早野先生は役に立たない

 1969年4月。アメリカの物理学者、ロバート・ラスバン・ウィルソンは、両院合同原子力委員会の聴問会に呼び出された。

 ウィルソン自らが企画、建設する粒子加速器(物理学の研究に不可欠な、レースサーキット並みの用地と宇宙開発並みの予算を要する実験機器)に使われる、莫大な予算に対する釈明を求められたためである。
 議長がウィルソンに問いかける。
「この加速器は、我が国の安全保障に何らかの形で関係するのですか?」
ウィルソンは答える。
「いいえ議長。私は関係するとは信じていません」
「全く何も?」
「何も」
「その点においては無価値であると?」
「この加速器は、私たちが互いを尊重している点。または人間の尊厳や文化に対する敬愛と関係してきます。申し訳ありませんが、それらは軍事とは何ら関わりません」
「謝ることはないですよ」
 ウィルソンは続ける。
「長期的な視点における科学技術の向上、で通じないなら、あなた方は偉大な画家や彫刻家や詩人にも「それは国防において何の役に立つのか?」と問うでしょうか?我々がこの国に関して真に崇敬し名誉に思う事柄、その全てこそが『愛すべき国』の本質なのです。この観点において、この(開発中のシンクロトロンから得られる)知見は、我が国の名誉に大きく貢献します。直接的に我が国を守る役には立ちませんが、我が国を守るべき価値のあるものとしてくれるでしょう」

 数ある科学者の言葉の中でも、出色の名言と伝えられている。実用や利便のためだけにあるのが学問ではない。物事を観察し、原理や真理を見つけ、進歩させること。そのこと自体が国家や人間を敬愛することの本質である、と。

 現在世界最大の粒子加速器を有する、欧州原子核研究機構(CERN)に研究室を持ち、東京大学理学系研究科物理専攻長などを勤めた早野龍五先生。原子物理学者としてその発展に寄与し、また東日本大震災以降、情報の奔流を整然とまとめ、被災地と世界を繋ぐ活動に奔走された先生が。定年退官を迎えられる。

 医師家庭に生まれ、研究の道を志し、実験と研究に邁進してきた。
 専門はμ粒子やπ中間子や反陽子といった、安全保障どころか我々の暮らしともふれ合いそうもない分野である。
 だがその分野では先鋭とも言える研究者だろう。CERNの研究グループリーダーを務めるのも納得の人物なのである。
 古豪のITエキスパートとしても知られ、初期のミニコンに精通。日本で初めて確認された海外からのハッキング事件を、ドイツからの侵入であると特定した人物でもある。
 そんな先生の人生が激変した。2011年3月11日。あの震災で福島第一原発が壊滅的被害を被り、様々な情報が飛び交った。
 先生はそれらの情報から、数値や測定結果といった、客観的な情報だけを拾い、そしてグラフ化した。実用や利便のためではない。研究者の習性のようなものだったと振り返る。
 やがてその言葉は、光の速さで広まっていった。2008年から始めて3000人程だったツイッターのフォロワーは、12日に2万人を超えた。
 そこからの活躍は、先生の専門分野をひょいと飛び出すものだった。給食の陰膳検査の再開。個人用線量計の配布と集計ソフトの開発。内部被曝計測機器の調整。福島に関する査読付き論文の執筆。幼児向け内部被曝計測機器(BABY SCAN)の開発。現役高校生のCERNへの引率……枚挙に遑が無いとは正に是。今なお続く活動も多く、先生はその先鞭をつけてこられた。

 繰り返すが、これらはどれも早野先生の専門分野では無い。当時先生は、科学者として放射性物質の性質や特徴は知っていたが、原発の詳しい仕組みなどは知らなかったという。だがそうした知識を補完するように、当時多くいた科学者や医師の人々が、早野龍五という重力場に引き寄せられていった。
 やがてそうしてできた繋がりの線の上に、陰膳検査の再開やBABY SCANの開発が芽吹くことになる。震災直後の丁寧なツイートに、陰膳検査の再開に、BABY SCANの検査結果に、救われた人々はそれこそ枚挙に遑がないだろう。
 人々がこの国や福島に関して、真に崇敬し名誉に思う事柄。これらが誇るべき価値のあるものだということを証明した一人に、間違いなく先生の名は並ぶだろう。

 ご本人には少々悪い気もするが、退官といっても数ある肩書きの一つが返上されたに過ぎない。CERNチームリーダー、スズキメソード会長、国際物理五輪日本大会出題委員長、放射線影響研究所評議員、そして福島との関わり等々、先生を必要とする現場は、まだあちこちにある。
 先生の本業としての研究成果は、恐らく我々の暮らしには当分役立つまい。だがそこで培った視点と人柄は、こうも多くの人を捉えて離さない。私が迷惑承知で先生の周りをウロチョロする最大の理由は、その周りに集う人々が実に多彩で、皆一様に楽しそうになさっていて、そうした人々が集まっているのを眺めるのがたまらなく好きだからだ。

 なので先生、これからもお身体には十分お気をつけて、皆の役に立っていただけることを期待申し上げます。陰でニヤニヤしながら応援させていただきます所存。
(^^)

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