2020/7/23(木) 石田尚志展

石田尚志展に来ている。
今、説明書きのない展示をみているが、とても気分が悪い。得体の知れないものが私に何かをうったえている、もしくはそこに元々いる神であるかのように鎮座しているのだが、それが、その正体が私には何かわからない。わからないからこそ何か気持ち悪さがある気がしている。

そもそもこの映像も気持ちがわるい。この作品は気の遠くなるような作業をこえてつくられたのであろうが、それにしても気持ちがわるい。
なにを表しているのかわからないからこそこんなに気持ちがわるい仕上がりになっているのかもしれない。常にうごめいていることも気持ちわるさに加担している。
動いていないものもあるのだが、それさえもくねくねと動きを表しているから、だから気持ちがわるい。色の使い方も、オレンジ、くろ、赤、白、黄、青でできている。作品一つにつき一色で塗られている。気味が悪い。
なぜここで白という色を使っているのだろうか。私なら絶対ここで白をつかうようなまねはしない。ここだけ空っぽで何もないかのように錯覚してしまう。本当は彼自身が表現する動くものがそこにあるはずなのに。動を表しているのか、静を表しているのか。
作品から何を伝えようとしているのかわからない。そもそも作品に名があるのか。名はなんなのかもわからない。そんなあたりとても気色悪い。
上と横に同じ映像を流しているのだが、その意味もわからない。ここで意味を求めていることがちょっと違うのかもしれないが、このような作品を目の前にして、私は考えずにはいられない。


〈部屋/形態〉

「静かではない」と思った。
窓の外には特に何も変化がない。自らの外ではなく、内を表現しているのだろうか。窓を通して、でも窓ではない何かをみている。
ここでの問題は窓の外ではなく、まどの内つまり部屋の中である。窓をモチーフにしてはいるが、窓の外に焦点をあてていない。しかも窓は変化せず窓の内のみで変化がおこっている。

線が時間の流れを手に入れる、とは?
時間の流れを手に入れたのではなく、線自身が時間に流されているのではないか。音楽はこわさの演出なのか?不思議な気持ちにはなるが、後味は悪い。

私は今ゆかに座った。
さっきはイスにすわっていたが、それはイスがそこにあったからすわっていたのだと思う。今はゆかに座っている。ゆかは座るものではないのだろうか。ゆかは反射する/させるもの?

これはお話の映像化なのだろうか。海を表しているのか?
あの、たまに出てくる映写機のような機械は何だ?
ネガティブな海を表しているのか?窓の外に海が見えて、窓が下におちて、線がまどをつくって、まどがおちるような描写が多いのはなぜだろうか。映写機はなぜ出てくるのか。
海がつくられたものであるといいたいのか。作品に意味を求めるのはまちがっていたのか、彼自身この作品に対して満足しているのか。
海の感覚を表すための音はこの一パターンだけなのか。海の特定の面だけを表しているからこそこのようになっているのか?

ぜんぶ線であらわしていいの?

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