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私説・ゲーム外史(19.8.5更新)

0・はじめに。

 筆者が本稿を書く決意をしたそもそもの理由は、ゲームクリエイター松山洋のエントリに少々……否、腹の底から驚いたからだ。

第157号『ゲーム業界志望者の不合格理由一覧①』
https://note.mu/piroshi3/n/n0104706f2ccf

 氏によれば、ゲーム会社を志望する人は多数いるものの、その9割以上がボトボト落とされているという。
 それも技術や力量が足りない、というレベルの話ではなく、そもそもゲーム業界を知らない、ゲームを持ってない、遊んでいない、という人がほとんどだというのだ。わざわざ会社説明会に出向いて何をしに来たんだ?と素人ながら突っ込みたくなる話だが、恐ろしいことに事実だという。
 だがふと立ち返ってみれば、そもそもゲームのことは、どこで誰が教えてくれるのだろう?

 昭和50年頃に生まれた世代は、それこそゲームの歴史と並行するように生き、その歴史は体験とリンクしている。だが今就活をする世代は、この度リメイクされる『ファイナルファンタジーVII』が発売された頃に「生まれた」世代だ。
 ファミコン誕生から36年。無料のソフト開発環境も当たり前になり、小学校でプログラミングが授業になるようになった昨今。ゲームを知らないのではなく、ゲームを学ぶ前に流れてくる情報が多すぎて、まとめて学ぶ暇も手段も乏しい、というのも正解なのではないだろうか。

 そこで、僭越ながらファミコンと同世代に生まれ、今日までその変遷に寄り添って生きてきた不肖の私が、ゲームの歴史と現在、ひいては意外と知らないゲームの常識について語っていきたいと思う。
 相当に長い話になるので、ある程度区切りながら書き、以後随時加筆していこうと思う。

 なお、実際の歴史の教科書がそうであるように、ここで記される歴史もまた、いつか書き変わるかもしれない解釈の一つとして受け止めていただければ幸いである。

文中の敬称はすべて省略させていただいております。社名、肩書、所属等は当時のものです。
 また一部有料とさせていただいておりますが、新しい記事は本稿に書き足されていきますので、一度買えば再度支払うことなく続きを読むことができます。


1・最初のゲーム。

 Homo ludens
 近年、ゲームクリエイターの小島秀夫が設立した自社のマスコットに付けた名としておなじみだが、その起源は1938年に、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが著した著書に由来する。遊戯に人間の本質を求め、文化は全て遊びから生まれたという主張である。
 子供に棒切れ一本与えただけで、バットにしたり剣にしたり、跨って飛んで見せたりする様をみた……否、やったことがある人は多いだろう。一本の棒でそこまで遊べてしまう人類が、コンピュータなる機械を手にして、それを大人しく計算だけに使って満足するはずがない。
 それが証拠に、真空管はおろか、歯車で計算機を動かそうとしていた時代から、それを遊びに使おうとしていた記録さえあるのだ。
 故に世界で最初のコンピュータゲームは何か。という問いへの答えは、明確にはない。どこまで原始的な機械をコンピュータと呼ぶか。どの段階のものをゲームと呼ぶかによって様々だからだ。
 本稿では便宜上、ひとつのゲームをその始祖としたい。1962年にMITで産声をあげた『スペースウォー!』である。

 1961年、アメリカDEC社は自社が開発したミニコン『PDP-1』の1台を、MITに寄贈した。もちろん優秀な学内関係者たちにいじり倒させ、フィードバックを得るためだ。存分にいじり倒した彼らはその後、ハッカーの始祖とも呼ばれることになる。
 PDP-1の特徴は、リアルタイム処理を可能にした廉価な小型コンピュータであったことだった。当時コンピュータといえば、部屋一つを占拠するほど巨大な真空管のマンションのような構成で、費用は数千万ドル。しかも計算させる命令をいっぺんに打ち込んでから、まとめて結果が表示される仕組みだった。
 PDP-1は、大型冷蔵庫3台分ほどのスペースと、12万ドル(当時のレートで4300万円)という『お手頃価格』で、しかもキー(当時はタイプライターを使っていたが)で入力した文字が、押した瞬間に画面に出ると言う、高い対話性を持っていた。
 今では言葉にするのも気恥ずかしいほど当たり前のことであるが、当時このクラスの即時対話性を持ったコンピュータは、このPDP-1と、IBMとMITが米空軍の援助を受けて開発した、半自動防空システムだけだったという。
 ノータイムで答えをくれるコンピュータ。それがコンピュータをゲームに使うために不可欠な要素であることは、説明するまでもなかろう。
 
 当時MITに在籍していたスティーブ・ラッセルが、PDP-1の性能を誇示できるソフトを作ろうと、SF小説『レンズマン』から着想を得て生み出したゲームが『スペースウォー!』である。
 厳密に言えば、開発者は彼一人ではない。MITの優秀な仲間たちが様々な改良を加え、ゲームとして操作性やヴィジュアルもブラッシュアップされていった。
 また開発当時、モニタ画面と操作板が正対しておらず、横向きでの操作を余儀なくされていた不便さから、スイッチを別に作って繋げて遊べるように改良。世界初のゲームコントローラがこれである。

 筆者が『スペースウォー!』をゲームの始祖に据えた理由はもう一つある。このゲームが、はじめて商用化されたコンピュータゲームでもあるからだ。
 PDP-1の記録メディアは穿孔テープであったが、スペースウォー!のそれは機械の横に置かれ、誰でも持ち出し、複製ができた。やがて複製を繰り返し、スペースウォー!はほぼ全てのPDP-1に普及していく。
 同じくPDP-1が置かれていたユタ大学工学部にいたノーラン・ブッシュネルは、そこでセットのように出回っていたスペースウォー!と出会う。その今までにない楽しさと、遊園地のアルバイトで養った商才が、彼にビジネスチャンスを予感させた。
 1970年。半導体の価格が下がるのを見たブッシュネルは、自宅の次女の部屋を工作室に改造し(次女は長女の部屋に追いやられた)、仕事から帰ると毎晩この部屋で作業に励んだ。
 71年、ブッシュネルはこのゲームを『コンピュータースペース』と銘打ち、世に送り出す。だがブッシュネルの熱意と家族の協力(?)も虚しく、コンピュータースペースは世間に受け入れられなかった。
 原因は、当時の遊びとしてはいささか煩雑な操作性や、ブラウン管で映し出しても見栄えの悪いグラフィックなどが挙げられる。その実、技術者や学生には受けたものの、それ以外の層には見向きもされなかったという。

 だがブッシュネルは諦めず、スペースウォー!の販売権を売り渡し、翌年新会社『ATARI』を設立。今もゲーム業界に名を轟かせるこの会社は、この直後、まさにゲーム市場を生み出す大ヒット作を世に送ることになる。
 その起源を知るためには、時計を少し戻さなくてはならない。1966年。ドイツ生まれのアメリカ人発明家ラルフ・ベアが作った、奇妙な褐色の箱からそれは生まれた。


2・ゲーム、家庭へ。

 ラルフ・ヘンリー・ベアは、1922年のドイツに、ユダヤ人の子として生まれた。16歳の時、ナチスの迫害から逃れるため、家族でアメリカに亡命。工員として働きつつ独学で勉強し、テレビ工学の学士号を取得した。
 1966年。メモ癖のある彼は、こんな言葉をメモしていた。
「テレビで見たくもない番組に対応するにはどうしたらいいか。テレビをゲームに使えばよい」
 こうして生まれたのが、数種類のゲームを内包したゲーム機『ブラウンボックス』である。
 だが、当時ベアが務めていたサンダース・アソシエイツ社は、彼のアイディアに極めて冷淡だった。同社が軍需産業であることや、当時不特定多数で遊ばれているゲームがスペースウォー!だけで、その面白さが伝わらなかったことなどが原因だった。
 その後も改良を重ねつつ売り込みを続けた結果、6年後の1972年、電気機器メーカーのマグナボックス社とのライセンス契約のもと『オデッセイ』の名で世に放たれた。

 発売前展示会でオデッセイに触れた人々の中に、ノーラン・ブッシュネルがいた。コンピュータースペース失敗のショックの残るブッシュネルであったが、オデッセイの魅力に感銘を受け、すぐさま独立起業を決意。社名は趣味の囲碁用語から『ATARI』とした。
 1972年。ブッシュネルはオデッセイに収録されていたゲームの一つ『テーブルテニス』を元に、二人用のアーケードテニスゲーム『PONG』を発売する。ロケテストとして置かれたカリフォルニア州のバーでは、開店前から客が列を成し、コインが貯まりすぎて故障するという騒ぎになった。
 PONGはその後も売れ続け、一説では1万台を超える数が生産されたという。
 が、学生の趣味で生まれたスペースウォー!と違い、PONGにはオデッセイという明確な先行商品があったため、のちにマグナボックス社に提訴され、ライセンス料を支払うこととなった。

 こうして開かれたビデオゲーム市場に、その後も多くの企業が名乗りをあげる。セガ、タイトー、エポック社、新日本企画など、今なお名を残す企業も、この頃ゲームに手を広げた。
 家庭用、アーケードが入り乱れ、群雄割拠する1977年。ゲーム史を語る上で欠くことのできない巨人を、ブッシュネルが三度生み出すことになる。


3・熱狂の冬。

 PONGの大ヒットにより、1972年に資本金500ドルで始まったATARIは、翌年に320万ドルを売り上げ、75年には5000万ドル規模の大企業に拡大するという、空前絶後の急成長を遂げた。
 ブッシュネルはそんな成功にも歩みを止めず、家庭用の『ホームポン』や、今なお多くの派生ゲームを生む『ブレイクアウト』をリリース。(この頃あのスティーブ・ジョブズが在籍していたという話も面白いのだが、ここでは割愛する)
 そして1977年、ワーナーコミュニケーションズへの売り渡しなどで得た資金を元に、家庭用ビデオゲーム機『ATARI VCS』(のちに2600に改称)を発売する。
 本機の特徴は、当時として高性能を誇った本体仕様もさることながら、そのソフトウェア開発仕様を広く公開することで、誰もがゲームを作れるようにしたことだった。オープンソースの先駆けともいえる施策である。
 発売直後のATARI VCSは、その真新しすぎる製品形態から、小売業者の不信を買ったり、先行するゲーム機との競合などから不振が続き、ブッシュネル自身が解任されるまでになった。(これについては、ブッシュネル自身が解任されようと仕向けていたという解釈もある)
 が、それまで光点を出すのが精一杯だったゲーム機に比べ、カラーで表示されたキャラが動き回るATARI VCSは、オープンソースの甲斐もあり、市場に多くのソフトが流通。78年に日本を席巻した『スペースインベーダー』が移植された80年に、人気は絶頂を迎えた。

 しかし発売から5年を数えた1982年。30億ドルと言われた北米ゲーム市場が、突如機能不全を起こす。ハード、ソフトは売れず、売り場から客の姿は消え、最大の商戦期であるクリスマスにも、人々はATARIを求めようとしなかった。販売店、メーカーの倒産も相次ぎ、ATARI自身も家庭用ゲーム部門の売却を余儀なくされる。
 その原因と経過は後述するが、累計販売台数2500万台(諸説あり)、全米の30%の世帯に普及したと言われるATARI VCSを頂点とする北米ゲーム市場は、85年には1億ドルにまで衰退していた。
 人々はその現象を『Video game crash of 1983』と呼び、日本ではアタリショックの名で刻まれることになる。

 アメリカがビデオゲームへの怨嗟のような空気に包まれる中、一人の日本人がその様をつぶさに観察していた。彼はアタリショックを冷静に分析し、そのレポートを日本にいる義父へ報告する。この一報が、失墜したビデオゲームの地位と価値を回復……否、それ以上のものに昇華させることになる。
 手紙を送った男は、Nintendo of America社長、荒川寛。義父は誰あろう、任天堂三代目社長、山内溥である。

 ……と、あのハードに登場していただく前に、同時期の日本のゲームについてもおさらいせねばならない。時は、日本が宇宙人の侵略を受けていた頃に遡る。


4・侵略者来たる!

 時計を再び巻き戻して、1977年。アメリカを席巻した『PONG』『ブレイクアウト』が、日本にもライセンス製品やコピーなどの形で広まりだした頃、タイトーはブレイクウトを元にした『ブロックくずし』を発売した。
 中身はもちろんブレイクアウトそのものであったが、このゲームが秀でていた事は、それまで冷蔵庫のようなアップライト式が当たり前であったゲーム筐体を、はじめてテーブル式にしたことだった。
 これは、かつてジュークボックスのメーカーとして喫茶店への出入りも多かったタイトーが、喫茶店のテーブルとしても使えるようにすることで、店の効率をアップさせるための施策であった。
 このテーブル筐体が大いに受け入れられ、後にゲーム業界に光と陰を落とすことになる。
 タイトーはこの波を逃さぬよう、アーケード開発部の西角友宏に、新たなゲームの開発を命ずる。

 西角はブロックくずしのゲーム性を元に、デザインを大胆にアレンジした。ただそこにあるだけだっったブロックが、左右に移動し、攻撃してくるのはどうか。ならばボールを跳ね返すだけでは足りない、こちらも反撃しないと。
 攻めてくる敵は、当初戦車や人間というアイディアもあったそうだが、結局宇宙人に落ち着いた。先人も資料も皆無であった時代、グラフィックからツールの作成まで、ほとんど西角一人で行ったという。
 1978年、世に放たれた『スペースインベーダー』は瞬く間に社会を侵略していった。高校生から若いサラリーマンを中心に、スペースインベーダーを置いた店舗には人だかりができ、インベーダーハウスなる専門店も登場。筐体の生産が追いつかず、裏に表に争奪戦が繰り広げられ、文字通りの社会現象となった。

 このゲームには、ゲーム史を語る上で抑える点がもう一つある。はじめて「プログラム」を使ったゲームだったのだ。
 若い人には想像しづらいかもしれないが、それまでのアーケードゲームは、基盤そのものの動作でゲームを実行していた。つまりゲームごとに本体を開発、製造していたのである。
 半導体技術の劇的進歩と、マイクロコンピュータの誕生を見た西角は、汎用的な基盤を用意し、動作命令を格納したROMを別に組み込むことを思いつく。発想自体は大型のコンピュータでは当たり前のものだったが、ゲームに使った例はこれが初とされている。

 かくして、日本ゲーム市場を開闢したインベーダーであったが、同時に我が国のゲーム業界に濃い陰を刻むことにもなる。
 喫茶店など飲食店での展開を容易にしたテーブル筐体であったが、これが飲食店に若者を集め、たむろさせる原因になった。全国で教師やPTAの巡回が行われ、補導される生徒が続出。社会現象はそのまま社会問題へと転化していった。
 しかしスペースインベーダーは、結果タイトー純正品と許諾メーカー品だけで20万台を販売。コピー商品を合わせれば、その倍の台数が日本に流通したとされ、40年経った今なお、ゲームのアイコンとしてそのキャラクターは認知され続け、名実共にゲームの侵略者となったのである。
 スペースインベーダーの功績はその販売台数にとどまらず、多くの派生ゲームを生んだり、デジタルゲームの存在と経済的影響力を世に知らしめることにもつながり、またゲーム史のひとつの節目ともなった。
 同じく1980年。日本ゲーム市場にもう一つのマイルストーンが生まれる。携帯ゲームの誕生である。


5・王国の黎明。

 任天堂は明治22年、京都は下京区に花札製造業として生まれたが、当時創業者の曾孫である三代目社長の山内溥が、タクシーなどの多角経営に乗り出すも失敗。苦境に陥っていた。
 そんな中、入社間もない機械の保守係の青年が、暇つぶしに格子状の伸縮バネのおもちゃを作って遊んでいるのを見つける。すぐさま彼を社長室の呼び出した山内は、落雷を覚悟した顔の青年に言った。
「それを商品化して売りなさい」
 かくして、花札とトランプのメーカーでしかなかった任天堂から発売された異色のおもちゃ『ウルトラハンド』は、コピー品が出回るほどの大人気商品となった。
 このヒットをきっかけに、任天堂に開発課が新設され、青年と2年先輩の経理担当が配属された。青年の名は横井軍平。のちに携帯ゲームの父と呼ばれる男である。

 ある日横井は、新幹線の中で面白い人物を目にする。電卓をぽちぽち押しているのだが、計算をしている風ではない。どうやら遊んでいるらしかった。
 暇つぶしに遊べる小さなゲーム機……。横井はこの着想を、すぐさま山内に話す。僥倖であったのは、山内がその後、シャープ社長の佐伯旭と会う機会があり、佐伯が液晶の新たな開拓先を探していたタイミングと一致していたことだった。
 当初それは、ビジネスマンが余暇の時間に遊ぶものとして設計され、時計機能と説明書を読まずに遊べるシンプルなゲームを合わせた「ゲーム付き時計」を目指して設計された。
 1980年4月。『ゲーム&ウォッチ』第1作『ボール』が発売。シンプルなゲームと5800円という価格が受け、飛ぶように売れた。
 任天堂にとって嬉しい誤算であったのが、主購買層が小・中学生になったことだった。これにより、ラインナップはゲーム性の強い作風に変わっていき、ブームを長続きさせ、86年までに60種をリリース(59種とする説あり)。国内で1287万個、海外で3053万個を販売する大ヒット商品になった。

 任天堂が世界のゲーム業界に覇を唱える足掛かりはこうして出来上がった。しかし真の躍進には、横井軍平と並ぶ、もう一人の伝説が不可欠だった。

6・ヒゲとゴリラ、NYへ行く。

 任天堂は、ゲーム&ウォッチを発売するのと同じ1980年、ニューヨークに現地法人『Nintendo of America』(NOA)を設立する。とはいっても、社員は荒川寛とその妻(山内溥の娘)だけだった。
 荒川夫妻にまず課せられたのは、任天堂が生み出したアーケードゲーム『レーダースコープ』を北米で販売することだった。
 先に荒川は、ロケテストとして一台を設置。同年販売されたATARI2600版のスペースインベーダーの流行も背景に、ゲームは上々の評判を得、荒川は思い切って3000台を日本にオーダーした。が、ここで思わぬ不運に見舞われる。
 輸送費節約のため、空輸ではなく船便で送ることなったのだが、太平洋を渡りスエズ運河を通り、日本から約半年の長旅を経て辿り着いたレーダースコープは、その長旅の間にブームが下火になってしまい、全く売れなくなっていた。
 それでもどうにか1000台は売ったものの、倉庫には2000台の在庫が残った。窮地に立ってしまった荒川は本社に、中身のゲームを替えて売り出すから、新しいゲームを作って送ってほしいと打診した。

 任天堂で開かれた緊急会議の席上、開発第一部部長の横井軍平の口から白羽の矢が立ったのが、当時クリエイティブ課で広告や筐体などのデザインをしていた、入社3年目の宮本茂だった。
 横井は、それまで技術職……いわゆるハードウェアの人間が当たり前のようにゲームも作っていたが、これからはソフトウェア側の人間に作らせてはどうかと考えた。
 が、実際のところ任天堂は当時、売れに売れているゲーム&ウォッチのことで手いっぱいで、新たに回せるゆとりがなかったので、若い社員に仕事が回った。という異説もあるが、その両方が理由だとも言える。

 思わぬ任を受けた宮本は、早速当時流行していたゲームを分析。目的がわかりやすく、それを達成することがゲームの要であると見出し、インベーダーやパックマンのように、目標をすべて消すゲームではなく、ゴールに到達するゲームを考案する。
 坂を転がってくる樽をジャンプで避けてゴールを目指す。という着想を得た宮本は、そこから芋づる式にデザインを決めていった。なぜ上を目指す?愛しい彼女がいるから。敵は粗暴なばかりでは嫌だ。ヒロインを小脇に抱えて逃げ去る腕っ節と愛嬌がなければ。大きくて間抜けなゴリラを使う案ができた。
 主人公は恋人がいる「若い男」で、なぜかゴリラを飼っている。が、そのまま青年をキャラに落とし込むと、当時の荒いドット表現とモニターでは、その容姿がぼやけてしまい、左右の向きさえわからなくなる。そこで思い切り鼻を大きくし、口髭をつけて左右の向きをわかりやすくし、少ない色数で手足の動きを表現できるオーバーオールを着せ、職業も大工とした。
 マリオのデザインは、当時の機能的制約が生んだデフォルメの奇跡だった。
 ちなみにこの時、まだこのキャラに名前はなかった。その由来は諸説あるが、宮本本人がインタビューで答えたところでは、当時NOAの倉庫兼社宅があった建物の管理人にそっくりだったので、彼の名前からマリオと名付けられたらしい。

 宮本はプログラム以外のほぼ全行程を一人で手がけ、4ヶ月で完成させた。こうして出来上がった『ドンキーコング』は、すぐさまニューヨークに「空輸」され、首を長くして待つ荒川の元へ届けられた。
 荒川はまず1台だけROMを交換し、近くのアーケードに置いた。翌日チェックしに行くと、機械には25セント硬貨が35ドル分溜まっていた。
 荒川は、間違いではなかろうかと思いつつ箱を空にし、翌日また来てみると、今度は38ドル溜まっていた。以後1週間、収入は右肩上がりを続けていった。
 ひょっとしたら凄いものができたのでは、と感じた荒川はさらに数台ROMを交換し、ほかの場所にも設置した。結果は同様だった。
 荒川はすぐさま日本に追加注文を出し、妻と数名の従業員総出で夜なべして、在庫のレーダースコープをすべてROM交換し、筐体を塗り替えた。
 結果ドンキーコングは、全米で累計6万台が普及する大ヒットゲームとなり、NOAはおろか任天堂の躍進に貢献することとなった。

7・2500万台の失敗。

 ドンキーコングがアメリカを席巻する中でも、ATARI2600(VCS)は家庭用ゲームの王者であった。アメリカの子供達がサンタさんにリクエストするのは、ダントツでTVゲームがトップだった。
 1983年のクリスマスシーズンも、当然TVゲームが主役であると、玩具販売の関係者は誰も疑わず、生産も在庫も存分に用意して子供達を待ち構えた。
 が、蓋を開けてみるとゲームは全く売れず、ATARIの経営母体であるタイム・ワーナー社の株が急落。ニュースが報じるまでの事件に発展した。

 後にVideo game crash of 1983と呼ばれる一連の事象は、日本でもアタリ・ショックの名で知られることになる。が、あまりに多くの要因と現象が数年に渡って絡み合ったものであるため、解釈と解析も多岐にわたっており、これをまとめようとすると、それだけで本になってしまうほどだ。
 ここでは、二人の人物が過去インタビューで答えた話から、あるポイントに絞って整理したい。

 一人は、ATARI草創期に入社し、ブッシュネル退陣後も経営陣としてATARIをささえた、ダン・ヴァン・エルデレン。彼はその時の様子を「劇的な終焉」と語った。
 80年代に入ると、多くのメーカーが家庭用ゲームに参入。ATARI2600をライセンス販売するメーカーも増え、技術仕様をオープンにしていたことから、誰もがATARI2600用のゲームを作り、売ることができた。
 ATARIがそれをオープンにした狙いは、市場に多くのソフトを流通させることで、消費者の飽きをなくし、また開発者たちの切磋琢磨を促し、ソフトの質を上げようというものだった。
 だが皮肉にも、その先は真逆の結果になった。
 その珍しさも手伝って、全世帯の30%にまで広まった市場は、ソフトを出せば小金になるという状態になり、メーカーは安直で粗末なゲームを数うって儲けようとした。結果、ユーザーは買っても買ってもつまらないゲームばかりに当たるという状態になり、急速に興味を失っていったのである。

 もう一人、NOAの荒川寛社長も、その急落の現場を間近で見ていた。
 当時、問屋や小売店にゲームの話をしに行くだけで、皆嫌な顔をしたという。問屋は在庫を抱え、小売店は解雇者まで出し、消費者は高い買い物をしたのにつまらないゲームばかりだと呪っていた。
 だが同時に荒川は考えた。結果はどうあれ、世帯普及率30%という、玩具の常識を逸脱した売れ方をしたことは事実だ。日本でも同じことができる可能性はあるし、アタリ・ショックのようなことは、工夫次第で防げるはずだ。
 荒川はこの報告を任天堂本社に届けた。まさに任天堂では、ゲーム&ウォッチに次ぐ施策が始まっていたのである。


8・すべては家族のために。

 1981年。北米ゲーム市場の隆盛と瓦解を見ながら、任天堂は家庭用ビデオゲームの開発に着手した。言わずもがな『ファミリーコンピュータ』である。
「3年間は競争相手が出ないような機械をつくれ」
 山内の鼻息も荒い号令の下、開発責任者となったのは、開発二部部長の上村雅之。任天堂の玩具『光線銃シリーズ』開発の縁で、シャープから転職してきた技術者である。

 やや話が逸れるが、ファミコンが任天堂初の家庭用ゲーム機だと思っている方もいるかもしれないが、それは間違いである。
 1978年に任天堂は『カラーテレビゲーム6』『カラーテレビゲーム15』を発売。これはいわゆる、それぞれ6作と15作のゲームを内蔵したもので、それ自体が電子回路で制御され、スイッチの切り替えでゲームを選択して遊ぶ機械だった。
 やがてタイトーが放ったスペースインベーダーにより、ゲームはプログラムの時代に変わる。プログラムのおかげでNOAの窮地は救われ、ゲーム&ウォッチにより莫大な利益を得たことは、既述の通りである。

 ATARI2600の「熱狂」を見て、カセット方式のゲーム機を日本で展開しようと考えるゲームメーカーは、当然少なくなかった。78年には東芝が『ビジコン』を、81年にはエポック社が『カセットビジョン』を発売。任天堂はむしろ、後発に数えられるメーカーだった。
 このブームの背景には、半導体技術の発達により、高性能なLSIを安価にカスタマイズして生産できる体制が出来上がったことなどがあった。
 上村は半導体メーカーのリコーと打ち合わせを重ね、なんとかファミコン製品化の目処が立ちそうだと山内に報告。すると山内から新たな指示が下った。
「価格を1万円以内にしなさい」
 ゲームは所詮娯楽であり、お客はゲームを遊ぶために機械を買う。高いと言われては買ってもらえない。親が子供に与える娯楽として、ギリギリの値段がそこだという、山内の商才と哲学の結論だった。

 上村ら開発チームは当初、ハードウェア側の機能をできるだけゆったり持たせ、ソフト屋の思うままのゲームを作ってもらおうと考えていた。一度売った機械は、後から新しい機能を足せないからである。が、それでは何度設計しても2万円はするゲームになってしまう。
 上村はまず、最もコストのかかる基盤周りを見直す。低コストのチップで構成するには、そこで走るプログラムも制約せざるを得ない。絵と音の協業であるゲームにおいて、何を削ればいいかは技術屋には思いもつかない。そこでデザインに長じた宮本茂らが呼ばれ、表現色を54色まで絞り込み(一度に発色できるのはそのうちの25色まで)、音も矩形波と三角波とノイズを組み合わせた、独特の電子音となった。
 筐体のデザインにもこだわった。それまでコントローラは、電卓ほどの箱から突き出たジョイスティックで操作するのが当たり前のようになっていたが、上村はコストがかかる上、踏んで壊す恐れのあるそれが気に入らなかったし、こたつと畳の国では、その可能性はなお高いと考えた。
 そこでゲーム&ウォッチで採用された十字キーを使い、平たく安価に作れるコントローラを開発する。
 本体も、金型が低コストに作れる直線主体の矩形。色は2色に絞り込み、ベースの白と、山内の好きな臙脂色を採用した。

 こうして完成したファミリーコンピュータは、価格こそ14800円と、山内の望みに達しなかったものの、存分な性能を携えて家庭用ゲーム機の世界へ船出した。時に、1983年7月15日のことである。

「ファミコンの発売日」というと、あの長蛇の列を想像しがちだが、実際世間の反応はどうであったか、様子を知る資料は少ない。
 上村の近年の講演記録によると、発売された1983~84年までの間は44万台「しか」売れず、アタリショック直後であった当時は、MSXのようなパソコンの時代になると国内でも言われ、苦戦を強いられたという。
 このパソコンという言葉が、時代を語るキーワードとなる。同時期……否、ファミコンと同じ83年7月15日に発売されたもう2つのハードは、まさにそんな時代を切り取ったような製品であった。


9・東の王国。

 コンピュータが誕生し、その頭脳が真空管からトランジスタ、そしてマイクロプロセッサに移り変わり、価格が安価になっていくと、当然のごとくコンピュータを、小規模オフィスや個人の元に届けようとする気運が起きた。
 パソコン史の編纂は他に譲るが、1970年代の中頃に始まったとされるそれは、年々加速度的に進歩を続け、80年代に入ると、一社に一台というほどの珍しさはなくなり、好事家や一般家庭にも手の届くパソコンが出回っていった。
 パソコン市場にも、主役の座を争いながら舞台を駆け回る多くの者たちがいた。アップル、IBM、NEC、富士通といった企業たちが、技術を磨き、競いあった歴史でもある。
 そして家庭用ゲーム市場もまた、ATARIや任天堂のみならず、多くのキャストが戦った舞台であった。

 西の京都に任天堂あらば、東は羽田にかの会社はあった。アーケードゲームの世界で圧倒的存在感を示していたセガ・エンタープライゼスは、インベーダーの侵略により、それまでのエレメカ路線からビデオゲームを主軸と変え、そのノウハウを蓄積していった。
 MSXなどに代表される、いわゆるホビーパソコンと呼ばれる、10万円前後のパソコンが普及し始めた頃、セガは三万円を切るパソコン『SC-3000』を発表(システムソフトを別売りにするなどの工夫もあった)。パソコンを学んでゲームでも遊べ、同等の性能を持つ他機種より数万円安い価格で勝負に出た。
 が、SC-3000の開発が終わりに差し掛かった頃、任天堂がファミリーコンピュータの発売を発表。セガは社長の号令一下、SC-3000から多くの機能と端子をカットしたゲーム専用機『SG-1000』を開発。発売日は奇しくも、ファミコンと同じ日であった。

 セガは長いアーケードでの経験とソフトウェア資産を生かし、潤沢なソフトラインナップでファミコンに対抗……するかと思われたが、ここで思わぬ誤算が起きる。セガは自社のアーケードゲームの家庭用への移植権を、海外のメーカーに与えてしまっていたのである。
 加えて、ゼロからゲームのためだけに開発されたファミコンと、汎用性ありきで開発されたSC-3000ベースのSG-1000では、ゲーム機としての性能に明確な差が出てしまっていた。
 それでもソフトを準備しようと、アーケードゲームのメーカーに働きかけるも、この頃は他にも家庭用ゲームへ参入するメーカーが相次ぎ、権利やリソースの問題で難航するばかりであった。
 時には、セガが他社に開発費を出して作らせることで、リリースに漕ぎつけたソフトもあったという。


10・群雄、割拠す。

 また時間が前後してしまい恐縮だが、80年代前半の家庭用ゲーム市場を俯瞰しておこう。
 77年に発売されたATARI VCSの熱狂を受け、日本の玩具メーカーも国内でのゲーム市場開拓に動き出していた。
 ATARI VCSそのものを輸入販売する会社もあったが、価格が高価な上に際立ったタイトルもなかった。
 77年以降、ファミコン発売までに国内でリリースされたゲーム機を列挙しても、ビデオカセッティ・ロック、オデッセイ2、ビジコン、インテレビジョン、カセットビジョン、高速船、アルカディア、TVボーイ(以上順不同。そしてたぶん他にもある)と、各社の力の入れようが伺える。

 中でも頭一つ抜け出していたのが、81年にエポック社から発売された『カセットビジョン』だった。
 一見すると、他のゲーム機と同様にROMカートリッジを差し替えることで、様々なゲームで遊べるスタイルに見えるが、実はカートリッジ内にはLSIを搭載しており、それ自体が小型のゲーム機のようになっていた。本体は電源と周辺機器をつなぐアダプタのような発想だった。
 加えて、それまで人間同士が並んで遊ぶスタイルが多かったゲーム機において、コンピュータとの対戦を軸にしたラインナップが受け、一説には45万台の売り上げを記録し、ファミコン以前のハードでは、国内で最も売れたと言われている。

 家庭用ハードの歴史を知る上で、押さえておきたい商品がもう一つある。マイクロソフトとアスキーが世に出した『MSX』である。
 正確にはMSXとは、両社がホビーユースのパソコンのために提唱した共通規格の名称であり、これにのっとった製品に付与されたものだ。
 当時、低価格帯のパソコンは多くリリースされ、そのほとんどがMS社のBASICを採用していたものの、ハードウェア構成等の差異により互換性のない部位、いわゆる方言のようなものが生まれ、ソフトウェアも機種ごとに販売されていた。
 これに不満を抱いたMS副社長の西和彦(アスキーの副社長でもあった)は、ソフトウェア的解決をすべきというビル・ゲイツを説得し、自ら中心となって規格を策定。83年6月、記者会見を設けて発表された。
 世界20社以上が賛同(あとから参入したり、賛同したが製品を出さなかったメーカーなどもある)した新規格は話題を呼び、またMSにとっては「標準化ビジネス」という新たな戦略を教える結果にもなり、MSXは満帆の船出をした……かに見えた。

 ご記憶の読者もおられようが、ファミコンとSG-1000が発売されたのは83年7月15日、MSX発表の翌月である。加えて当時家庭用パソコンで大きなシェアを誇っていたNEC、富士通、シャープの「御三家」からは、賛同は得られたものの積極的な展開はなく(NECは製品を販売せず、富士通は早期撤退、シャープは海外のみ販売)、世間からは「弱者連合」の謗りを免れなかった。
 それでも、松田聖子や岡田有希子といった、トップアイドルや有名タレントを起用したCMが話題を呼んだり、価格の手頃さやソフトの潤沢さから、国内外から根強い支持を受け、シリーズ累計400万台を販売するスマッシュヒットとなった。
 今なおMSXは、互換機やエミュレータなどで遊ぶコアなファンが多く、ゲームとPCそれぞれの歴史に欠くことのできない名として、認知されることとなった。

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