自己と社会、その切断面/接合点としての写真、そして「愛機」について

(0)
あなたは写真を撮るだろうか。
私は写真を撮る。カメラを持っていない、いかなる時でも、「その時」を待ち焦がれている。それはつまり、路上で始まるキスや、寒々しい朝焼け、換気扇に吸い込まれていく煙草の煙。油にまみれたキッチン。
あなたも写真を撮るだろう。恋人の寝顔、授業のスライド、買ったばかりのスニーカーの写真。
では、あなたの「愛機」は何だろうか。この文章を読んでいるスマートフォンを、あなたは「愛機」と呼べるだろうか。
私は今、極めて優秀なプロセッサを搭載した、単焦点のカメラについて話している。私のiPhone8だ。しかし、これは私の「愛機」ではない。単なる「カメラ」に過ぎない。
この文章は、写真について書く。そして、「愛機」についても。「カメラ」についても。それらは分かちがたく結びついているし、切断されてもいる。私によって、社会によって。
以下、続くのは「私」に関する話だ。しかし、「社会」に関する話でもある。
長くなるが、尊敬してやまない社会学者のことばを引いて、序文を閉じることにする。

「『個人的な経験を集合的事実として可能にする社会』として都市や現代の社会を記述し、分析すること。それは、個々別々の個人のままに、ある集合性を生きる人びとの経験や感覚と、それを可能にする人間の身体やモノや情報が織りなす関係の構造を、社会的事実として記述し、分析するということだ。(…)私は社会という構造・メディア・場・地形のなかで生きている。と同時に、社会というその構造・メディア・場・地形が私を通じて、私の中で生きられているのである。」
若林幹夫,2003,『都市への/からの視線』,青弓社,P22-3,

(1)
俺は1991年生まれ、初めての自分の「カメラ」は2003年の修学旅行のときに手に入れた「写ルンです」だった。父親は、その頃の俺をPENTAXのMZ-7で撮っていた。

「愛機」。

俺の実家には、父親、母親が撮った写真がアルバムに収まっている。聞けば、父方と母方の両方の祖父もカメラを持っていたらしい。彼らがその、決して安くはないカメラを手にしたのは1964年くらいの話だろう。
彼らの「愛機」たちは、主を亡くし、いまは防湿庫で眠っている。

親しい人をフレームに収める。そのエネルギーが子供の頃の俺にはわからなかった。だから、実家のアルバムの俺は、つまらなそうな顔をしているか、ふざけるかのどちらかのポーズをとっている。それが「写真」として残るのを知った上で、カメラに向かって、態度をとっている。

2003年に俺が初めて手に入れたカメラで撮った写真は、両親に酷評された。そこに写っていたものは江ノ電や鶴岡八幡宮の鳥居だったりしたのだが、「動かない、変わらないものばかり撮ってもつまらないだろ、もっと人を撮れ」と言われたのを鮮明に思い出す。
ゲームはプレイステーションと年に一本のソフトしか買ってもらえない家庭だったので、ねだるということはしたことがなかったのだが、折に触れて「写ルンです」だけは買ってもらえた。
俺は友人たちを撮りまくった。現像するまでの時間が待てず、店内をあてどなく歩いていたときの現像液の匂いは今でもはっきりと思い出せる。日曜日の、夕食後の時間。目に刺さる蛍光灯の光。
車を10分ほど走らせればすぐにフィルムを現像してくれる店が、群馬県のロードサイドにまだギリギリで残っていた時代の話だ。

高校入学と共に俺は写ルンですという「愛機」を手放すことになる。携帯電話にカメラがついていたからだ。「カメラ」はすぐに「愛機」になるわけではない。そして、「愛機」ではないカメラで撮ったものは、写真と呼ぶことはできない。携帯電話についているレンズを向けられることが当たり前になりつつある時代で、その「撮影」という行為がもたらす快楽の閾値は極限まで低下する。親が、俺をフレームに収めるエネルギーは、荒れたjpegのように、ここで一度保存される。

(2)
再び「愛機」を手にしたのは2011年の2月だった。Nikon D3100の話だ。

ここから数行続くのは、個人的な事情、取るに足らない、少年が青年になろうともがく瞬間の、ひと掻きの話だ。読み飛ばしてもらって構わない。

俺は大学進学を機に上京をし、自分が何者でもないこと/何者にでもなれることの狭間でひどくノイローゼのような状態になり、大学に行かずに部屋に引きこもり、Twitterで自己顕示に躍起になっていた。
初めて放り出された「社会」で、俺は対話する相手が自分しかいなくなり、そして友人とも会わなくなっていた。その当時は、周りを切り崩した結果として残るのが自分だという幻想に取り憑かれていて、しかし年度が変わろうとしているその瞬間に、ふと周りを見渡すと、何もないことに気づいた。
街へ出なければ、と思って電車に乗り、人混みにめまいがして、池袋のヤマダ電機に駆け込んだ。
日曜日の夕食後の時間。目に刺さる蛍光灯の光。
母親に、電話越しに全てを話した。大学へ行っていなかったこと、イタリアンレストランでバイトしていると嘘をついていたこと、友人と疎遠になってしまってとても寂しいこと、そしてその寂しさを作ったのは紛れもない自分であること。
話しているうちに涙が出てきて、気づいたら嗚咽がまじり、トイレに駆け込んで声を出して泣いた。

母親は、「5万振り込むから、カメラを買って、友達を撮りなさい」と言った。
俺はそのまま、カメラ売り場に行き、「愛機」を購入した。

出来すぎた話だと思うかもしれない。しかし嘘はついていない。「愛機」について、嘘を書くことは、写真について嘘をつくことになる。そして、この文章を書いている理由に、嘘をつくことはできない。

(3)
俺は毎日「愛機」を持って外に出るようになった。とにかく写真を撮る。写真を撮るためだったら何でもする。エネルギーに満ち溢れた日々だった。友人に会う。喋っている間もシャッターを切り続ける。それが何になるとか、「写真」とはなんだろうとか、そんなことは一切考えていなかった。ただ、写真を撮る、素晴らしい時間だった。写真のために世界は存在し、世界のために愛機が存在し、そして自分が現れてくるような、不思議な魔力に取り憑かれていた。純粋な気持ちだった。
他の何にも代えがたい、少年と青年が均衡を保っている、純粋な時間。その時間は、5万円の一眼レフによってもたらされていた。

(4)
「愛機」を毎日持ち歩いている時間、それはインスタグラムの時代と平行していた。まだ人々がスマートフォンのインカメラのポテンシャルに気づいていなかった時代だ。
平行していた線が交錯したのは、Facebookにアップロードした写真に「いいね」がついた時だったかもしれない。精神疾患患者がその離脱作用を知らないまま服薬を続けるように、俺は「いいね」を欲する身体になりながらも、それに無自覚でいた。
より「良い」写真を撮ろうとして、知識を入れる。F値。焦点距離。シャッタースピード。ISO感度。
それらの知識欲はバイトを週に1日だけ増やすことで満たされた。50mm/f1.8の単焦点レンズ。「良い」写真が撮れる。35mm/f1.8。もっと自由な画角で写真が撮れる。

(5)
写真の展覧会にも足繁く通うようになった。歴史を知った。好きなロック・バンドのCDを借りると他の音楽を聴きたくなるようのと同じようにして、「好きな写真家」を知った。
アンリ・カルティエ=ブレッソン。森山大道。ウィリアム・クライン。トーマス・ルフ。ベッヒャー。そしてウルフギャング・ティルマンス。自分の進むべき道が見えたような気がして、興奮した。熱に浮かされ、街に出て、写真を撮り続けた。
2014年、大学を卒業する頃には、「写真を撮る人間」が出来上がっていた。すべては「良い」写真の為に修練していく。ローンを組み、D610を買った。初めてのフルサイズセンサー。D3100はチープな作りのズームレンズを装着したまま、段ボールの中にしまわれた。
「撮影依頼」が来るようになった。願ってもないことだった。外付けストロボを買う。夢中になった。誰かが、自分の撮った写真を喜んでくれる。その喜びそれ自体は純粋なものだ。「自己」と交わりさえしなければ。

(6)
「インスタグラムの時代」という言葉をふたたび使おう。「SNSの時代」ではない。httpもwwwも介さずに人びとが接続できる時代のことだ。
人びとは「カメラ」に無頓着なまま、セルフィーを撮る。私の2TBのHDDが写真のデータでいっぱいになる頃には、「写真」は世界中に増産され、交錯し、そして人格を表すことも可能なものにまで変化していた。人びとは一人ひとつ、ポケットにレンズを持っている。しかも、そのレンズは自分を撮るために存在しているものと、世界を撮るために存在しているもののふたつ。
「カメラ」は特別なものではなくなった。
俺の父親のペンタックス、祖父のオリンパス、あるいはキャノン、それらとは全く異なる態度を持って、社会は常に切り取られることが可能になり、そしてその切り取られた社会はすぐに別の社会と接合されるようになった。
そう、これは現在の少し前の話をしている。現在の少し前の話だ。現在の話をするまでに、前置きがあといくつか必要だ。

(7)
「撮影する私という自己」という殻、あるいは肉体を持った俺は、その時代において何をしたか。D610とレンズたちを売り、SONYのα7sとツァイスの55mm/f1.8を買った。それは、プリウスを横目に、チューンアップを施したマニュアルの四駆車に乗って公道を走る行為とほぼ同じだった。
私は可能な限りの差異化をした。俺は写真を撮る私であり、写真を「撮らなければいけない」俺が、俺に言い続けるのである。「撮れ、もっと良く、もっと素早く、社会のすべてを撮れ」と。
写真の質は格段に向上した。今でもそのうちの数枚は、自分にとって、あるいは、撮影依頼をしてくれた方にとって、かけがえのないものになっていると確信している。
しかし、そのとき俺にとって「カメラ」は「愛機」ではなくなっていた。自己そのものとなっていた。肉体となっていた。そして、カメラを持っていない瞬間の自分にひどく怯えるようになっていた。
「良い写真とは」「撮るべきすべてとは」「私が撮るべき写真とは」「目指すべき写真とは」そして、「写真を撮る私とは」である。

(8)
私は私である。カメラは道具である。しかし、私を私たらしめるものではない。それに気づき、ひどく落胆した。俺はなんで写真を撮っていたのだろうか。そう問いかけることさえ、自分の身体(=カメラ(=精神))を圧迫した。
抑うつ状態がひどくなり、文字通り部屋の隅で埃を被っていた、「愛機」になりそこねたカメラとレンズを、7月に売った。無論、「道具」を失ったので、仕事はできなくなった。
2011年2月、俺を6畳の部屋から自由にしてくれた「カメラ」は、肥大化した「自己」と共に自分のキャパシティを超える存在になり、俺はカメラに縛り付けられ、社会と分断された。
残ったのは、2TBのデータと化した「写真」と、かつての「愛機」D3100と、いくつかのフィルムカメラだけになった。8年前のエントリーモデルの一眼レフ。父親が私を撮っていたPENTAX。伯母の遺品のOLYMPUSμ。

(8)
しかし、仕事が来た。高校生の時のバンド仲間がやっている地元の音楽フェスの写真撮影依頼で、俺は毎年、D610と50mmの単焦点という「スタイル」でそのイベントの撮影をしていた。「スタイル」を失った私は仕事をこなせる自信がなかった。「ライブの写真は撮れない、でも会場の空気を撮ることはできるかもしれない」と答えた。それでもいい、と言われたので、俺は撮影に行った。「愛機」を持って。
脳は動かないのはわかっていた。しかし、シャッターを切るべき瞬間はわかる。考えても仕方がない。撮る「べき」とも思わない。ただ撮る。とにかく写真を撮る。写真を撮るためだったら何でもする。シャッター音がエネルギーとなって身体を動かす。指先と目が一体になる。素晴らしい時間。ポケットに入れたiPhone8でも撮る。クラウド・モッシュの中にいて撮影できるカメラがこんなところにあったのか、と脳が考えた時にはステージ裏に入り、PENTAXにフィルムを入れ直し、巻き上げている間に片手でD3100のシャッターを切る。場面は移り変わる。反応しろ、と声が聞こえる。喜びを感じる。撮る、ということに喜びを。

(9)
東京に戻る電車内で、SDカードの中身を見る。悲惨だった。本当に悲惨だった。「良い」写真など一枚もなかった。しかし、「強い」写真がある。記憶にない写真が、しかし目の前に数枚ある。
これは、「愛機」ではないと撮れない。「愛機」とは、道具・カメラ・レンズ・自己・身体・思考のすべてが、「写真」というメディア・現象を通じて、目の前の世界と触れる為にある結節点を作り出す。あるいは、道具・カメラ・レンズ・自己・身体・思考を抜きにした世界を表すもの、それが「愛機」だ。
その「愛機」が導いた「写真」を前にして、私はようやく目が覚めつつある。
私が撮るべき写真などないし、撮るべき瞬間などない、構えるスタンスも必要ない。
ひとつだけ確かなことは、いま、私には「写真を撮ってきた」という時間が流れている、ということだ。

(10)
ようやく現在の話ができるようになった。まずはテクノロジーの話だ。

①Nikonがミラーレスのフルサイズ一眼を出した。
オッケー。知っていた。

②Canonも出した。
これで、カメラの巨人が、SONYが開けた門の両端に陣取った。

③PhoneXSが発表された。
Keynoteの中で、登壇者は「ボケ」という言葉を頻繁に用いた。凄まじい演算処理能力をもつチップを搭載したその機械は、いとも容易く「良質な」写真を生産できる。すばらしい。カメラの民主化だ。「ボケ」は今後ますます、その技術上の本質から離れながら、写真の良し悪しを決定するものになっていくだろう。かつてのインスタグラムのフィルターのように。そう、「かつて」の。

④カール・ツァイスが512GBのSSDと単焦点レンズ・フルサイズセンサーを搭載した機械を発表した。AdobeのLightroomがそこにはデフォルトで入っている。これもまた、容易く「良質な」写真を生産できる。ただ、高いだろう。誰が買うのか?わからない。iPadも、iPhoneも、「誰が買うのか」と言われていた。しばらくは誰も買わないだろう。しかし、SSD・フルサイズセンサー・Adobeという布陣が「民主化」される未来はそう遠くないように思える。

⑤ライカ、パナソニック、シグマが足並みを揃えた。
フルサイズセンサーのマウントを三社で協業するという。「ライカ」というものを知った時に俺は、「ライカMに50mmをつけてスナップを撮る」という、老いた自分の姿をひとまずのゴールに添えた記憶があるが、修正しなければいけない。ライカが地に落ちたというわけではない。テクノロジーが、強くなりすぎている。
あるいは、「光学」という学問が、テクノロジーと交わらなければいけない時期が来ている。
それは水と油のような関係だろう。ただ、それぞれに味をつけてシェイクすれば、美味しいドレッシングができる。それをSONYはパッケージにして、すでに売っている。

⑥富士フィルムがレンジファインダー型の中判センサーを積んだカメラを出した。

※今更解説するけど、センサーっていうのはフィルムカメラのフィルム部分のことだ。そこに入った光が計算され、データ化されて、写真になる。フルサイズセンサーの「フル」っていうのは、フィルムの35mmの幅と同じですよ、ということを言っている。これは本当に大事だ。
東京都っていうのは、「東京/都」だけど、「東/京都」とも読める。「東京という都」=「フル/サイズ/センサー」だとしたら、「東の京都」=「デジタルで再現したフィルム」になる。
未だにフィルムが「老いたテクノロジー」にならない理由はここにある。フィルムは、老いようがないのだ。生きている。デジタルテクノロジーはそれを追い越そうとしているが、ゲームが違う。でも、同じゲームとしても遊べる。「インスタグラムの時代」の話をまたするけど、ローンチした当初、過剰なまでの「フィルム帳」加工であのアプリは育った。今ではフィルターを使う人が減った代わりに、本物のフィルムで撮られた写真がインスタグラムに溢れてる。そういう関係だ。フィルムは進化しないし、遺産にもならない。

要するに、富士フィルムは、そんな「都」としてのフルサイズセンサーよりデカイセンサーを、小さいボディに詰めたということだ。
それを今回はひとまず小さくしたもの、それがテクノロジーだ。
中判センサーは、iPhoneには搭載されない。なぜか。デカいからだ。センサーのデカさは良質な写真を生む。良質な「ボケ」を生む。では、「ボケ」ればいいのだろうか?カメラ愛好家たちは「ボケ」について一家言あるだろう。私もある。しかし、大半の人にとって、それはどうでもいいものなのだ。「良い」写真が撮れればいい。
このシステムはまだ高い。でも、「デジタル一眼レフ」だって、もっと言えば「一眼レフ」だって、「カメラ」だって、かつては高かったのだ。そう、「かつて」は。

⑦リコーがGRⅢの開発をアナウンスした
スペック上は妥当な進化なので割愛する。ここでも、テクノロジーだ。より素早く、より良質に。
GRっていうのは小型スナップカメラの代名詞みたいなものだ。小さくて、キレキレの画が撮れる。カメラの性能のひとつに、重量がある。電車とか鳥とか星座とかを撮る人は、黙ってスペックの高い一眼レフを買うだろう。でも、スナップシューターは違う。いつやってくるかわからない「その時」のために、いつでも持ち歩けて、いつでも取り出せて、いつでもシャッターを切れる、そのためには重量は少ないほうがいい。しかし、良い絵は撮りたい。その狭間で、スナップシューターは揺れている。スナップシューターってなんのことか、と思った人は、自分のスマートフォンの写真フォルダを見てみてほしい。
あなたがスマートフォンで写真を撮る理由、それはスマートフォンがいつもポケットに入っているからだ。スナップシューターは、それをより鋭敏に、的確に捉える必要がある。GRはそれに答えてくれるカメラ、らしい。

(11)
つまり、2018年現在、写真、それ自体について話すのはとても難しい。「写真論」があるということは、論じきれないなにかを、写真はその起源からずっと持っているということだ。そして「カメラ」で、「テクノロジー」だ。それを使うのは人間だ。それも怪しい。機械に使われてる、なんて言い方が流行ったときもあったかもしれないけど、機械に使われていない人間なんかいないし、人間に使われていない機械なんかない。機械に触っている以上、そういう関係が生まれてる。

だから、いまは何も言えない。何もできない。ことも可能だ。
だからなにも言わないし、なにもしないというのは違う。「インスタグラムの時代」?それは過去だ。カギカッコでくくれてしまうものは全て過去だ。俺たちが立っているのは過去で、見ているのは未来だ。今、なんていう瞬間はない。ただ、写真は「今」を切れる。俺はそれを信じている。

じゃあ仮に今を「ポスト・インスタグラムの時代」と呼ぼう。人文社会学系の大学生が卒論でよく使う手法だ。
ポスト・インスタグラムの時代においておそらく写真は分断されている。
一眼レフ原理主義者は「どのマウントにしようか」と腕組みをして各社の出方を伺っているし、その中でもニコン・キャノン原理主義者は自分が信じていた教祖の出方を伺っている。重い一眼レフを首から下げて、どのレンズを連れて行こうか、と土曜の午前中に悩みながら。聖書のどこを読むかを、目次を見ながら悩んでいる。
その一方で、ポスト・インスタグラムの時代の若者は2年周期でiPhoneを買い換える。膨大な量の写真がハッシュタグで、ネットワークと呼んでいいのかすらわからない現象を世界に生み出し続けている。写真はユース・カルチャーでもあるのだ。写真はパンクにもクラシックにもなり得る。原理主義者たちに中指を突き立てるジェスチャーすら行わない若者と、憤る対象が見つからない老人たち。
隣人のパジャマの模様を知ろうとしないうちに、ジャージとTシャツが寝巻きになって、その隣の部屋では子供が作務衣を着て寝ているかもしれない。それも全てわからない。わからない、ということが見えない。そういう時代だ。

(12)
だから俺は写真を撮ろうと思う。理由はない、理由はないから写真を撮る。俺は写真を信じている。少し狭く言うと、写真という文化を信じている。
文化を強く信じている。文化は宗教ではない。既存のものと平行する新たな世界を見せるもの、オルタナティブなもの、それが文化だと信じている。
だから、ポスト・インスタグラムの時代において、「写真」をオルタナティブなものにするには、揺れ動いている今が分岐点だと考える。

そのためには新しい「愛機」が必要だ。「愛機」とはテクノロジーであり、機械であり、道具であり、身体だ。

この時代において、俺はNikonのZ6を選ぶ。理由は無い。勘だ。最初にD3100を手に取った時のように、勘が働いた。しかしD3100を選んだ時より、だいぶ勘に自信がつく。その理由は、「写真」について考え、撮り、学び、少なくない仕事をしてきた8年間という時間がそこにあるからだ。

スキルはある、はずだ。わからない。自分のことは自分ではよくわからない。自分の良いところは自分ではわからない。ただ、ポートレイト撮影を依頼されている事実はある。街の写真を撮るときも、ライブの写真を撮るときも、どんな写真を撮るときの気持ちにも、ブレはない。むしろ、今までで一番クリアに見える。
「動かない、変わらないものばかり撮ってもつまらないだろ、もっと人を撮れ」だ。

ここまで8000字書いた。駄文と呼ぶ他ない。
写真を撮る人間が最も行ってはいけないことは、自分の写真について多く語ることだと思う。だから俺は、自分のスタイルだとか、写真については話さない。これ以上、写真について話したくない。写真は写真であるだけで十分だ。

この8000字を1枚の画にして突き刺す、貫く、それ以上の体験を、俺は写真にしてもらってきた。だからいま、この時代において、座組を考えずに、撮りたい。そのためには、新しい「愛機」が必要だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?