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3.11から10年。記録と記憶…。|福島を訪ねた時の話①

皆さん、こんにちはバンビです。

今日、東日本大震災から10年が経ちました。
10年前、皆さんはどこで何をしていましたか?

BIGHIGHさんも今朝、記事を投稿していたので、
ぜひ、一緒に読んでみてください。

震災当時の僕

僕は、地元の千葉県でコンサートの仕事をしていました。
当時は、外にいて揺れは感じなかった。
でも、近くを走る電車がキーっと音を立てて止まった。
最初は事故か何かかなと思ったんだけど。

そのあとにすぐに大きな揺れを感じた。

経験したことのないような揺れだった。
近くにある、大きなガスタンクが今にでも落ちてきそうなぐらい
揺れていた。

今でも、その光景は忘れられない。

ホールの最前列の天井は、揺れで崩れ落ち、鉄骨が客席に刺さっていた。
本番中だったら、どうなっていたんだろうか…。

すぐに、対策チームが立ち上がった。僕は、情報収集班に。

すぐに車に乗り込み、ラジオ、ポータブルナビと携帯のワンセグ
情報ツールとして使えるものはすべて電源を入れた。

目と耳から入ってくる情報は、とてつもなく膨大で
衝撃的だった。

津波警報発令…そして、津波の映像。

当時から、僕の兄(次男)は仙台に住んでいた。
正直、昔から兄のことは好きじゃなかった。

三人きょうだいで、末っ子の僕。

次男君には事あるごとに、いろんな嫌がらせをされてきたからだ。
パシリなんて日常茶飯事。理不尽に殴られたこともあったっけ。
嫌いだった。憎んだ時期もあった。

でも、そんな嫌いだった兄貴のことが真っ先に浮かんだ。

やっぱり、家族なんだな。そう実感した日でもあった。
無事の確認が取れたのは、発生から2日後のこと。
あれだけ嫌いだった、兄貴のことなのに、涙が出た。

犠牲になられた方がたくさんいる中での報告に、ほっとしたことを覚えている。

縁があり福島へ

2018年の6月のことだった。埼玉の東松山に住んでいた当時、
知人のIさんに誘われて、福島原発20km圏内の視察旅行へ行ってきました。

ほんとにたまたま、まだ参加できるよ?来ない?
そんな一言で、急遽前日に参加を決めた。

それまでは、テレビやネットから入ってくる情報ばかりの
8年間を過ごしていたが、
これは、今さらと思われるかもしれないけど被災地の現状を
見てきなさい。そういわれている気がした。

復興復興と言われながらも、8年前と変わらない姿の街中を車窓から見た。
バリケードの向こう側は立入禁止区域。荒れ果てた街がそこにはあった。

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僕たちが福島に入ってJヴィレッジで食事をしたあと、
最初に向かったのは、東京電力の廃炉資料館。

現在は、新型コロナウィルスの関係で休館中とのことですが、
ここは元々、原子力資料館で原子力発電について学べる場所だったという。

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現在は、原子力発電についてや事故当時のことなどについて
学べる施設になっていた。

富岡町

続いて富岡町で語り部の方にご案内いただきました。
途中、通った富岡第一小学校と中学校。
全町避難が解除になったあと、戻ってきた児童・生徒は少なかったそうで、
第二まであった小学校と中学校はそれぞれ統合。
現在、この写真に写っている小学校の校舎は昨年解体されたそうです。

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続いて、県立富岡高校。最後まで、生徒や先生たちはここに戻ることを
あきらめなかったとのこと。
しかし、ふたば未来学園中学校。高等学校の中高一貫校の設立により休校。大きく掲げられた、【復校 富校】の文字が印象的だった。

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請戸漁港

続いて、浪江町の請戸漁港へ。
巨大な防潮堤が建設されている現場のひとつ。

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ここにも大きな津波が押し寄せた場所だ。

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この場所に行った当時は、仮設の展望台があった。
海側は、どんどんきれいに整備されていく途中だった。
反対側は、ポツンと残された建物の周りに草が生い茂っていた。

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請戸小学校

請戸漁港の近くにあった、請戸小学校。
震災当時、ここも津波が襲った。

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この小学校には当時、約100名の児童と教員がいたという。
警報が出てから、すぐに学校近くの太平山へ避難を開始したそう。
そして、全員が無事だったという。

上級生は下級生の手を取りながら一心不乱に向かったという話や
そして、この小学校では普段からも避難訓練をしていたというが、
この日の数日前にも、避難訓練を行っていたという話も聞いた。

訓練って、日ごろからやることが大切なんだなと実感した話だった。

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これは、請戸小学校の校庭のにあったカエルの石像。
原発の方向を向いている。このカエルの石像には
「無事に帰る」という意味が込められてるそう。
ただ、時が経ち草に覆われてしまっていた。

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これは、請戸漁港近くの道路。
地震により、道路が割れズレが生じてしまったのだ。
1mくらいは動いていた。衝撃だった。

そして、旅館へ

この日、お世話になったのは小高駅前にある、双葉屋旅館さん

はじめて行った場所でしたが、どこか懐かしく、
田舎の家に帰ったかのような雰囲気でした。

このツアーには、映画監督の古居みずえさんも参加していた。
2016年に映画「飯館村の母ちゃんたち 土とともに」の
メガホンをとった方だ。

実は、僕もまだ予告編しか見れていないのだが、
この日は、この映画の主演女優の二人の
菅野榮子さん、菅野芳子も駆けつけてきてくれた。

二人ともとてもいい笑顔で、可愛い母ちゃんたちだった。

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これまでの不安や葛藤などを話していただきました。
戻りたくても戻れない、そんな状況が続いてたし、
やはり放射能がにくい。そう話していました。

現在は、飯舘村に戻って二人仲良くとなり同士で暮らしているそうです。

また、お会いしたいな。早くコロナ収まってほしいです。

長くなってしまったので、1日目のここでいったん切り、
22時頃に2日目のことを書いたものをあげたいと思います。

(バンビ)

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