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玄関のモニター

玄関モニターを覗くと見知らぬ若い男が映っていた。ガス点検や宗教勧誘など、そもそも玄関モニターなどというものは往々にして見知らぬ人間を映しては日常に不穏な緊張感を差し込んでくるものなのだが、加えて、いま画面に映し出されている若者がoff-whiteのジャージを着ていることを見とめ、私は居留守を決め込むことにした。off-whiteを着た若者は全員、なんらかの常習的な悪事に手を染めている。私の中にはそういったバキバキの偏見がある。こういう時はなるべく物音を立てずに佇み、やり過ごすに越したことはない。と、突然背後で「パン」と何かが破裂するような音が鳴った。硬直した体をゆっくり振り向かせると、IKEAで買った群青色のマグカップが床で割れている。洗い終えて水切りカゴに雑に積み上げたものが、重力に耐えきれず落下したようだ。それを受けて、ドア越しの気配が変化したのを感じた。ピンプピンプピンプピンプピンプピンプピンプ。母音の入る余地も許さず、ドアチャイムのピンポンが連打される。自分の中でoff-whiteへの偏見がより強固になるのを感じた。確かにコップを水切りカゴの極に置いたのは私だが、今の落下自体のきっかけはマジで私ではない。しかしなんかもう、そういった諸々を考えるのが面倒臭くなり、私はモニターの受話ボタンを押すことにした。最近、日常の些末なことに注意力を奪われるあまり、いざこうした慎重さが問われる局面において精細さを欠いた判断しかできなくなっている自覚がある。
「はい、なんですか」
若者はこの上なく丁寧な口調で返してきた。
「すみません、off-whiteです」
どういうことだよ。どういう自己認識なんだよ。そうです私が変なおじさんですじゃねえんだよ。
「どなたですか」
「お世話になってます、off-whiteです」
だから変なおじさんですじゃねえんだよ。早くも、安易に受話ボタンを押したことへの後悔の念が湧き上がってきた。軽く打ちひしがれながらモニターを見つめ押し黙っていると、若者は「いかがですか」と続けてきた。この状況について訊かれているのなら「クソすぎ」と応えるのだが、若者は、折り畳んでビニール袋に入れられたTシャツをこちらに見えるよう胸に掲げ、さらにこう続けた。
「42,900円です」
訪問販売だ。え、off-whiteの訪問販売とかあるの。無くない?そして全然普通に高い。しかし、相手の目的がわかったことにより私は少し安堵した。
「すいません、大丈夫です。間に合ってます」
常套句で締めると、若者は変わらず丁寧な言葉で返事した。
「わかりました、お忙しい中ありがとうございました」
僅かながら最後に会話が成立したことで私の胸に小さなカタルシスが訪れ、反射的に目頭が濡れた。これもう判断力だけでなく感受性とかもバグってる可能性あるなと思った。とりあえず、これにて彼とのやり取り自体は終了したのだが、しかしモニターにはその後3時間、特に何をするでもなく平静の面持ちでカメラを見つめ続ける若者が延々映し出され、さすがに無理すぎたので私はいよいよ通報した。数分すると、ドアの向こうでIKEAのマグカップが割れるみたいな音がした。警官が発砲したらしい。玄関モニターを覗くと、警官が群青色の陶器の残骸を手の平に乗せてこちらに見せていた。「off-whiteだけに」と言っていたが、どこが掛かっているのか全然わからなかった。

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