見出し画像

全くもってわからない「わかりあう」ということ。

私も含めると3人で、女子会をしていた。アルコールの力も相まって、確かその時は、お互いの恋愛観の話になった。
好きなタイプは。今の恋人は。っていや、そもそも恋愛の好きってなに。
私以外の2人は、考え方が逆になることが多い。
好きなタイプは、一緒にいて楽しい人 / 安心する人・
今の恋人は、ずっと一緒にいる / 特に好きとかは言ってこないし、言わない。

一方が、「えぇ!なんでなんで、わからない!!」と言って、もう一方が答えようと口を開く。しかし、うんうんと唸りながら、2人と一緒に考えていた私は、その言葉と、その返答しようとする仕草に、妙に魅入っていた。

今まで、哲学対話で、私とは違う目の前のあなたに、たくさん「なぜ?」と問いかけたつもりだったのに、よくよく考えたら、なぜそうしていたのかが、不思議に感じた。

「わからない」と、喚きながら、「なんでなんで」と聞いた彼女は、解ろうとしていたように思えた。

思わず、聞いてしまった。「どうしてそんなに、わかろうとするんですか?」
少し驚いた顔の後、ニヤッと笑いながら、

「いつかどっかで絶対にわかりあえるって、信じてるんだよ」

サラッと答えた彼女が、かっこよかった。でも同時に、モヤッと残った何かがあった。

ずっと、ずぅっと話していたら、いつかどこかで、わかりあえるのだろうか。

もしそうだったらいいな、と思う。
もしそうだったら、好きなタイプの話で共感できる。
もしそうだったら、ゼレンスキー氏とプーチン氏が戦争ではなく、話し合いで解決しようとする。
もしそうだったら、別れ話を切り出した恋人を説得して、まだ付き合っている。
もしそうだったら、部活に対する考えが違う部員同士で揉める、なんてこともなくなる。
もしそうだったら、大学卒業後の進路を、両親は私の好きなように進ませてくれる。

いや、よく考えてみると、上記の例は単なる私の願望だ。ずっと相手を説得し続けていたら、私が望む方向に、私以外の人は変化する、ということだろうか。
しかし、残念ながら実際のところ、そうなる時もあれば、そうならない時もある。
そうなるときというのは、わかりあったとき、なのか。
そして、そうならないとき、というのは、私はわかりあうことを諦めたのだろうか。

違うはずだ。心のどこかで、必死に反論したい私がいるのを感じる。
わかりあうことを諦めたから、わかりあえなかった、のではない。わかりあおうと努力はしていたと思う。それに、私の考えが全てではないはずだし、私の考えが正解とは限らない。
上記の例は、双方がわかりあう、というよりも、一方的に私の意見をわかってもらうよう、自己中心的な主張をしているだけである。相手を自分に合わさせる、ということが、わかりあった状態、とは言えないはずだ。その逆も然りである。自分を相手に全て合わせるのも、わかりあったとは言えない。

しかし、この状況がわかりあったとは言えそうにないのは、私が合わせるか相手が合わせるか、選択肢が0か100だから、なのだろうか。たとえば、半分ずつ、お互いの意見を取り入れるときもあれば、20%は私が相手を理解し、80パーセントは相手が私を理解する、もしくはその割合が逆、なんてこともあり得る。その場合は、わかりあえた、と言うのだろうか。

これを友達に話したら、絵の具に例えてくれた。あなたの色と、私の色。違う色の絵の具を混ぜ合わせるように、お互いの考えを伝え合う。そして、赤と青だったら、紫になることもあれば、赤紫、青紫になることもある、と。

なるほど。絵の具の例えは、わかりやすかった。

でも、絵の具の比率はどうであれ、わかりあう、とはそういうこと、混ぜることを指すのだろうか。

そうでないといいな、と思う。20も80も100もない、誰かに染まらなくても、わかりあう、と言えそうな状況はある。

中学生の頃、私は行事に熱くなるタイプだったが、周りの友達の大半が乗り気でなく、それを感じた私は、行事に冷めているフリをしていた。そうしなければいけないと思っていた。

でも、本当は私らしく行動してよかったはずだ。無理にわかりあったふりをするのは、私でない私を演じているようで、自分に嘘をついているようで、苦しくなる。
だから、分かり合えないことは、そして、分かり合えないことを隠さないことは、悪いことではなくて、私が私であっていい、ということを保障する。お互いの意見を伝え合うことで、お互いの絵の具をチューブから出したまま、混ぜ合わせることもしない。
ただ、パレットに乗っかった、赤の塊と青の塊。
お互いに存在し、お互いに相容れないことは認め合っている。それもまた、わかりあう、と呼ぶのではないだろうか。わかりあえない、という点において、わかりあっているのではないだろうか。

考えれば考えるほど、「わかりあう」がわからなくなった。
しかし何にせよ、私たちには、「わかりあう」ことは不可能だ。「わかりあう」が、異なる二つ以上のものを混ぜてひとつになることを指すのなら、別れ話を切り出した恋人と、最終的にわかりあったから別れたのか、と聞かれたとき、別れはしたものの、私は彼が全くわからなかった、と答えたい。そこに他者が存在することを認め合うのが、わかりあうこと、とするパターンも、結局のところ、認めるのはその存在だけで、自分の身に置き換えるほど、その内容に共感しているわけではない。

何かの本で読んだ。
「私たちは結局のところ、わかりあえない。一人一人、バラバラである。」

ただ、唯一確実に言えることがある。それは、私たちは、「なんでなんで、わからない!」と、ビールを煽った彼女のように言うことはできる。そして、絵の具は、赤と青以外にもたくさんあるし、同じ赤でも朱色と紅色は違う。同じように、人間はたくさんいて、同じ人間でも、それぞれが絶妙に異なる。一人ひとり、バラバラである。
違うからこそ、そして、決してわかりあうことができないからこそ、私たちはその違いに寄り添おうとし、わかりあおうとすることが可能なのではないか。

と、本当はこの辺りで、このエッセイを終えるつもりであった。
しかし、この「わかってほしい」「わかりたい」「わかりあいたい」という自己中心的な思いは、私にだいぶ感情的な文章を書かせながら、まだ、モヤモヤを残している。
わかりあえないのに、わかりあおうとする。
できないのに、やろうとする。
それは、何のためであろうか。拭いきれない虚しさが残る。
そしてまだ私は、「ずっと話をしていたらいつかどこかでわかりあえるのではないか」という、淡い期待を捨てきれずにいる。
そして、ああそうか、わかりあえないのか、と気付かされるたびに、私は傷つき、この時に、何度も何度も、私は捕らわれる。
いつかその期待が消滅してしまうかもしれない。
それが怖い。
そうしたら、私はわかりあおうとしなくなってしまう。

しかし、そうなる前に、何度も何度も、わかりあおうとしよう。
そして、何度も何度も、わかりあえないことに失望し、時たま訪れる、わかりあえるあの瞬間に胸を躍らせ、やはりわかりあえるのだ、とか、いやまたわかりあえなかったな、とか、これでいいのだろうか、と頭を抱えながら、
とりあえず今を生きてゆくことにしよう。




ちなみに写真は、ことの発端となった飲み会。メロンソーダ味のほろ酔いでクリームソーダをしてました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?