漫画『仮面ライダー913』の連載が始まったので、改めて絶対孤高のライダーカイザこと草加雅人について思う所を述べてみる。

去る9月13日、仮面ライダー555好きとしては定番となった、仮面ライダーカイザこと草加雅人を愛でる日、通称カイザの日があった。

今年は草加雅人役の俳優の村上幸平さんが多忙のためか、いつものイベントがなく少しピンと来ないと言うかパワー不足感が否めなかったのだけど、555のスピンオフ漫画として『仮面ライダー913』の連載が発表され少しだけ555ファン界隈でどよめきのようなものがあったように思う。(あくまで個人的観測ですw

本日27日に電撃マオウでの連載が開始されたので、第1話の感想を述べつつ、改めて草加雅人という存在の何が異彩を放っていたのかとこの場で少し述べてみようと思う。

身寄りのない孤児達を集め、養父である花形を中心とした「流星塾」というコミュニティがある。
ある日その父親からカイザギアが送られてくる、この世界に突如と出現した存在オルフェノクに対抗するために仮面ライダーカイザに変身出来る能力を持ったベルトなのだが、適正のない人間が変身後に全身が灰化消滅し死に至る呪いのベルトである。
オルフェノクから身を守るために流星塾生がカイザに変身し、次々と犠牲者を出しながら彼ら彼女らは各地を放浪していく…

一方、辰巳家の養子として拭き取られ後継者として申し分ない修行を受けて、生け花やフェンシングなど文武両道の異才を持った青年、草加雅人。
(まだ語られてないけど、流星塾にいた後に辰巳家に引き取られた?)

雅人からするとこの家での出来事は自身の内側に秘める心の乾きを癒すものでもなかったようで、父と母に話しをして辰巳家から出て行く…

一方流星塾はかつての仲間達に連絡を付け、心当たりがあるであろう、草加雅人と園田真里と合流しようとする。
しかしオルフェノクと遭遇し、また犠牲者が出るのだが雅人が現れカイザギアを握り、オルフェノクと対峙する…

「オルフェノク…貴様らの存在は罪そのものだ。」

カイザに変身した雅人はこれまでの流星塾生とは違う、軽やかな動きと剣さばきでオルフェノクを一瞬で粉砕してしまう。

一体彼は何を思うのか…?

とここまでが1話の内容なのだが、漫画版クウガと違いこちらは元の555本編の設定を割と忠実に踏襲しているようだ。
井上敏樹が連続ドラマの作家ということもあってしばらく展開が進まない事にはなかなか面白さが見えてこないのでクウガ同様期待しつつ読みたいと思う。

ここで555本編に於ける草加雅人についての考察に移る。

思えば草加雅人という存在はかなり異端のなのではないかと筆者の私は思ってる。

幼い頃、川での事故で母を失い、愛情を与えられなかったことに強いコンプレックスを持つ。
その後流星塾の孤児として養父の花形に拭き取られそこの仲間達と共に過ごすのだが、引っ込み思案で自己主張の苦手な雅人はたびたびいじめにあうことも多く、幼馴染の少女である園田真里に守ってもらっていた。
雅人はその頃から真里に対して淡い恋心を抱くようになる。

それから数年後、大学生になった雅人はテニス部、フェンシング部、乗馬部の部長を兼任する文武両道の優等生となっていた。
そこでかつての流星塾生たちや乾巧と園田真里らのクリーニング菊池のコミュニティと合流し、雅人もカイザギアを手に入れてオルフェノクとの闘いに身を投じていくことになる。

過去に流星塾生たちはオルフェノクの襲撃を受けており、そこで彼ら彼女は一旦死んでしまうのだが、花形が社長であるスマートブレインの実験で、人間に『オルフェノクの記号』を埋め込み、後天的にオルフェノクに覚醒させる手術を施す。
塾生たちの蘇生にこそ成功するが、オルフェノクの記号が上手く定着したの雅人一人であり、記号の定着が失敗した者がカイザに変身すると灰化消滅し死に至る。
そのことで流星塾生、取り分け雅人はオルフェノクに対する強い憎悪を抱いている。
しかし彼の文武両道といえる『才能』は幼い時のコンプレックスと表裏一体であり、真里と再会を果たした事で彼女対する歪んだ愛情が次第に顕わになっていき、彼女との関係に障害になるであろう巧や木場勇治に対して敵意を向けるようになる。


「俺は必ず真理を手に入れてみせる、

真里はなぁ俺の母親になってくるかもしれない女だ!


俺を救ってくれるかもしれない女なんだ!!」




と雅人の真里に対する偏執的な愛情は次第にエスカレートしていく…

井上敏樹曰く、草加雅人は悪役(ヴィラン)として描いているつもりはないという、
彼の取り分け優秀ともいえる『才能』は幼少期の母親と死別して十分な愛情を得られなかったことへのコンプレックスの裏返しである。
人間関係やオルフェノクやスマートブレインを取り巻く状況に対して、冷静かつ分析的な意見を述べられる一方で、真里の事になると突如感情的に敵意を剥き出しする。

彼自身の感情の強弱の差こそ激しいが、この手の母親や隣人に十分な愛情を注がれなかったというコンプレックスは、10代から20代前半の思春期の多感な時期の男性に於いては誰でも持ち得る普遍的な感情だ。


太宰治や梶井基次郎(ともに井上敏樹が影響を受けたと語っている)などの古典文学、ガンダムなどロボットアニメ、思春期の自意識の揺らぎと身体性を巡る問いは繰り返し描かれてきた。
(戦後の文学やサブカルチャーの青少年の自意識の揺らぎとその変遷を歴史的に紐解くとこは本記事の趣旨と若干外れるのでまた別の機会にしたい)

雅人は自分と真里の関係に於いて邪魔になるであろう乾巧と木場勇治を互いに対立させようと画策して共倒れに狙おうとする。

巧と木場は段々とすれ違いと誤解に気付いて関係が修復がしていくのだが、その誤解が雅人が画策したものと知られるや、雅人は流星塾からもクリーニング菊池のコミュニティからも孤立していくことになる…

平成ライダーがある意味でヒーローの存在を殺したというのは巷でよく言われる。

井上敏樹曰く、ヒーローとは人助けをして名前の訪ねられても、名乗らずそのまま去っていく存在という。
名を名乗ったり、助けた人間と何かしらの関係を持とうしたりと自らのパーソナリティが露呈してしまった瞬間にその人はヒーローではなく単なる人間になってしまう。

平成ライダー初期(アギト、龍騎、555)はヒーローと怪人が存在するという部分において唯一嘘を付いてそれ以外はありのままの当たり前の現実を描いている。

マジックリアリズムといって、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』について論じられるときに使われるジャンルがあるのだが、

人が空中に浮いたり、豚のしっぽの生えた奇形児が産まれてきたり、血が意思を持って辺り一面に飛び散ったりと、魔法みたいな一読して荒唐無稽な設定を利用して、ブエンディア家という一族が6代に渡って滅んでいくという現実を描いている。
ブエンディア家は後継人や恋人を巡って諍いを繰り返したり、あるものはクーデターの革命軍を指揮して悪逆の限りを尽くしたりと、傍から眺めてて彼らの行為は滑稽さに溢れてる。

このブエンディア家と555に出てくるオルフェノクが纏う哀しさと滑稽さはとても重なって見える。
百年の孤独のブエンディア家にしても、555のオルフェノクにしても予め滅びる事が運命づけられており、滅びるまでの顛末がただ淡々と描かれていく。

マジックリアリズムとは本来的に特撮という物と相性の良い題材なのだ。

物語終盤、花形がスマートブレインに戻ってきて、木場勇治を新社長据える。
新社長が自分ではなく木場であることに衝撃と苛立ちを感じる雅人に花形は、オルフェノクの記号の効果が薄れてきてこのままカイザに変身すればいずれ死に至るので変身を止めるよう警告する。

その後、父である花形は何事もなく灰化消滅し、オルフェノクの未来を木場に託す。

木場は雅人をおびき寄せるために、あえて真里を捕らえる。
父の死を目の当たりにしても、なお出口を求めるように草加はカイザとして闘い続けようとする。
木場はオルフェノクの部下達を従え、雅人を排除しようとする。

しかし多勢に無勢…雅人は段々と不利になっていき、彼自身の身体もこれ以上の変身に耐え切れず変身が解除されてしまう。

息絶え絶えになった雅人の前に現れたのは、ベルトを奪い取りカイザに変身した木場だった。
雅人は皮肉にも自分の写し鏡であるカイザに息の根を止められ絶命する…

草加雅人という存在は何が異端だったのだろうか?

草加雅人は確かに天才ではあるのだが、彼の能力の伸び代になっているのは幼い時期の母親や幼馴染の女性の愛情の欠落から来るコンプレックスだ。
個人のスペックが高いが、自身のプライドとコンプレックスにあまりにも拘泥し過ぎてしまい、真里への全承認を求めそれを害すると判断した存在を次々と排除していき、自身の救うための選択肢を自ら削ってしまう。
ある部分での聡明な知見を持ちつつ、若者らしい苛烈さと愚かさというアンバランスともいえる二面性を抱えるのが草加雅人というキャラクターの特異性だ。

確かにヒーロー番組としてはこういったキャラクターは異端だ。
しかしこういった人間なら私達の生きてる社会には思い当たる人がいるし、そういった俗的で邪な感情というのは誰の心の内にも存在するものだ。

先ほどマジックリアリズムの話をしたが、井上敏樹は特撮という舞台装置を使って人間のありのままの姿と世界を描いた点に於いて特殊なのだろう。

よって乾巧や木場勇治、草加雅人が各々の外的要因が重なって滅ぶ人間は滅んで生き残る人間は生き残る。
雅人の抱く屈託やコンプレックスといった精神性そのものには、何の善性も悪性も帯びてはいない。
彼の苛烈な感情とある種の愚かしさは多かれ少なかれ誰でも当てはまるし、それゆえに彼はヴィランなどではないというのは詰まる所そういうことなのだろう。


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