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高貴と野蛮

高貴さと野蛮さは、セットで語られることが多い気がする。
まあ、今のところn=2なんですけど……

例えば、ジョン・ラスキンは『ゴシックの本質』の中で、ゴシック建築の「粗野」や「野蛮さ」を「高貴な特徴」であると評している。

ラスキンの言うところの「粗野」「野蛮」とは、建築が不完全で洗練されていないという意味である。

「建築が不完全ってどういうこっちゃ」と思うかもしれないが、これは例えば、シャルトル大聖堂の正面なんかを見ると分かりやすいと思う。

大聖堂の西側ファサード「王の扉口」

↑見て分かる通り、シャルトル大聖堂の尖塔の形は左右で統一されていない。
これは、長い時間をかけて大聖堂が造られる中で、その時代その時代の職人たちが思い思いに建築していった結果なのだろう。

その仕事は確かに現代的な建築の見方からすると「不完全」かもしれないが、同時に、当時の職人たちが「自由」であったことの証なのだ、とラスキンは言うのである。
まあ、自由じゃなければ「今ある尖塔とは違う形の尖塔を建ててみよう!」なんて思わないし、思ったとしても実行に移さないよね。

また──これは私の推測を含むが──彼は「高貴」という語を「自分なりの考えを持ち、かつ、それを行動や手仕事に反映させることができる状態」「思考するだけでも、肉体労働をするだけでもなく、その両方を行うような人間の総体的な姿」といった意味で用いているように思う。

だからこそ、ラスキンにとって批判されるべきは「自由に構想し、それを実際の仕事に反映させたゴシックの職人たちの、不完全な建築」ではなく「創意工夫する余地も与えないまま、人間を機械の歯車のように働かせる現代の労働の、完璧な製品」なのである。

ここで「建築や仕事の不完全さ(=野蛮さ)」は「自分で考え、それをたとえ完璧でなくとも手仕事に反映させるような自由(=高貴さ)」と結びつけられている

野蛮さは高貴さの徴候になるのだ。
現代の感覚でいうと、「野蛮」と「高貴」にはほとんど対極のイメージがあるように思えるから、これは面白いね。

そして、冒頭でn=2と書いたように、野蛮さと高貴さを結びつけて論じた人物は、私の知る限りでもう一人いる。ニーチェである。

(探せばもっといそう)

ニーチェは『善悪の彼岸』の「高貴とは何か」の中で、こんなことを言っている。
「貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」と。…そのものズバリだね!

ニーチェ曰く、他からの承認や評価に左右されずに自ら価値を決定する「高貴な」人間は、平等や同情といったものを嫌い、自分より下位の者に対しては好き勝手に振る舞う「野蛮さ」を持つというのである。
まあ、「人間には位階の高低がある」とか、現代的な価値観とは確かに相容れないし、野蛮ではあるよね。

とにかく、ラスキンにしろニーチェにしろ、「高貴さ」という言葉を「人間そのものに属する究極の自由(=総体的に自由な行動をすること/自ら価値を規定すること)」的な意味で用いているようだ。
そして、そういう自由を備えた高貴な人間は、えてして「命令に従って規則正しく働くこと」や「人間はみな平等であると考え、誰に対しても善良に振る舞うこと」といった現代文明的な道徳とはかけ離れていくものなのである、らしい。
高貴であることには、どうしたって「周囲に合わせ、平等さを重んじる温順な道徳」みたいなのとは相容れない、差別的で闘争的な部分があるのだろう。

まあ、少し分かる気もする。

殴られたときに殴り返さず、逃げて警察を呼ぶような人は、「理性的でまともで正しい」し、「暴力の行使を独占しようとする近代の法治国家にとっては理想的な国民」だろうが、高貴ではない。
警察に殴ったヤツを逮捕してもらってから病院で治療を受けたとて、多分、心の傷は消えないからだ。
モヤモヤが後を引くとすれば、それは、その人がその瞬間に自由でなかったことの証左である。だって、自由に行動したことについて、後からモヤモヤすることがあるだろうか?

逆に、殴られたとき即座に殴り返すような人は、「目には目を、歯には歯を」という紀元前並みの倫理観を持っているし、過剰防衛だのの可能性を考えればアホなことをしでかしているし、野蛮で暴力的で喧嘩っ早いのだろうが、おそらく先の人物よりは自由である。
だって、仮にいきなり殴られたとしてさ、逃げて警察に駆け込むよりも、一発やり返してやった方が絶対スッキリするじゃん?
そして、更なる殴り合いになることを恐れずに殴り返す人間には、その時点でおそらく高貴な者としての度胸があるのである。

(それが現代的な道徳に適うかはさておいてね)

さて、高貴さと野蛮さが結びつくのであれば、ここでいくつかの問いが浮上してくる。
「現代において、高貴であることは可能なのか?」「現代において、個々人が高貴であることは社会にとって正しいのか?」といった問いだ。

前者に関していえば「可能だが、どんどん難しくなっている気がする」というのが私なりの答えである。
まあ、国家も市場も道徳もガンガンに幅を利かせまくっているからね。

おそらく高貴な人間は、自由に対してどのように責任を負うのか、自分で決めるはずだ。自分の誇りにかけて、自由な行動をするはずなのだ。

しかし──前にもこんな話したな──国家が「数値化された」形で個々人に責任を負わせようとする社会、人間の誇りがその人の負う「責任」に対してなんらの重みをも持たない社会では、人は、自分が負うべき責任でさえ自分で決めることができない。

例えば、「懲役〇〇年」や「罰金××円」なんかは、典型的な国家による責任の数値化である。

補足

それに、金や市場も人間から「高貴さ」を奪う上で重要な役割を果たしている。

金が価値の尺度であると信じるならば、人間の価値──その人の持つ自由と責任の価値──だって、常に数値化されてしまうだろう。
給料やら賠償金やら保険金やらの額面によって。

とはいえ興味深いのは「信用貨幣に代わって金属貨幣が発達したのは、属人的な信用とは異なり、それ自体が普遍的な価値を持つ貴金属ならば、誰とでも簡単に交換できて、掠奪するのに向いていたから」という説があることである(表券主義、信用貨幣論だっけ?)。

これが仮に本当であるとすれば、「人の価値の数値化・没人格化=矮小化」の原因である金属貨幣(の論理)が発達したのは、まさに掠奪を行うような野蛮=高貴な人間が幅を利かせていた時代、ということになるかもしれない。

野蛮=高貴な人々によって発達した種類の貨幣が、めぐりめぐって人間の高貴さをぶっ潰す方向に向かうとは、「あーあ」と言うべきか「ざまぁみろw」と言うべきか……

余談

そして現代の道徳は、言うまでもなく、人々の間の不平等をなくそうと躍起になっている。
良くも悪くも、人間がより「高貴」であった時代に戻ることはないだろう。

正直なところ、私はそれでもいいと思っている。
少数の人々の「高貴さ(すなわち暴虐)」と引き換えに、多数の人々が平等と平和を享受できるというなら、それでいいじゃないかとも思うのだ。

まあ、ニーチェなんかは反論ありありだろう。
ニーチェにとって「現代において、個々人が高貴であることは社会にとって正しいのか?」などという後者の問いは、前提からして間違っているのである。
彼にとっては「高貴さが社会のためにある」のではなく「社会が高貴さのためにある」のだから。この問いは立て方からおかしいといえる。

だが私はニーチェではないので、ついこの問いのことを考えてしまうのだ。
ときに暴力的なまでの自由は、今の世の中でも必要なのだろうか?

やはり、たとえみんなが「奴隷(=高貴でない人間)」であっても、なお平穏であることが一番なのではないか?
誰しもが暴力の恐怖に怯えず、尊敬に値するものとして扱われることが大切なんじゃないか?

いや、むやみやたらに人の価値を平等に均そうとなんてしたから、却って国家と市場による人間の価値の数値化なんて、巨大な暴力的事態を招いたんじゃないか?
誰もが機械の歯車になってしまったから「人は自由だ」なんて言われても、どこか嘘くさいように感じてしまうんじゃないか? ──結局は「没人格的な意味での」責任がとれる範囲の自由しかない、「いくつかある選択肢の中から選ぶだけの」自由でしかないのだと。

そんなことを考えていくと、結局出る結論は「高貴さは社会にとっても必要だが、度を越してはいけない」という凡庸なものとなる。中庸ってニーチェがすげー嫌がるヤツやん。

ああ、つまらないなぁ。まあ、私は少なくとも純然たる・・・・高貴な人間ではないので、このつまらない結論も仕方がないね。

こうやって退屈で「奴隷的な」結論に落ち着きながら、それでも私は、野蛮なまでの高貴さへの憧れを完全には拭い去れずにいるのだろう。

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