さと

私の零れた感情を、受け止めてくれる場所

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私の零れた感情を、受け止めてくれる場所

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2020年5月30日23時18分

社会人2年目を迎え、早2ヶ月弱 仕事量の多さと、期日の短さに、ため息をつく暇さえ与えられない 1日13時間の拘束時間の中で、忙しなく、それでいて正確な働きが要求されるこの仕事に、達成感にも似た疲労を日々積み重ねる毎日 それでいて、3ヶ月ほど前からニュースで頻繁に取り沙汰される“コロナ”という謎の流行病の影響で、外出・活動自粛が全世界的に強制されている 正直、気が狂いそうだ こうして日記をつけるために今日の日付を見ると、何だかんだで、もうすぐ24歳になるという事実 突然突

    • また、一つ歳をとる

      「そういえば、明日誕生日じゃん。」 友人から言われた一言に、「あぁ、ホントだ。」と返す私 自分の誕生日に関心を持たなくなったのは いつからだったろう 小学校低学年くらいまでは、誕生日の1ヶ月も前から『誕生日プレゼントは何だろう』とか『ケーキは何味がいいかな』と、考えてはワクワクしていたものだ 一つ歳をとるのが誇らしくすらあったと思う そんな、目を輝かせ心躍らせて待っていたあの頃と違って、今では、ただ訪れる日々の一つのように、自身の節目を迎えようとしていた 家族で過ごした

      • 昔の遊び相手と再会した話

        アルコールに浮かされた身体が、人熱れと喧騒に包まれる中で、私の名前だけがハッキリと聞き取れた。 男性にしては少し高めで、聞き覚えのある優しい声色。 私は、声のした方を振り向いた。 まず目に入ったのは綺麗な銀髪。 そして、パッチリとした目に、透き通った鼻筋。 ----間違いない、あの子だ。 私が彼の連絡先を消す3年前までは、大人の関係として、互いを良いように利用していた。 私に彼氏が出来たことにより、一方的に連絡先を消したため、まさかこうして再会するとは、思っても

        • 「死」とは

          我々における「死」の定義とはなんだろうか 医学において、これまでの「死」の定義と判定、つまりは"死の三兆候"と言われるものは、一体何処から来たのだろうか。 19世紀に発達した西洋医学は、この"死の三兆候"でさえも死の判定基準として設けるには、あやふやなものであると考えられていた。 この考えの根底として、"デカルト的心身二元論"があったことは、この際説明を省かせてもらう。 我々が信じて疑わなかった"死の三兆候"でさえ、「死」の判定として危ういものであると、世論一般に語られる

        2020年5月30日23時18分

          未明、私、東京という街

          ある日、未明。 ほんのわずか、そよぐカーテン。 小刻みな振動が駆け抜けたかと思えば、今度は身を翻すように緩く波を打ちながら、少しずつ広がっていく。 それを認めながら脚にシューズを履き、怠そうなスウェットにハーフパンツを纏いつけただけの大胆な扮装で、鍵をかける。 今宵は月のいい晩だ。 あてどなく漂うように歩く自身と、仄白い灯りが重なる。 まるで舞台照明のようにさらされた自身が地面に浮かび上がった。 10月4日 語らいやグラスの触れ合う音、粋な音楽に擦れ合う靴の音、皮膚

          未明、私、東京という街

          Aの"友達理論と条件"の変遷part1

          Aには思い出したくもない過去がある。 人には誰しも黒歴史なるものの一つや二つあるだろうが、 ここで言う黒歴史と思い出したくない過去は同義である。 もう少し言うなれば、友達関係においての黒歴史だ。 この出来事で、Aは友達について取捨選択する必要があると考えた。 そしてAは、自分なりの「友達理論と条件」を構築した。 この「友達理論と条件」の基礎は、 心理学と統計学による、 汎用性と普遍性を含んだ圧倒的な「学びの量」によるものだった。 相手の表情、口調、仕草や目線、癖など様

          Aの"友達理論と条件"の変遷part1

          私の軌跡

          私は大切なものを失いすぎた 抱えきれない、受け止めきれないほど辛い現実が、立て続けに突きつけられるものだから、立ち直れそうもないくらい心が疲弊しきってしまった 私はこの事をいろんな人に相談して、話して、その度に今度飲み行こうだとかカラオケに行こうだとか今度ライブ配信するから来てねとか 色んな約束をした 私も、ある女の子と約束をしていた 「また一緒に飲みに行こうね。女子会しようね。」って でも、その約束は永遠に叶わないものになってしまって、果たされぬ約束を胸に私は毎日泣い

          私の軌跡

          平等な現実と不平等な現実

          2019年7月1日 この日は私にとって、忘れられない日になるだろう よく聞く"虫の知らせ"なんてものは微塵も感じられず、 ただその事実を突然突きつけられたものだから、 私は酷く取り乱し、涙を流した。 別れってものはいつも突然で、身近に感じていたものほど、私たちは無意識下で失うことはない、"永遠"のものであると錯覚してしまう。 そして、失った時初めて存在の大きさを否が応でも噛み締めさせられるのだ。 人はいつか死ぬ。産まれた順番なんかじゃない。 この言葉が、再度私の心に、

          平等な現実と不平等な現実

          微睡みの中で揺蕩う

          突然だが、あなたは何か嫌な事があった時、「あぁ、これが夢なら良かったのに……」と考えたことはないだろうか。 目の前に横たわった「出来事」を「虚構」のものと思い込み、その「虚構」に対して「夢である」という理由付けをする。 そうすればいざ夢から覚めた時、その「虚構」が現実となり、自己は救われる―――というシーケンスだ。 「虚構」が「現実」になるという、矛盾じみた現象が起こるのだ。 しかし、実際は虚構が"虚構らしく"あることの方が多い。 反実仮想によって、人は某歌の詞にも

          微睡みの中で揺蕩う

          「何事も無い日々」がある奇跡

          「早かれ遅かれ、人は死ぬ。生まれた順番なんかじゃない。」 いつか読んだ本に並んでいたこの文章を見て、私は酷い衝撃を受けた。 まだ、「生きる」ということについて「何故―――」なんて考えたこともない歳にこれを見た時、私は初めて自己の「生」の理由・意味について考えた。 そして、一つの結論に辿り着いた 「「生」に意味は無い。死ぬまでの暇つぶし」 であると。 「生」に様々な意味を見出す人も多く、この結論に辿り着くまでに、多種多様な価値観を聞いた。 しかし、「生」の目的を達成す

          「何事も無い日々」がある奇跡

          ただ、それだけのこと

          「脳が閃光を拒否したのは、朝の5時28分のことだった。 私の家は南側に大きな窓が付いており、朝には太陽が、私の視(め)から脳を揺さぶる。 「またか…」 脳が朝を認識して最初に零れた常套句が、空気に溶ける。 体勢を変え、目を眇(すが)めながら窓に目を遣る。 「曇っている……」 鈍色(にびいろ)の空の間から、閃光が世界を刺す。 その光景が、起き上がれと脳が命令する回路に重くのしかかる。 それでも、 「起きなければ……」 その感情を、脳は行動として押出し、成

          ただ、それだけのこと