これはだめって違うところに変えられてさ、変えればいいってわけでもないんだけど、その、『一人で決めた』寂しさがあったから」
と言われ、僕はその5万円の部屋に住むことになった。

その5万円の部屋の掃除機をかけ終わる頃、実家から、伯父、おば、母、妹がやってきた。
彼らのおかけで滞りなく家具の設置などは終わってしまい、歩いて1キロ程度のところにあるオリジン弁当でホイコーロー弁当を買って、車座で食べた。
理由は忘れたが、母と口論になった。
僕と母は、殴り合い寸前までの喧嘩をよくしていて、今日ばかりはしないだろう、と思っていたのに、口論になった。お互いに負けることを知らないので、ずっと言い争っていたのだけど、僕はとっさに、「出ていけよ、ここは俺の部屋だ」と言った。母は何も言わずに出ていって、他の家族は「じゃあ、がんばってね」とバツが悪そうにドアを出ていった。父には何か違うことを言われたが、覚えていない。

数分して、なんで最後までこんなことをしてしまったのだろう、と後悔に襲われた。今までであれば、日常生活のなかに悪意は溶け去っていって、もとに戻ることができた。ただ今は、もうお母さんは「俺の部屋」にはなかなか来られないし、俺もこの部屋のドアを出て台所にいくことはできない。

慌てて電話をして、母を呼んだ。母とは玄関で抱き合って、声を出して泣いた。謝りあったのか、感謝を述べたのかはわからない。もしかしたら何も言わなかったかもしれない。ただ、抱き合うということも、ふたりで大声でなくということも今までになかったことなので、涙はどんどん止まらずに出てきた。

じゃあ、がんばってね、と母は出ていく。

数時間、他の部屋から、食器を洗う音や、喋り声、下の住人のパソコンの音などが聞こえてくる。

2時間ほどして、母から、「母が運転して帰りました。がんばってね」(母はパニック障害を持っているので著距離運転などがむずかしいのだった)といった内容のメールがきた。
父からは、俺が生まれた日の様子が書かれたメールが来た。(なぜかにんにくラーメンを食べて病院にいってしまって、怒られた、とか)

その二つのメールを読んで、またひとりで泣いて、でももう抱き合う人はいないので、寂しくて寂しくて仕方がなかった。

4年後

追いコン、追いコン、卒業式、と3日つづけてほぼ無眠でアルコールを摂取し続け、俺はとっくに限界が来ていたにも関わらず、卒業式後の飲み会でも朝まで飲み続け、荷物の中に倒れるように眠り、父のチャイムで目が覚めたのは最後に時計を見てから3時間ほど経ったときだった。
僕は荷物をトラックに運び入れて、そのうちに母と妹がきて、作業はわりにすぐ終わった。
徒歩3分の近所に見つけたタイ料理でカオマンガイなどを書い、車座でたべる。

僕は卒業が決まっていたわけではなくて、留年するために実家に帰る、そのための引っ越しだった。だから、ほんとうはこの部屋に住み続けることだって出来たはずだった。でもしなかったことに、特に意思があったわけではない。なんとなく、ここにいてはいけない、と思ったような気もする。

がらんどうになった部屋で、母が、「この部屋に決めてよかったね、いい部屋だったよ」といった瞬間に、僕は、今でもそれに名前は付けられないんだけど、涙が出てきて、その内に嗚咽が混ざり始めて、もういいや、と思って大声で泣いた。なにも思い出さず、なにも懐かしいものにしたくないのに、大声で泣いて、「ちょっと出てってくれ」母に告げて、と大声で泣いた。

それから僕は実家に帰った。それからのことはここには書かない。ただ、大声を出して泣いた記憶は、この10年でこの3回しかない。だからいまも、春になると大声で泣くたくなる瞬間がたまにある。

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Tetsutaro Ogawa

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