見出し画像

Apple Macintosh GUIの祖、ジェフ・ラスキンやドン・ノーマンはiPadについてどう思っていたか?

本記事は"「ファイル」や「フォルダ」を理解できない学生が急増中"という記事の

ある意味では、ディレクトリ構造から検索システムへの変遷はビデオの貸し出しがレンタルストリーミング配信に移り変わったような技術的進歩の反映といえます。

に「ついにここまで来たのか、しかしファイルやフォルダを発明した方々は現状をどう感じているのだろう?」と思うことがあり、ふと調べてみたことについての備考録である。なお、筆者は漢字Talkや68k Macの時代からのMacオタクだが、近年のiPadや近年のiOSはなんか使いにくい気がしているタイプである。

GUIの概念を作ったMacintosh生みの親たち

PCにおいてディレクトリ構造の出現は階層化ファイルシステムの出現と同義であろう。階層化ファイルシステムはUNIXでは古くからあったが、個人レベルのOSでの搭載はPCは1983年のMS-DOS Version 2.0、Macは1985年のMacintosh System 3.1のHFS (Hierarchical File Systemからになる。

一方、ファイル管理上生じるディレクトリ構造を"フォルダ"、各ファイルをアイコンに対応する"ファイル"とするメタファーを持ったシステムは、Apple Macintosh が元祖でWindows 95がさらに広めたと言っても良いだろう。

当時のMacintoshのMac OS (Xになる前のClassic OS, System 7や漢字Talkの頃)のUI/UXやGUIのようなインタフェース設計で出てくる重鎮といえば、ジェフ・ラスキン(1943-2005)ドン・ノーマン (1935-)がすぐに思い浮かぶ。この二人が直接ファイルやフォルダを考案したのかは私は定かではないが、彼らはMacitnoshのUXやGUIに深く関わり、さまざまな本や論文も出していて思考を辿ることができる。
この二人の思想は興味深く、かつて私は二人の本を読んで「ここまで考えてMacintoshは設計されていたのか〜」ととても感銘を受けたものだった。そこで彼ら二人の言葉にフォーカスを当てて、ファイルやフォルダ、さらには近年のiPadのUI/UXについて彼らがどう思っていたかを覗いてみることにしよう。

ジェフ・ラスキンのファイルシステムについての言

ジェフ・ラスキンの名著  "ヒューメイン・インタフェース―人に優しいシステムへの新たな指針" (2001年)がある。この本では、

・既存のGUIがベストではない、人間の認知に沿った新しいシステムを設計すべき
・人間はファイル名にいつも適した名前をつけられるとは限らない、ファイル内容そのものによる検索を強化するべき
・フィッツの法則によりマウスカーソルの到達時間を考慮したUXとすべき

みたいな話が書いてあった気がするが、読んだのが昔なのではっきりと思い出せなかった。買うにも絶盤本で高い。

そこで、ラスキン本人の言を検索していたところ、
Jef Raskin: Unofficial Father Of The iPad? 
というとても興味深いサイトを見つけた。今は閉鎖したラスキン本人のサイト、
Web Archive, Summary of The Humane Interface
 
からの引用で、将来のiPadにつながるようなシステムを予見する彼の言が述べられている。特に興味深いのを孫引き引用すると、

And this one really screams “iPad”:
Interfaces must be designed to accommodate our ability to pay conscious attention to only one object or situation, called our locus of attention, at a time.
And this, which really presages Pinch In/Out:
The twin problems of navigation and limited display size can both be ameliorated by using a video camera paradigm, where the user can zoom in and out and pan horizontally and vertically over a universe of objects.
And so does this:
Another common feature of present systems, file names, causes difficulties in that it is vexing to have to come up with unique file names (within a limited number of characters) whenever you wish to save your work; it is even more difficult to try to remember file names at some later date. It is possible to eliminate file names altogether. In addition, a user should never have to explicitly save or store work. The system should treat all produced or acquired data as sacred and make sure that it does not get lost, without user intervention.

なんと、iOSやiPadのユニークな機能を2001年で予言し、最後のフォルダやファイルについては「こんな保存や管理が面倒なものはいらない、もっといい方法がある」とまで言っているのだ。ファイルやフォルダの概念自体を広めたMacintoshの生みの親自体が後年、ファイルやフォルダは必要悪でありコンピュータの必須要件ではない、と思っていたことに驚かされる。

これらのラスキンの理想が実装されたのがiOSやスマートフォンであるとすると、ラスキンがiPadを使った感想が非常に気になる。しかし、残念ながら彼は2005年没で初代iPhone(2007年)や初代iPad (2010年)を見る前に亡くなっている。

ドン・ノーマンのアフォーダンスとiOSのUI

Appleの認知工学者であり「誰のためのデザイン?」で有名なドン・ノーマンはAppleフェロー、かつAppleのGUI ガイドラインを作成するなどに関わっている。しかも現在もご存命である。

「誰のためのデザイン?」では、物理的な取っ手が持つ”引く”という動作をガイドするアフォーダンスの話とUI/UXへの応用の話などが思い浮かぶ。「ドアノブは引くことをアフォードするアフォーダンスを持つ、UIにもその状態が操作可能というアフォーダンスが必要」みたいな話である。
(余談、今知ったのだが2013年に誰のためのデザイン?は改版されているらしい、四半世紀後の「日常物のデザイン」 - Jst  に改版前後の比較、および追加されたアフォーダンスに対してのシグニファイアの概念の説明があり興味深い)

だが、現在のiPadを見ると、画面の端から指をシュッと動かすとメニューが出てくるが、手がかりは画面上のどこにもないようなという初見殺しが多い……
ノーマンのアフォーダンスはiPadの一体どこに存在するのか?  と私は日々思っていた。

そこで検索したら、面白い二つの記事が出てきたので一部引用させていただく。
原文の英語は全部面白いので興味ある方はじっくりご覧いただきたい。

How Apple Is Giving Design A Bad Name

Once upon a time, Apple was known for designing easy-to-use, easy-to-understand products. It was a champion of the graphical user interface, where it is always possible to discover what actions are possible, clearly see how to select that action, receive unambiguous feedback as to the results of that action, and have the power to reverse that action–to undo it–if the result is not what was intended.

そうだったよね〜と思う。Mac OSのアプリケーション感で統一されたルック&フィール、何ができて何ができないかが一目でわかるUXは本当大好きだった。

No more. Now, although the products are indeed even more beautiful than before, that beauty has come at a great price. Gone are the fundamental principles of good design: discoverability, feedback, recovery, and so on.   〜中略〜
The products, especially those built on iOS, Apple’s operating system for mobile devices, no longer follow the well-known, well-established principles of design that Apple developed several decades ago.

見つけやすさ、フィードバック、回復性といったノーマンが挙げたAppleのデザインの良いところは全て消えた、特にiOSで顕著、らしい。

when Apple moved to gestural-based interfaces with the first iPhone, followed by its tablets, it deliberately and consciously threw out many of the key Apple principles. No more discoverability, no more recoverability, just the barest remnants of feedback. Why? Not because this was to be a gestural interface, but because Apple simultaneously made a radical move toward visual simplicity and elegance at the expense of learnability, usability, and productivity.

Appleのインターフェースの低下はジェスチャーのみではない。習熟性、使いやすさ、生産性を犠牲にしてまで優雅さを取ったのだ……  とある。記事を見て、iOSが初期のノーマンの理想からは遠いところにいるなあとは思っていたが、ご本人も同じような感じだったのでちょっとスッキリした。ただ、ノーマンのお怒りはかなりのもので、もう一件2015年の記事 Design guru Don Norman: Microsoft is beating Apple at design ではかつての宿敵MicrosoftのUXのほうがよっぽどまともだとまで言っている…… ここまで言うか?レベルで驚いてしまった。

まとめ


本題のジェフ・ラスキンやドン・ノーマンはiPadについてどう思っていたかについて。

ジェフ・ラスキンは2005年没なので現在のiOSを見ることなく亡くなった、ただし生前はGUIの当たり前を見直し、2001年当時のコンピュータの限界と新たなUXの思想を考えていた。マウスやフォルダといったコンピュータの常識を超えて新たにデザインされたiPadのUXは、ジェフ・ラスキンが待ち望んでいたのかもしれない。

対するドン・ノーマンは存命人物であり、現在の複雑化するiOSを見て「デザインガイドラインがなくなりクソになった、discoverability, feedback, recoveryはどこに消えた?」と言っている。

この二人の違いはどこから来るのか考えてみると面白い。実際に動くiOSを見たかどうかの差だろうか?それとも、Macintosh全体のアーキテクトとしてのジェフ・ラスキンとUIの専門家としてのドン・ノーマンの差だろうか? 
ノーマンのiOSのUIにおけるフィードバックの欠如に対しての批判の話はまさにその通りだと個人的には思うが、現在老若男女にiPadが売れ、彼らがiOSを使いこなしてるかのように見える世の中では、ラスキンがいう通り、人民が待ち望んでいたポストGUIの使いやすいシステムがiOSなのではないかと思ってもしまう。いずれにせよ、いろいろな人の意見を読むのは興味深くて楽しいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?