NCT2020 「Make A Wish (Birthday Song)」 英語版について、わたしが思うこと

10月12日にリリースされたNCT2020『Resonance Pt.1』。個人的に今年一番ワクワクしながら待っていたといっても過言ではないカムバにも関わらず、タイトル曲である「Make A Wish (Birthday Song)」のMVを、実はまだ観れていない。MVは韓国語の歌詞によるものだが、同曲の英語版に対して思うところがありすぎて公開後数日はなかなかMVを観る気になれず、少し時間が経った今、気持ちは落ち着いてきたものの、なんだか観る機会を逸したまま今日まできてしまった。そこで、MVを観るタイミングを作るべく、noteに自分の気持ちを昇華させようと思う。

なお、NCT2020や『Resonance Pt.1』や「Make A Wish (Birthday Song)」のことは、ここで私が改めて説明するまでもないだろうし、勢い余ってnoteアカウントを作ってまで書きたいことは、彼らにとって宣伝になることではないので割愛する。

改めて、この投稿を書こうと思った経緯

改めて、私がなぜこのnoteを書こうと思ったかというと、繰り返しになるが「Make A Wish (Birthday Song)」(以下、「本曲」)の英語版に思うところがありすぎたから。あまりに強い違和感と嫌悪感を覚えて、リリース当日は、頭に血が上ってなかなか寝つけなかったほどだ(それで、このnoteの元になる思いの丈を、スマホのメモ帳にぶちまけてから寝た。笑)。

ただ、英語版の歌詞は、私が応援している人(アイドル本人たち)にとっては「与えられたもの」であり、彼らには責められるべきことはなにもないのに、彼らや、他、英語版の歌詞になんら責任のないスタッフたちが労力をかけて作り上げたせっかくのMVを観る気が削がれるなんて、それはそれで悔しいので、この胸糞の悪さを浄化してMVを観るべく、noteを書くことにした。

なお、これから書くことは、わたしの知識不足やリサーチ不足もありうるし、誰か(少なくともアイドル本人たちやファンたち)を攻撃したいわけでは全くないので、あらかじめ、いくつか言っておきたい。

・上記に書いたとおり、私が抱いた違和感と嫌悪感は、1ミリもアイドル本人たちには向いていないです。
・私自身は、英語も韓国語も覚束ない人間のため、それぞれの歌詞は、ファンの方が好意で翻訳いただいたものを通して意味を把握しています。
違和感や嫌悪感は、翻訳してくださった方々に対しても、1ミリも向いていません。
・また、私自身は音楽評論家でも音楽ライターでもありませんし、各種音楽ジャンルの歴史や知識に精通しているわけでもありません。
私の所感を勢いのまま書き連ねるだけということにならないように、一般論や事実関係などは、調べてから書いていますが、間違っている部分もあるかもしれません。もしご指摘いただける場合は、優しく教えていただけると嬉しいです。
・同じく、私は現在フェミニズムに関心をもっていますが、まだまだ勉強し始めといったところで、こちらも勉強不足な点があるかもしれません。
もしご指導いただく際は、優しく教えてくださると幸いです。

改めて繰り返しになるが、この投稿にアイドルやファン(翻訳してくださった方も含めて)を非難する意図はない。途中、語気が強まる部分もあるかもしれないが、あなたを責めているわけではないので、どうか寛容な心で聞き流していただけるとありがたい。

まず、違和感を起こした一連について

ご存知の通り、10月12日午後6時(KST。日本時間も同様)、各種音楽配信サービスでNCT2020による『Resonance Pt.1』がリリースされた。また、同時刻、同アルバムのタイトル曲である「Make A Wish (Birthday Song)」のMVも公開された。

これまた説明不要かと思うが、アルバムの13曲の中のうち最後の2曲は、アルバムのタイトル曲2曲を言語展開したもので、「Make A Wish (Birthday Song) [English Version]」はアルバムの最後に収録されているものだった。

リリースしてまもなくのことである。その英語版の歌詞を当日すぐに和訳してくれた方がTwitterにいらして、私のTLでは21時半くらいに回ってきた(この文を投稿した10月18日21:00現在、該当のツイートは削除済み)。TLも同じくらいの時間から騒然としだしており、性的な内容が含まれるということと、同事務所の他の楽曲でも英語版のみ歌詞の内容が性的なものになる傾向があった、ということを把握。そして、概要を掴んだ後で和訳文を読んでみたところ、それはまあ、卑猥な内容と表現であった。下記、読んだ後の私の一言目。

なんとか胸糞の悪い読後感を和らげ面白く伝えようと努力した結果、じょ〜か〜さんに悪いことをしたみたいになってしまった。ふざけてごめん。後述するけど、なんならじょ〜か〜さんの方がマシだと思っている。

その後、TLに回ってくるツイートをいろいろ見ていると、英語詞の原文は、お菓子の名前を隠喩表現としてたくさん取り入れていることや、和訳してくれた方はそのメタファーを歌詞内でストレートに翻訳してくれたということ、そして、その「訳し方」について指摘している人がいることがわかった。また、韓国語版のほうの和訳も出てきたので、そちらも読んでみた。その上での感想がこちら。

このあたりから、最初に見た(そして結構広まっていた)和訳から汲み取れる内容と、また、訳し方について言及するツイートを見て、それらを反芻すればするほど、心の中になんとも言えない黒い蜷局のようなものが渦巻いて、違和感と嫌悪感に飲み込まれた。Twitter上では、上記ツイートに2ツイートほど繋げて「まあいいや」とお仕舞いにしたけど、心の中では全ッッッッ然「まあいいや」になっていなかった(笑)

そして12日当日(明けて13日深夜)は、以下2つのツイートをリツイートして、Twitterを閉じた。

12日最後にリツイートしたツイートから考えたこと

ここからは、12日に上記ツイートをリツイートしてからTwitterは閉じたものの、寝つけなくて、スマホにもやもやと書き留めた内容をnote用に改変しながら、今回の違和感と嫌悪感の正体をまとめていきたいと思う。

まず、ひとつめのリツイートについて。このツイートはまさしく「訳し方」についての言及である。私自身は上述のとおり、英語が苦手(特に歌詞などで婉曲表現やスラングの入ったものはほとんどわからない)なので、はじめに目にした、性的表現をストレートに訳した和訳を鵜呑みにして白目になっていたが、この方は、元の英語詞が隠喩表現であることの重要性に重点を置いた感想だなと思った。
この指摘は、文字表現としてはある種真っ当なんだろうなと思いつつ、個人的にはいずれにせよ訳した方の選んだ「表現」自体には良いも悪いも感じなかった。広まった和訳のツイ主さんがどういう意図をどのくらい強くもって性的な内容を直截的な表現にしたのか分からないし、今回の訳はたまたま直截的だったかもしれないけれど、それがたとえ元の英語詞における隠喩表現を、日本語表現における隠喩に置き換えた和訳だったとしても、この違和感や嫌悪感は持っていただろうと思ったからだ。もちろん、直截的な表現のもつ「強さ」により、‬ ‪よりセンセーショナルに広まった部分はあるだろうが。‬

‪そして、どちらかというと個人的には、翻訳表現について指摘された方自身も書いてらっしゃるけど、それより「そっち方向に行くんだ」という「歌詞のテーマ」部分の方が、違和感や嫌悪感の正体として重要だった。

そして、英語詞から感じる嫌悪感の正体を自分の中で見つけるヒントとなったのが、12日最後にリツイートしたツイートのうち、ふたつめのツイートである。

「性愛とか男らしさとかお腹いっぱい」

これこそが、英語版の歌詞を読んで抱いた違和感や嫌悪感の核心に近い部分にあるな、と頭がクリアになった。

「ヒップホップらしい」本作英語版の歌詞に感じる嫌悪

ところで本作の作詞は、

韓国語:PENOMECO、DAMIAN
英語:Bobii Lewis、Karen Poole、Sonny J Mason

と、韓国語版と英語版で異なる方々が担当しており、英語版の作詞は本作を作曲した方々が担当している。ここではそれぞれの方の説明は割愛するが、作曲者たちが英語詞を書いたということであれば、HIPHOP POP DANCE 曲である本作の歌詞として、作曲者たちも「ヒップホップらしい」内容を採用したのだろう。

そして、結果としてとても「性愛とか男らしさとかお腹いっぱい」な「ヒップホップらしい」歌詞になったのではないかと思う。

「ヒップホップらしい」とカギかっこでくくって書いたのは、英語版の歌詞の内容に、単に「セクシャルさ(性的表現、エロさ)」だけではなく、女性蔑視的なものを(かつ、異性愛を前提とした性愛をテーマにしている点で微かなホモフォビア的なものも)感じたからだ。

ヒップホップが抱える差別的な部分については、ひとまずこちらのi-D記事(「あるリスナーの葛藤:HIPHOPのミソジニーと無自覚について」)を参照しつつ(ここに挙げた記事だけではカバーしきれない歴史や文脈、他の音楽ジャンルにおける問題点もあるだろうが、それはここでは割愛させていただく)、本作英語版では、まさしく記事に書かれるように「女性が酒や金と並ぶ「勝利者の財産」扱いされている」ように感じた。「Swimming in the money like royalty」と誘えるほど「勝利者」の象徴である「金」を(多分)持っている「男」が「女」を「手に入れたい」という歌なのだから。

ちなみに、英語版の和訳に対する反応(Twitterにおける日本語での呟き)は、驚きや苦笑のような空気を感じるものが多く感じたが、時折「洋楽にはよくあるテーマ」というような意見も見られた。

たしかに、「ヒップホップの世界、文脈」で「隠喩表現や言葉遊びを用いて」書かれた歌詞に、こんなことをいうのは「カルチャー」への理解が乏しく、野暮な話なのかもしれない。また、「セクシャル」自体は、ひとつのコンセプトや表現として、個人的には(彼らに求めるコンセプトではないし、好きなコンセプトでもないものの)、問題ないテーマだとは思っている。

けれど、女性蔑視(やホモフォビア)の傾向のある「ヒップホップらしさ」は、「カルチャー」だからやっていい、ということではない。あえて、ここでは断定として言い切りたい。差別を助長するものは、カルチャーでも芸術でも、やってはいけない。

もちろん、英語版の作詞にあたって、意識的に女性蔑視を描いたわけではないだろうし、作詞者たちはそもそも、これを女性蔑視とは思っていないのだろうなとも思う。歌詞内でも、欲望の対象となっている「女」に「baby, you don't have to spoil me」と言わせることによって、女性の意思に反していないように見えるし(一方でその一文さえあれば、曲における男から女に対する支配的力関係の構造を免れられると思っているようにも思えるが)。でも、制作側が「その意図がなかった」からといって、差別に加担していないということにはならない。セクハラとかの原理と同じ。

リスナーとして、女性として、本作英語版を聴いた(正しくは和訳を読んだ、だが)時に、女性が蔑ろにされている、搾取されている、と感じたこと。それが全てである。

そして、ファン層に未成年や20代前半の若い女性を多く含む男性アイドルグループが、「女」を「欲する」性的な歌を歌うことで、若いファン層の性愛における男女の力関係への認識や価値観に、無意識の刷り込みが生じるのではないかと懸念を感じたこと。

それらが、私が本作の英語版に抱いた嫌悪感の理由だ。

上記のように歌詞に対する嫌悪感を自分なりに紐解いてみたが、しかし、私は作詞者の方々が悪いとはあまり思っていない(作詞者の中に女性も含まれているということには落胆したものの)。作詞者の思想の中に、ただそういう意識が、潜在的であれ「存在する」というだけのことだから。

どちらかというと、この英語詞で市場に流通させることを判断した事務所の「倫理観に対しての意識」に対して、2つの観点において疑問を感じた。

事務所の倫理観に対する意識への疑問①:
女性蔑視的視点を孕む曲を世に出すことについて

先述の通り、本作韓国語詞と英語詞は、作詞者が異なる。そして、内容も異なっている。韓国語詞のほうは、異性愛や性愛を連想させない単語のセレクトで、ものすごくいやらしく想像力豊かに歌詞を受け止めない限りは、セクシャルさよりもエンパワーメントを感じさせる内容だという印象を受ける。メインのタイトル曲として各種音楽番組で披露されているのは、こちらの韓国語版のほうであるし、韓国語版をメインに使うことを意図して作詞者をアサインしているだろう。正直なところ、それならば、いくら韓国語詞に先行して英語詞があるからといって、わざわざ女性蔑視を感じさせる英語版をトラックに入れなくてもいいのでは……? と思った。

ファンの大半を占める女性が、この英語詞を知って喜ぶと思ったのだろうか? 男性に欲しられる女性という構造と、セクシャルな表現が、ファンのニーズに合っていると思ったのだろうか? であれば、韓国語版もその方向性で作ればよかったのではないだろうか? ……しかし、韓国語版はあまり性を感じさせないニュートラルにしたものとなっている。

私は、本作韓国語版を英語版の歌詞のテーマのまま制作したら、このアルバムは炎上した可能性があるのではないかとすら思った。もちろん、これは(韓国は日本よりもフェミニズム運動が活発そうだぞと感じている)私個人の見立てに過ぎない。

韓国語版の作詞者や事務所が、どういった思惑の元で英語版と異なる方向性の内容にしたのかは知らないが、「英語版とは異なる内容にした」ということと「英語版はセクシャルな内容で出した」ということは事実である。

そして、韓国語詞と英語詞に違いがあることが、より一層、この英語詞を市場に出そうと判断した事務所の意識に対しての疑問を抱かせる。

英語詞から感じられる「女性蔑視」に気づいていないのであれば、そのこと自体に。
そして、気づいているのであれば、気づいた上で(かつ、メインの韓国語版では方向性を変更した上で)、それでもなお市場に出したということに。
後者の場合、英語表現であれば「ファン(大半は女性、かつ若い女性)には(「英語が」もしくは「ヒップホップカルチャーが」)わからない」とでも高を括っていたのだろうか? と、思わず穿った見方をしてしまうほどだ。もしくは、差別かどうかよりも、制作物はとにかく活用し曲数を増やすことで(ストリーミング再生の回数を増やすなどの?)ビジネス的利益があり、そちらをとったのだろうか、とか。

まあ、何にせよ「この英語詞でGO出しちゃう」程度の意識であることには変わりないのだが……。いずれにせよ、ファンは事務所にみくびられているもんだな……と感じずにはいられなかった。

事務所の倫理観に対する意識への疑問②:
アイドルが他人の書いた曲を歌う構造に孕まれるリスク

先述のじょ〜か〜さんのように、セクシャルなことが歌いたくて自分で作詞して歌っているのではなく、本作における演者であるアイドルたちは、作詞に関わっていない。

自分の意志で書き、自分の思想を歌っているのならまだしも(まだしも、って、あの歌詞自体は決して良いと思わないし、あの歌詞を書くような性癖なのであれば私はその子のことを推せなくなると思うので静かに去るけど)、女性ファンが大半の、若い男性たちが所属するグループに「大人」が作った曲を表現させる、という今回の構造において、隠喩表現満載のセクシャルな(さらには女性蔑視を感じさせる)歌を歌わせるということ自体が、個人的には端的に「気持ち悪っ(大人たち)」と思った。普通にキモい。おめえらの性癖を代弁させてんじゃねえよってなる。

キモいという言い方だと主観に寄りすぎちゃうかもしれないが、でも、私はあえて若い女の子たちにこそ「キモい」って思ってもらいたい。この違和感を「カルチャーだから」とか「そういうビジネスだから」とかで片付けてはいけないと思うから。

話が少々ずれてしまったが、その「気持ち悪さ」は、性的な歌を若い男性アイドルたちに歌わせることで彼らが性的に消費されるように市場に差し出すことにも繋がっていると思う。

仮想恋愛や疑似恋愛を感じさせるコンテンツ制作やファンとの接し方などにも見られるように、「夢見させる」商売として、もともとアイドル産業自体に、若年男女(アイドルたち)を性的に消費させる側面があることは否めない(し、アイドルを応援している以上、私も不本意でもなんでも、その産業構造に加担していることになる)が、直接的にセクシャルさを前面に押し出した表現をさせることで、その構造は一層、かなりの強度で強化されることになる。そして、その性的消費もやはり異性愛が前提であり、ホモフォビア的なものがある気がする。

直接的にセクシャルな表現ではなく、バラエティ番組で恋愛ごっこみたいな類のことをしているのでさえ、「(歌やダンスがやりたくてアイドルを目指した子が大半だろうに)これは彼ら彼女らの意に添う仕事なのかしら……」と思っているのだが、さらに品のない形で性的に消費されるようなコンテンツを、作る必要はあるのだろうか……。

ファンの頭の中で繰り広げられる性的な妄想は制約できるものでもないし、本当に「頭の中」だけに留まり、他者(アイドルや他のファン、その他の人)の目や耳に触れなければ、誰のことも傷つけはしないが、アイドルや事務所側から提供されるコンテンツが直接的に性的なものを連想させる場合、それに対する反応の中で、アイドル自身が性的に消費され(てい)ることが視覚化されてしまうことも大いにあるだろう(むしろ、たとえコンテンツ供給側は性的なコンテンツを提供していなかったとしても、そういったことは起こりうるだろうし、すでに起こってもいるだろう)。
その際に、アイドル本人はどんな気持ちになるのだろうか。それは分かり得ないけれども、気持ちがすり減ってしまわないか心配になる。

そうでなくても、性的に消費させられる可能性の中で、人生や身体や精神を懸けて、ファンに夢を見させようと努力する彼ら/彼女らが、自分の意志とは関係のない「提供された歌詞」、しかし彼らの声を通して歌うことによって、彼らからのメッセージにならざるを得ない「歌詞」で、不本意に消費されることに繋がらないことを願う。

成仏、そしてMVを観よう

この投稿を書いたことで、個人的に「Make A Wish (Birthday Song)」 英語版に感じる違和感、嫌悪感を整理して俯瞰できた。

・歌詞に、性的なだけでなく女性蔑視を感じる。
 カルチャーとか関係なく、女性蔑視や差別はダメ。
・この歌詞のせいで、若い女性ファンの性愛観や男女の力関係に
 無意識に男性に欲しられる女性にならなくてはならないというような
 気風が育まれたら嫌だ。
・事務所のジェンダー観やファンに対しての意識の低さを感じる。
・大人によって作られた性的な歌詞やコンセプトが、アイドルを本人の意志
 とは関係なく、むしろもしかしたら不本意に、性的に消費させる構造を
 強化するのではないか。

以上を整理した上で改めて、「NCTのみんなに非はなく、歌やダンスで社会と接続することを願ってアイドルになったであろう彼らのことを、健やかに芸術・エンタメとして応援したい」という気持ちになった。

私がNCTを好きな理由は、アイドル本人たちだけではなく、楽曲やコンセプトメイキング、ヘアメイクやスタイリング、撮影や音響の技術、マネジメントまで含めて、各領域のプロや職人が力を集結させて、面白い / 新しい / 不思議な / ヘンテコ(褒め言葉)な芸術作品を見せてもらえると感じているからだ。
また、様々なプラットフォームを通して見られるNCTのアイドル本人たちの姿や様子から、古臭いマッチョイズムや女性蔑視、ホモフォビアではなく、自分を愛することや他人を尊重すること、違いを拒絶するのではなく受け入れ交流するという、しなやかで温かくて、これからの時代にふさわしい寛容さや感性を感じるからだ。

これからも私は、各領域のプロフェッショナルが作り上げたバッチバチのコンセプトを卓越した身体表現で見せてくれるであろうNCTの23人を応援していくだろうが、その中で、NCT23人から感じる新しい感性に反する、旧態依然とした「盛れないフィルター(by kemio)」を感じる部分には、問題に感じる点を整理して明確にしていきたいと思う。それをしたからといって業界や市場の何かが変わるわけでもないが、美しい価値観を提示してくれる彼らを応援する自分自身の価値観をアップデートする方法にはなると思う。

それでは、清々しい気持ちでようやく「Make A Wish (Birthday Song)」のMVを楽しみたいと思います!!!やった〜〜〜〜〜!!!


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