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愛の物語

※本稿は『風立ちぬ』のネタバレを含んでいます。ご了承ください。

スタジオジブリの『風立ちぬ』を観た。同作は2013年公開の作品だから、世間から6年遅れての鑑賞ということになる。

ずっと気にはなっていたのだが、なかなか観る機会がないままに今日に至ってしまった。なぜ今このタイミングなのかというと、TSUTAYAにゴジラやウルトラマンのDVDを借りに行くと息子が言うので、ふと思いつき、だったら『風立ちぬ』も借りてきておくれ、とお願いしたからだった。

結論から言うと、本当に素晴らしい映画だった。日本のアニメーション映画史に残る、宮崎アニメの金字塔ではないだろうか。アニメーション作家として、宮崎駿は今もなお日本のトップランナーであることを改めて実感した。

まず画が本当に美しい。躍動感あふれるアニメーションはもちろんのこと、印象派テイストの精緻な背景画に加え、洋館、和室、路面電車のデザインに至るまで、一部の隙もなくスタイリッシュかつぬくもりのある美術で統一されている。CG的な質感を極力排し、一貫して手描きのタッチで描かれているのはジブリらしい絵柄だが、それがただ素朴であるだけでなく、どこか凛とした佇まいを見せているのは、ひとえに製作者側の文化的基礎教養の高さによるものだと思われた。

アニメしか見てこなかった人間が作るアニメは、アニメ文化の中だけで蓄積された文化資本をもとに作られるので、どうしても閉じたものになってしまう。豊穣さが失われてしまう。生命力あふれる植物が育つためには、光と水、そして豊かな土壌がなければならない。

教養とは豊かな土壌のことだ。ジャンクなものからは、ジャンクなものしか生まれてこない。教養や知識は知っているからえらいという類のものではない。それは豊かな表現の前提だ。『風立ちぬ』の美術や細部のディティールに豊かさを感じるとするならば、それは長い時間をかけて作り手のなかに堆積した教養の豊かさによるものではないだろうか。

本作は零戦の開発設計者であった堀越二郎をモデルにしているが、これは二郎とヒロイン菜穂子との愛を描いた物語だ。

物語の序盤で、東京帝大生だった二郎は少女だった菜穂子と出会い、関東大震災の混乱に難儀している彼女たちを助ける。その後、将来を嘱望される航空機エンジニアとなった二郎は、開発失敗の失意のなか休暇で訪れた軽井沢で菜穂子と運命的な再会を果たす。二郎と菜穂子は互いの気持ちを確かめ合うが、菜穂子は結核の病に冒されていた。

二郎と婚約した菜穂子だが、病は進行し喀血するまでに至る。結核を完治させるべく菜穂子は二郎から離れ高地療養所に入るが、二郎を想う気持ちは日増しに募り、ついには療養所を抜け出して二郎のもとを訪れ、二人は結婚する。だが菜穂子の体は日毎に衰弱していき、一方の二郎は零戦の試作機の開発に全精力を傾ける。そして試験飛行が成功したその日、菜穂子は書き置きを残して療養所へ戻るが、そのまま再び帰ることなく他界する。

あらすじをなぞってみると悲恋の物語ではあるが、本作は恋する男女の別れを扱った作品ではない。もちろん喀血の描写であったり、菜穂子が死に向かいつつある様子は劇中で示唆されるが、二郎と菜穂子の暮らしは「今を大切に生きる」ことに向き合っていて、死の予感は常につきまとっているとしても、二人の気持ちは未来の喪失にではなく、あくまで目の前の相手に向けられている。

この愛する二人が美しいのは、互いの瞳に映る相手のことを深く思いやっているから、そして愛する相手が「本当の意味で」生きてほしいと強く願っているからだ。

菜穂子は二郎がエンジニアとして生きることを心から願っている。二郎の成功は菜穂子の喜びであり、二郎の苦悩は菜穂子の涙だ。互いの人生を尊重するだけではなく、相手がその人生を全きに生きてほしいと願う、そのようにお互いの人生と愛が一つになっている人たちがこの世にはいる。だがそのことを知らない人にとっては、二人の姿は独善的な男性に奉仕する女性という卑小な像に映るのかもしれない。

「二郎が夜遅く帰ってくるまで菜穂子は毎日一人ぼっちで離れに放置されていて可哀想だ」と非難する妹に、「ぼくたちは今を(残された時間を)大切に生きることにしたんだよ」と諭す二郎の言葉は、果たして独りよがりだろうか。それが独善かどうかは、愛し合う二人の姿を見ればわかるだろう。

恋愛ものの作品で時おり見られる、ただ相手のことを好きだ好きだと叫ぶ一方的な心情の開陳も、不治の病でこの世を去る恋人にすがって泣くことも、結局は自己愛の延長に過ぎないのではないだろうか。『風立ちぬ』で描かれているのは、そのような閉じた自己愛ではない。相手の人生と自らの人生が一つとなった、互いをただ思いやる愛、互いの存在がイコールとなった関係で生まれる愛だ。そのような愛は、たとえ相手が遠く離れていようとも、いま目の前にいなくても、深く互いに結びついている二人の間に生まれ、育まれるものだと思う。そして、そのような愛より他にこの世に美しいものはないことを、この作品は随所で示している。

このような成熟した美しい人の精神の有り様を、丁寧に、客観性をもって描くためには、深い精神性が必要だ。

そのような作品を作り上げた宮崎駿という存在は、日本のアニメーション映画界の財産なのだと、『風立ちぬ』を観て改めて実感させられたのだった。


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