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ジョーカーを見た話

『ジョーカー』を見てからずっと体調を崩している。季節の変わり目でもあり乾燥してきたこともあって、別に特別変わった体調不良でもなんでもない。けれど、体調不良の一端には知恵熱のような症状があると思う。知恵熱を起こしたのは「一体、なんで『ジョーカー』なんて映画が私を惹きつけたのだろう」という問いに一端がある。そんな気がしている。

体調不良の中、今のところ思い当たった『ジョーカー』の秀でてるところをメモ程度に残したいと思う。あ、ネタバレっぽいものはもちろん含むので、観てない人は映画館へ向かってください、、、、

人を惹きつける1点目として、アーサー/ジョーカーの狂気に端緒がないことが挙げられるだろう。
この映画には、どうにも始まりというものが見られない。もちろん、映画の最初に不良どもの悪さの被害者となり世の中に絶望したことを取り上げて、狂気の始まりとする説明はできると思う。だが、そんな事件がなくったって、アーサーは狂気にまみれ得たような気がしてしまう。それは、作品を通じて顕れる彼の妄想癖がある限り、いつでも彼は被害者たり得てしまうという確信によるものである。実際の被害の有無に関係なく、彼は狂気に満ちている。
はっきり言ってしまえば、この映画自体がアーサーの妄想なのではないか?と問えてしまうことそのものが、この映画自体が狂気の容器に押し込められていることを示唆するのではないだろうか。
生きることの土台となる食事シーン、あるいはアーサーが延々と吸っている煙草に火をつけるシーンが全然見られないこと。彼の生活感は全く作品内で感じられず、生活との地続きの「原因に基づく狂気」のような品のいい狂気とは無縁で、「ただそこにある狂気」とともに彼は生きている。
彼の生活を追っているようで、我々の瞳に彼が1人の人物としてというよりは、彼が狂気のシンボルとして映ってしまうのは、上記のような理由からではないだろうか?

『ジョーカー』が我々を惹きつける2点目として、きちんとカタルシスが用意されている点が挙げられる。
ネット上の意見を見ていると「面白いとは思ったけれど、アーサーの変化がなくカタルシスをあまり感じられなかった」というものを見かける。そして最初、私も同じように思っていた。
実際、1点目で挙げたように、アーサー/ジョーカーはあまり変わりはなく、狂気と付き合い続けている。つまり、今作において彼は確固たる狂気という定点としての役割を担っている。
それでも、この作品は人を惹きつけているし、人を惹きつけている作品というのは、カタルシスがあるものが多い。はっきり言ってしまえば、カタルシスがないのに人を惹きつける作品なんて、ドキュメンタリー映像くらいのものだと私は思っている。私は、間違いなく『ジョーカー』にはカタルシスがあるはずで、それに私たちが気が付いていないだけだ、というスタンスで考えている。
では、この作品のカタルシスはどこにあるのか?
カタルシスの一種にギャップというものがある。「こっちを振り向いてくれない人が最後の最後で振り向いてくれる恋愛もの」「勝てるビジョンが見えない敵に打ち勝つバトルもの」「救われない人生を送っていたが最終的には報われるノンフィクションもの」などのストーリーを思い浮かべてもらえれば分かりやすいと思う。
だが、アーサー/ジョーカーには作品を通じたギャップはあまりない。もちろん、見た目が変わったりかっこよくなったりするが、彼は作品を通じて狂気の定点として存在し続ける。
では、この作品のギャップはどこにあるのか?それは、アーサー/ジョーカーではなく、社会の側にある。
かたやちっとも報われないスラムのような生活、かたや華やかな政治やコメディの世界。普段の我々が生きる社会も程度の差はあれ同じような構造を持っている。それが、狂気のジョーカーが現れた途端に、崩れていく。最後のシーンで、ジョーカーはシンパ達から神のように崇められる。
けれど、アーサー/ジョーカーは作品の最初から何も変わっていない。社会が、ジョーカーを見て変わったのだ。この作品のカタルシスは、我々が生きるようなよくある社会が、ジョーカーのような狂気を肯定する社会になったというギャップにあるのではないだろうか。
それを薄々感じているからこそ、感想を求められた時に我々は少し困りながら「誰でもジョーカーになりえるって映画だよ」と述べるのではないだろうか。

ひとえに、『ジョーカー』の映像や音楽はイカしている。絶妙に暗澹とした空気の中ポップな音楽や鮮やかな色味が踊っている。アーサー/ジョーカーのキャラクターもとても魅力的だ。だが、それだけでなく構成としてもすぐれた映画だと思う。

体調が良くなったらもう一回観に行きたいな、と思う。