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吐きだす

そいつは、いつも来てほしくないときにやって来て、ほんとうに来てほしいときには来てくれなかったりする。
たとえば、授業中。課題の最中。楽しみにしていた講演会。ずっと読みたかった本を読むとき。こうやってnoteになにか書いているとき。
哲学対話をやっているときにさえ来て、もうそれはほんとうに恐ろしかったし、あとから猛烈に情けなくなった。

そして、いままで裏切りすぎたのか、一時期は来てくれなくて、布団の中でじっとそいつを待ちながら、気がつけば朝、ということも一度や二度あった。

眠気。

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右唇の下に、ヘルペスができた。
膿んでいて、押すと少し痛む。

これができるときは決まって疲れが溜まっているときだ。

心当たりはある。原因は、わかっているのだ。決して誉められるものばかりでないけれど。
授業、課題、友達との飲み、バイト、部活、その他社会で生きること。
6時間確保しようとしていた睡眠が、4時間になったり、2.3時間になったり。
原因は、わかっている。

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8月から海外留学に行く。
よく、留学で何が楽しみですか??と聞かれる。

大きな声で言えたものじゃないけれど、実は、楽しみなことがある。
全てのコミュニティから解き放たれること、だ。

自分の時間が欲しい。
自分と過ごしたい。
切実な、今の私の願いだ。

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でも自分の時間が欲しいとおもいつつも、
やらなければならないことはやってきて、
今日締切の課題とか、友達とライブのDVDを見ようという午後の約束とか、
そういうものによって、そういうものがないときの私が、構成されている気がする。

そうしたものをこなすのに必死になって、
感傷的になったり、立ちどまっている暇もなかったり、人は傷つけたくないとかおもうから、
だれかと接しているときは、つい、笑顔を貼りつける。

今も、ぼんやりとした頭でこの文章を書いては、
時たま眠気が襲ってきて、
目を瞑りながらtのキーだけ押しまくっていて、っっっっっっっっっっっt。
笑えてくる。

次第に立ちどまる方法すらわからなくなってきて、
ついこの間、哲学対話のときに、
ああ、問いってどうやって出すんだっけ。とおもった。
そうおもった自分が悲しかった。

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友達にそれらを言ったら、逆に言われた。
「忙しいの、羨ましいけどな」

友達曰く、今は自分は何もすることがなくて、自分の軸だとか、拠り所だとかがなくて、ふわふわと宙に浮いている感じ、らしい。

ああ、その気持ちも、わかるんだよなあ。
重たい頭と、鈍く痛む右唇下で思う。
自分というものがどう確認すればいいのかわからなくなってしまって、
それはまるで、生きている心地がしない感覚だ。寝ている時は、死んでいて、眠たい時は、生死をさまよっているのだろうか。

ないものねだり、なのかもしれない。
でも、忙しくて自分を感じることができないときは、人間として生きている心地を感じる余裕すらない。まるでロボットになったような、もしくは、DSのスーパーマリオブラザーズの、左右のボタンとAボタンで、画面の中で走り回る、あのマリオのような。
ただひたすらに、目の前にやってくる出来事を処理しながら、毎日をおくっている。

どうして、こんなになってしまったのだろう。

原因はわからない、っていうわけでもない。
ただ単に、「やらなければいけないこと」が多いのだ。

しかし、今の私がやっていることは、心の底からやりたいと思ってやっているか、と言われたら、微妙なところだ。やりたいか、というより、やらなければならない、そんなこと達だ。
それではないところで、やりたいことがある。
もしも今、全てのコミュニティから解き放たれたら、その「自分のやりたいこと」が、できるのに、と思う。

自分はできる、と基本は思っている。でもそれは過信かもしれなくて、そして高望みにつながっているのかもしれない。
いや、かもしれないのではなく、そうなのだ。
それだから、色々なコミュニティに所属したがってしまうこと、
他人から見たら、それは興味範囲が広いとか、逆に、八方美人とか、そう思われるのかもしれない。
でも、純粋に、ああ面白そうだな、と、そうでもあったかもしれない自分を妄想しては、現実を振り返らず手を出してしまう。

おっと?そういうことか。

今の私がやっている、「心の底からやりたいと思っているかと聞かれたらそうでもないこと」も、やり始める当初は、私がやりたかったこと、だ。
「自分の軸だとか、拠り所だとかがなくて、ふわふわと宙に浮いている感じ」なのは、私も同じなのだ。それでも、と探しながら、他者への配慮とか、責任なんかによって、自分の意思とは裏腹に、ほかを探せないほどの強すぎる拠り所になってしまった。
最初の純粋な興味とか、心から思う楽しさだとかが、もうそうとは感じられなくなってしまって、悲しかった。

だから、休憩を取ろう、とか、
高望みせず、やりたいことを厳選し、本当にやりたいと思ったことをやれ、とか、
自分に期待するな、とか、
そういうことを言いたいのではない。
自分へ期待はしたっていいししなくたっていいし、休憩は大事だけど取りすぎは良くないし、本当にやりたいことから溢れでたモノにも、輝いているものがあるかもしれない。
強いていうなら、こんなに一生懸命に生きてて偉い、とでも私は私に向かって言いたいのだろうか。誰にいうわけでもなく、自分にしか届かないのに、虚しさが響く。

読み返してみると、まるで、自分忙しい人間ですアピール、をしているみたいで、気遣ってほしいみたいで、いやそういうわけじゃないんだよな、と思う。もしこれ読んでる人いたら、なんかすいません。
自分でも、ここで何を言いたいのかはわからない。

ただ、吐き出すことで、楽になると祈っている。
ただ、雑に吐き出しただけ。
ただ、それだけだ。



ちなみに写真は、友達が忙しいと漏らした私に、柿のマリトッツォを作ったとくれました。市販のロールパンに生クリームと柿を挟んだだけやん、ってつっこみたかったけど、素直にとても嬉しかった。


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