『神性』肉を食べること

■肉を食べること

スーパーに行くと、精肉コーナーでは綺麗にスライスされた肉が置いてある。そのディスプレーは、芸術的とも呼べるほどである。牛肉・豚肉・鶏肉それぞれは、我々が食べる素材として並んでいる。例えばであるが、生きている牛・生きている豚・生きている鳥がスーパーで売られていたら、我々はそれらを買うだろうか。我々が食べる素材として、それらを見ることが出来るだろうか。

または、動物園に行き、動物たちを見物する時、『美味しそう』と思うだろうか。大抵の場合は、様々な意識を持った生命体として、それらの動物を眺めるはずである。彼らには彼らの視点があり、彼らには彼らの生がある。当然ながら、動物園とは、生の営みを感じ取らせる意図の下に作られた施設である。だから、幼稚園の遠足先にも選定されるわけである。

さて、話を戻す。我々が肉を食べることが出来るのは、意識を持った生き物を殺すという体験をスキップしているからである。一方、生き物を殺し、加工するという過程は、実にシステマティックに生産的に効率的に大量に実施される。それは、資本主義の利点である。

そのような資本主義の恩恵は、肉を『生きた物の生物学的な筋肉』から『我々が食べる素材』へと変換することに成功した。両者の隔たりは、大袈裟に言うならば、天と地ほどの距離感がある。我々は、スーパーに並べられているものを『肉』として見ていながら、同時に『肉』としては見ていない。

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