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これからのぼくたちは何と戦うのか

参院選の速報を見ながら、開票速報そのものより、投票率が低いというニュースにショックを受けてしまった。

今の日本社会に満足している人が、何も変えようとは思わなくて、投票所に足を運ばないというのなら理解できる。

だが、社会のあちこちでほころびが出てきていて、生活も楽ではない、今の社会が息苦しい、そう思う人は決して少なくないはずなのに、投票率が低いというのはどういうことなのだろう。

自分たちの社会をより良くしてくれる、そのために自分の意見をある程度代弁してくれる(自分の意見を100%代弁してくれる人なんていない)人を選んで託す。選挙を通じて自分が暮らす社会のあり方について意見表明するのは当たり前のことなのに、選挙に行かないというのはなぜだろう。

みんな社会に対して問題意識がないのだろうか。社会問題に対するリテラシーを持つために必要な知性や教養が足りないのだろうか。それともマスメディアが選挙についてあまり報道しないため、ぼくたちの関心が薄くなってしまっているのだろうか。

戦後の衆議院選挙、参議院選挙の投票率については、総務省のまとめているデータがある。

http://www.soumu.go.jp/main_content/000365958.pdf

衆参両方とも、平成に入ってから急激に投票率が落ちている。例外は平成17年の郵政選挙と平成21年の衆院選(民主党への政権交代)だ。参院選は昔から衆院選と比べて相対的に投票率が低かったが、平成4年以降は60%を下回る投票率が続いている。

上記のグラフを見ると、1990年代からほぼ一貫して低投票率で推移しているが、2010年台に入って投票率の低下は拍車をかけている。

もちろん、教育の問題も、マスメディアの問題もある。特に学校では政治に関する教育が圧倒的に不足していて、基本的な政治リテラシーを身につけないまま18歳で参政権を付与され、若い有権者が困惑するのも無理はない。それに、そもそも日本の教育は子どもに「自分で考える力」を身につけさせない。

だが、2010年台になって日本人の知性や教養が突然劣化したとは考えにくいし、日本の教育に「自分で考えるトレーニング」が欠けているのは、この10年に限ったことではない。

マスメディアは数字が取れないからという理由だけで選挙関連の報道をしないのだとしたら、ただ我々日本人が選挙への関心、すなわち社会への関心を失っているからこのような低投票率が続いているのではないだろうか。

ではなぜぼくたちは選挙への、社会への関心を失ってしまったのだろうか。

いくつか理由は考えられるが、結局のところ、ぼくたちは諦めてしまっているのではないだろうか。

世の中はこのまま悪くなっていくばかりで、収入は増えず、生活は楽になることはなく、日本の人口はどんどん減っていく。自分がどんなに頑張っても社会も自分の人生も良くならない。

それに輪をかけるように、新自由主義的な自己責任論が耳元で繰り返される。お前が苦しいのはお前の努力が足りなかったからだ。あいつが貧しいのは、あいつがさぼったからだ。だって頑張ったオレはちゃんとのし上がっているだろ? お前は能力がないから底辺にいるんだよ。

誰だって毎日頑張っている。楽して生きている人なんて一人もいない。だけど努力が足りないと言われたら、誰もが一瞬そうかな? と思う。真面目で謙虚な人ほど、自分が悪かったんだって思ってしまう。

本当はただの運や偶然が支配要因なのに、自己責任論は結果だけを自分の成果に仕立てて、それができないやつは全部そいつ自身が悪いんだと言う。そうやって人の自信や尊厳を傷つけるだけではない、弱者を助けない、助けを求めることもさせない、人と人のつながりも断ち切って、みんなを孤独にしてしまう。

世の中が良くならないのなら、とにかく目先のことに集中してしのぐしかない、与えられた条件でうまくやるしかない。選挙に行ったって何も変わらない。

そういう諦めが、この国全体をべたーっと覆い尽くそうとしているのではないだろうか。

これからのぼくたちが戦わなくてはいけないのは、日本社会に蔓延している諦めだ。どうせ、結局、そんな言葉をつぶやいて安酒をあおるようなマインドと、僕たちは戦わなければならない。

諦めてしまったら、すべてが終わる。個人も、社会も、ゆっくりと死を迎えるだけだ。

ぼくたちは社会を変えられるし、他国から学ぶことだってできる。ヨーロッパのいくつかの国々は、かつて世界の覇権を握ったが、そこから長い時間をかけて緩やかに衰退している。だが彼らの生活は悲惨ではない。むしろ楽しそうな印象さえある。社会全体が大きく成長しなくても、人はそれなりに生きていけるし、人生を楽しむことができる。

だがそのためには、社会を自分たちのものにしておく必要がある。一部の誰かのものにするのではなく、みんなのものにしておかなければならない。ぼくたちは社会を手放してはいけない。誰かに任せきりではいけない。

この国はこの6年間でずいぶんと壊れてしまった。だがまだ手遅れではない。ここから再びスタートできる。そのためには、ビジョンが必要だ。ぼくたちはどう生きたいのか、どういう社会であってほしいのか、大切なことは何か、守らなければならないものは何か、そして変えていかなければならないものは何か。

誰かに任せっぱなしにするのはもうやめよう。社会を自分たちに取り戻そう。だって元々ぼくたちの社会だ。ぼくたち一人一人が、自分の人生をどうしたいのか、どんな日常を送りたいのか、そしてどういう社会を望んでいるのか。

誰かのビジョンを待つのではなく、ぼくたち自身で創り出そう。そのためには学ぶことも必要だが、学ぶことを面倒くさがらず、与えられるのではなく自分で手に入れよう。そのためには、教育がますます重要だ。

今日という日は何かの終わりではない。今日は始まりの日だ。そしてぼくは、これを読んでいるあなたと一緒に、ぼくたちの新しい社会を創るために、目先のことに一喜一憂せず、時間がかかっても諦めず、やるべきことに取り組んでいきたい。

そう強く思っています。

ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。