労働時間の違和感

最近、ずっと前からの違和感が在宅勤務によってより強くなった。私の職場はフレックス制を導入しており、一日の所定勤務時間×月の勤務日数=その月の労働時間の下限とされていて、それに足らないと減給となる。勿論、一人一人の個性や能力を正確に把握してそれに合わせて管理するのは不可能なので、労働時間という明確な基準を設けることは必要だと思う。でも、この月の所定労働時間を給与満額支給のボーダーとすると、仕事ではなく労働時間に対して給与が支払われているように感じる。

例えば一日8h勤務が原則のフレックス制の職場で、ある月の勤務日数が20日間だった場合、一ヶ月の所定労働時間は160h。仕事が速く手際が良い人が同じ仕事を150hで片付けることができても、その人は敢えてそんなスキルを発揮したりせず、わざわざ160hかけて仕事をする。これはなんだかおかしい。

この160hというのを、“給与満額支給のための所定労働時間”ではなく、“与える仕事の完成にかかる標準的な時間”とすることはできないだろうか。そして、例えばそのプラマイ5%(152h~168h)の範囲は個人差や繁忙の度合いによる触れ幅として、給料は同額とする。少なくとも自分なら、そうしてくれればもっと効率を真剣に考えるし、ミーティングで長々と話すなど人の時間を無駄にすることにも敏感になる。

以前の職場も現職と同様の制度で、更に業務量と評価が伴っていなかったので、仕事が速い人がより損をしていた。同じ給料なら仕事は少ない方が得だから、基本給の範囲では仕事をどんどんこなすよりゆっくりやる方が得。損得ばかりを優先し、どんな時も自分の業務範囲を広げようとしない人の存在によって、負担の偏ったアサインになっていた。

在宅勤務によって、一人一人の勤務状況を正確に把握することは不可能になった。それなら、労働時間はあくまでタスク完成の目安として、報酬は仕事に対して支払うという考えにシフトして欲しい、、というかそうでないと実情と合わないと思う。