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これは弔いなのだろうか

ある朝散歩をしていたら、遠くに小動物の亡骸が見えた。
近づいてみるとリスだった。
そっか。死んでいるんだね。ふさふさのしっぽ。
まだそんなに時間は経っていないようだ。顔だけが潰れていた。車に轢かれた訳ではなさそう。鳥に突かれたのだろうか。ともかく、道の真ん中に放置する訳にはいかない。数メートル向こうの木のある場所へ運ぶことにした。

でも、どうやって運ぼうか。なんとなく、そのまま手に乗せる勇気がなかった。路肩に大きな葉っぱが生えているのを見つけ、それを何枚か千切ってきた。ここに乗せよう。緊張しながら亡骸に触れた時、強い恐怖に襲われた。

怖い

なぜか泣きそうな気持ちになる。なぜ。でも私がやらなければ。体を持ち上げたときの感覚。ぐにゃりとした重み。つめたさ。
怖い。だけど怖いという気持ちをなんとか押し殺して、リスの亡骸を葉につつみ、木の根元へ。枝で軽く地面を掘り、なんとか埋める。おやすみ。だけどそれはただの亡骸。あなたは個を捨てそして世界に溶けたんだ。それだけだよ。

この行為は弔いだろうか。私は死を悲しんだだろうか。そこに生きて、そうして死んだ者があったという事だけ。私は悲しい訳ではなかった。では亡骸をひと目につかない場所へ移し埋めたのはなぜ。見過ごす事ができなかった。他の人々の目に触れ、放置される事が嫌だった。土に埋めれば、死骸は分解されなくなる。それが最も自然な形である。

では亡骸に触れたとき感じた「怖さ」は一体何だったのだろう。それは「死」に対する恐怖だったのだろうか。私は自分が「死」を怖いと思っていないつもりだった。
「死体に触れる事は穢れる事」という考えは、一体誰の何についてのものだったっけ。生物は皆死ぬのに。どうしてあえて死を「穢れる」ものとして特別に扱うのだろう。亡骸を放置する事より「穢れなき」状態のほうが優先されるとでもいうのだろうか。穢れたら一体なんだというのか。

そんな事を考え歩いていると、また亡骸をみつけた。数メートルと離れていないのに。こういう事は続くもんだな。今度は鳥だった。いつも明け方と夕方に鳴くあのクロウタドリだった。今回はどうも日が経っているようだ。車の通りがある場所だし、全体的につぶれている。これは車に轢かれたのだと思う。虫も多いし悪臭もする。道路に放置なんてしてられない。葉っぱを探す。何枚も探す。今度は直接触れる事ができないから、葉っぱを亡骸にのせて葉っぱ越しにつかむ。緊張してはいるけれど、さっきみたいに泣きたいような怖さはない。「ごめんよ」と思う。でも誰に。一番近い木にもっていき、軽く掘って埋める。「おやすみ」でも誰に。そこには誰もいないのに。

悲しい訳ではない。「死」は悲しいものではない。


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