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20年ぶりに大学で講義を聴いたような気持ち

Youtubeで安冨歩先生の講義を偶然見つけたので、聴きはじめたら引き込まれて最後まで観てしまいました。

安冨先生の講義を聴くのは初めてだったのですが、経済学をはじめとして多岐にわたる知の領域を縦横無尽に研究されてきたバックグラウンドから、「道」とは何か、『論語』と『老子』の世界を比較しつつ、最後は「礼」とは何かへと至る講義はとても明快でわかりやすく、ユーモアにあふれ、20年ぶりに大学で講義を聴いたような気持ちになりました。

とはいえ、以前こちらのnoteにも書きましたが、学生時代ぼくはほとんど大学に行かず音楽を聴いたり本を読んだりと遊び呆けていたので、そもそもこれまでの人生でちゃんと講義を聴いたことはありませんでした。

いまにして思うと、このようにスリリングな講義を聴くこともなく大学を卒業してしまったことは大変悔やまれます。過去の自分の稚気と怠惰が情けない。

同時に、もし20年前の自分がこの講義を聴いたとして、今日のようにストンと腹に落ちて理解できただろうかというと、おそらくそうではなかったろうとも思います。

学ぶということは、ただ知ることではない。知識という土台を得て、その上に自らの考えを立ち上げてはじめて学ぶということが成立します。

東京大学東洋文化研究所のサイトで、安冨先生はこのようなことを言っています。

知識というのは。オーダーメイドなんですよ。マイケル・ポラニーの言うように、自分用の「個人的知識(personal knowledge)」しかないんです。世界のどこかにあるはずの自分用の知識を、自分で読み解く。そういうふうに考えると、他の人の研究って、すごくありがたいんです。自分が考えるためのよすがだったり、考えようと思っていたことを代わりに考えてくれたり。そのかわり、自分が納得できないものは、たとえどんなに世評が高くとも、価値はありません。自分でやった研究も、たとえどんなに他人が褒めてくれようとも、無価値です。なぜなら自分が納得できないのですから。それが学問というものではないでしょうか。

自分が考えるためのよすがだったり、考えようと思っていたことを代わりに考えてくれたりする自分用の知識を、自分で読み解く。それが学問であると安冨先生は言っています。

ぼくは長いあいだ、正しくあらねばならないと強迫観念のようなものにとらわれて生きてきました。日常のなかで直面する選択には正解と不正解があって、その正解を選ばないと遠回りをすることになったり、よくないことに巻き込まれたりするのではないか、という不安や恐怖がぼくのなかにありました。

人生の遠回りをすることが悪いわけではないし、よくないことというのはある一面から見た場合の解釈にすぎないのですが、ぼくは特定の価値観にとらわれたまま世界や人生を見ていて、そこから自由になるまで時間がかかりました。

特定の考えや価値観に深く依存したり、とらわれている人にとって、「自分用の知識」を作り上げていくことは簡単ではありません。

「自分用の知識」とは、自己の価値観や考えという、自分の内側の声に基づいて作り上げていくものであって、社会であったり親であったり、自分の外部からもたらされた考えに依存しているうちは、自己の内側にオリジナルな価値観を築くのは難しい。

おそらく、「自分用の知識」を獲得していくことと、自分の内側の声に耳をすませることは相互に影響しあっていて、どちらかが先というものでもないのでしょう。それでも、「自分用の知識」を受け取るためには、受け取る側にある程度の準備が整っていることが必要な気がします。

若くして準備ができている人もいれば、時間をかけてゆっくり自分を発見していく人もいる。ぼくは後者だったのでしょう。

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学ぶということは気づきだと思います。気づきとは自分の認識や世界理解を広げる最初の一歩です。気づきのない学びというものはただの自己洗脳にすぎません。

社会人となって働くようになってから、ぼくはこの社会に順応しようと努力してきましたが、振り返ってみるとその多くは自己洗脳でしかなかった気がします。

そのような自己洗脳のことを、安冨先生は「魂の植民地化」と呼んでいます。

人間が型にはめられて使われる状態、それを「魂の植民地化」と呼んでいるのですが、「魂の脱植民地化」、つまりそこからどう抜け出したらいいかを考えることが現在の研究テーマです。この「魂」は、自ずから発展する性質を持っています。魂を伸び伸びと発展させることではじめて人は、幸福とか安心を感じるものだと思います。例えばガーンディーは、「魂の脱植民地化」の思想家であって実践家、人類史上最も偉大な人の一人だと思いますが、イギリス帝国主義と戦う理由を問われたときに、私は私の精神を思うままに発展させたいのに、イギリス帝国主義がそれを邪魔するからだ、と答えました。ガーンディーが唱えたのが、サッティヤーグラハ、つまり「真理にしがみつく」ことなんですが、その「真理」が、魂とか、本来の自分、身体のダイナミクスなどと私が呼んでいるものに当たると考えています。サッティヤーグラハは、どんなに恐ろしいことがあっても、自分の魂とか本来の自分から離れないということではないでしょうか。

「どんなに恐ろしいことがあっても、自分の魂とか本来の自分から離れない」

そのような状態に、ぼくもなりたい。

そして自分だけでなく、子どもたちがそのような心を失わずに大きくなっていける社会をつくりあげていきたいと、安冨先生の講義を聞いて改めて思ったのでした。


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