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母性、父性、自我、「自我のない人」について



 この記事では、「自我のない人」について記述し、主にはその発生過程を考察し、また、私の心理浄化と自己理解に繋げています。

 店には客層があるように、人にも客層があるように思います。つまり、ひとりの人間の交友関係というものは、人間の多様性を漏らすことなく含む、ということはなく、幾つかのパターンや特徴を持つように思います。

 私の場合、なんだかんだ隣りに居てくれる人は、なんだかんだ「中性的な人」であることが多いです。女心が分からなくもない男とか、男のようにも機能できる女とか、いやそもそも、男女という分別を必要以上に持たず、行動し、生きていく意志と能力のある人が多いように思えます。彼らの中性性は基本的な価値観一般に対して働き、彼らと一緒に居ると、破滅的な雰囲気は払拭され、創造への期待に満たされたりします。何となく分かると思います。偏りのないという自由です。

 言い換えれば、中庸で、曖昧で、心地の良い曖昧な存在感を持った人が身の回りに多く、そのことに私は感謝と満足をしているのですが、その一方で、たまに、そこに混ざり込むように「自我のない人」が居たりします。彼らは一見、中庸で、曖昧で、存在感の曖昧な人なのですが、先述した「中性的な人」とは何処かが違います。

 例えば、意志と能力がありません。他者に規定された分別を乗り越えて、行動して、生きていく、そういった意志と能力がありません。分別をつけるにしても、広い幸福のために必要だと自分で考え、感じたものを、自分の意志と能力で実現していく、そういった人生の指針がありません。

 ぱっと見の感じは「中性的な人」と同じで、ふとした時に、「あ、この人は自我のない人だったんだ」と驚かされたりします。それで今私は、自分の交友関係に、思った以上に「自我のない人」が混ざり込んでいたことに驚いていて、気持ちと考えを整理をしようと記事を描いています。

 ここからの構成は以下のようになります。

・「自我のない人」の特徴は何か
・「自我のない人」はどのように発生するのか
・「自我のない人」を私が吸い寄せてしまうのは何故なのか

 上記の太字部分に表れているように、私は現在、「彼ら」に嫌悪と侮蔑を感じています。そして下書きなく、瞬間的な思考の流れで、この記事を今この瞬間に描いています。本記事の目的は以下のようになります。

これらの観点からの考察を通して、「彼ら」を理解し、「彼ら」を受容し、「彼ら」を唾棄する。


・「自我のない人」の特徴は何か

 明確な価値観はなく、それ故に人生の指針なく、その場その場の情緒と好き嫌いに飲み込まれ、時に急激に冷め、暇になったからふらふらと散歩する、というサイクルを繰り返します。

 「彼ら」に「何を食べたい?」や「何をしたい?」と聞けば、「何もない」か、何か要望があるとすれば、その時「彼ら」が急激にハマっているものになります。時間が経てばまた「何もない」か、別のものにハマっています。

 このハマっている、という状態も曲者で、傍から見て理由や背景が分かりませんし、それ以上に重要なことに、「彼ら」自身にも理由や背景、いやそれ以上に自分の動機のあらましは謎のようです。

 かつてハマったものに由来する技能や嗜好が幾つか残存していることもあるのですが、「彼ら」はそれを振り返って結びつけ、それを現在から未来へ伸ばそうともしません。そのタイミングを待っている風でもありません。そもそも自分が何処に立っているのかも分からないようです。自分が何処に立っているのかをそもそも分かろうとしているのかも分からないようです。そもそもがそもそも浮遊しています。

「彼ら」の本質的な特徴は、自己の不存在感、(それ故の)諸行動の浮遊感、に集約されます。


・「自我のない人」はどのように発生するのか

 母性に包まれず、父性に晒されず、それらと対決する契機を獲得し得ない環境に居続ければ、その人に自我は発生せず、「自我のない人」が発生します。

 逆に言うと私は、人間に自我が発生するには、母性に包まれ、父性に晒され、その末にそれらと対決離別することが必要だと思っています。

 ( かなりクラシックな理解ですね。ちなみに、欧米における唯一神というのは、肉親よりも圧倒的な上位者であり、かつ、母性と父性を兼ね備える存在であって、肉親とは別の圧倒的母父性との対決を迫られるところに、欧米的な自我の肝があるとも思っています。そして傍論かつ暴論ですが、この記事にあることは、超俗的な母父性を設けないままに世俗の母性と父性を解体しつつある私達の未来の常態です。悪いことではないと思います。)

 さて、私はあらゆる権威と無思考を軽蔑しておりますので、ここで、何気なく使用したまま放置していた言葉の内容を明示します。

 母性、父性、対決、自我とは、私にとって以下のような意味を持ちます。

母性とは、
受容し拒絶する、つまり「私を外部と切り分ける」ものでありこと。

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父性とは、
肯定し否定する、つまり「私の内部を切り分ける」ものでありこと。

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対決とは、
母性や父性と呼んでいた事柄を、自らによって行うこと。そのために、それまでの母性と父性から離別を図ること。

( 例えば、母性に対しては、「自分は自分の両腕で抱きしめます。」という姿勢を取り、実践を継続すること。言い換えれば自己受容すること。また、例えば、父性に対しては、「自分を引き裂くナイフは自分で研ぎます。そして自分は自分で切り裂きます。」という姿勢を取り、実践を継続すること。言い換えれば自己否定すること。(私達は、他者に受容し否定され、自らによって受容し否定し、そして他者を受容し否定する。この永遠を繰り返します。))

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そして自我とは、
自分を抱きしめるために育んできた自分の身体と、
自分を切り裂くために研いできた自分のナイフのこと。

 全てはメタファーですが、抱きしめ方、ナイフの研ぎ方と振るい方、これらはまず、誰かに教えてもらわなければ出来ません。

 そして何より、私たちは、誰かに抱きしめられたり切り裂かれたりしないと、自分という輪郭や構成を体感することは出来ません。

 「自我のない人」とは、これらの経験を欠いた人、これらの経験を与えられなかった人です。

 「彼ら」にはまず、自分の輪郭や構成といったものへの体感知がなく、また、他者や自分の抱きしめ方、他者や自分の切り裂き方を知りません。

 「彼ら」は結果的に、世俗的な事柄に無頓着で、どこか仙人か聖人か、時に狂人または童子めいた雰囲気を感じさせます。

しかし、「彼ら」の真相は「未発達」と「未分化」です。本当の意味で価値のある人格、発達と分化の途上にある刹那的統合体、ではありません。


・「自我のない人」を私が吸い寄せてしまうのは何故なのか

 私にも自我が無いからでしょう。何より加えて、「自我のないこと」を意識し、足掻いているからです。

 自分に「自我のないこと」に気がついていない「自我のない人」にとって、自分に「自我のないこと」に気がつき足掻き始めた「自我のない人」は、不可解で、それ故に注意を惹きつけます。

 自分が幽霊であることに気がついていない幽霊にとって、自分は死んでいたと気がついてしまって悲しんだりしている幽霊は、疑問そのものとしてしか映らないでしょう。しかし無意識に刺さるこの疑問は、前者の幽霊を後者の幽霊に惹きつけます。

 「この人はなんなんだろう、と思って。」とは、「彼ら」が私に必ず言う事柄です。その疑問の矛先は自分だとも知らずに、無邪気に言ってきます。

 さて、ではどうして、私には自我が無いのでしょうか。兄弟による過剰で無意味な抑圧があったのかもしれません。「遠さの感覚」を持った母は、私を抱きしめながらも手元の私を認知していなかったのかもしれません。繊細だけれども偏狭でもあった父は、私を切り裂くとき、私の身体の半分を見逃していた可能性があります。

 でも多分どれも違います。少なくとも足りません。殆どは生まれです。私の無自我は生まれついての予定です。私は3歳のとき、自分が「3歳であること」に驚愕し、幼稚園の非常階段に幼稚園児を集め、「3歳であるという事態と自分が訳が分からない」ことを訴えました。その時の強烈な身体感覚を覚えています。胸に穴が空いていました。

 ではどうして、私は自分の無自我に気がついたのでしょうか。目覚めた幽霊が周囲に居たのでしょうか。覚えがありません。何故なのでしょうか。何故私は、何故だろうと思い始めたでしょうか。自分を取り囲む世界以前に、自分を取り囲む自分というものの根本的な不確かさを認識し始めたのはいつで、それは何故なのでしょうか。

 全然分かりません。意味があるように思えません。怒りが湧いてきます。この怒りは悲しみに寄り添っています。それを外から眺める私は「哀れだ」と呟いています。歩き始めるか腕立てするしかないのは明白です。何かが無ければ既に在るもので新しく組み立てるしかありません。出来るだけ美しく。それ以外に面白いことなどないでしょう。

 面白くって堪りません。ただ歩いているだけで、自分の身体が分化していき、バラバラの身体が緩やかで刹那的な構造を持ち、捨て去り、それを永遠に繰り返しています。一歩一歩が洗練された賭けのようで、なんという自由でしょう。

 私はやはり言おうと思います。自我のない人よ、一緒に面白いことをしよう。材料は何処にでもある。あとはちょっとした思い込みと勢いだけだ。それさえも君にないのなら立ち去るがいい。凝集したことのない者の拡散の、その無意味さも知り得ないままに拡散するがいい。

 私の目はもう嘘をつけない。あなた達を見つめるとき、私の目はこの全ての内容を君に伝える。君の感情は無意味だ。私の感情が未だそうであるように。一瞬でも、大地に足を付けなければ、誰にも衝動は伝わらない。どれだけ君が揺れ動いているとしても、誰も何も気が付かない。

 無限のパターンの一つの私。私はお前を唾棄する。経過や過程に留まるお前を、原始でしかないお前を、未来の無い永遠の過去、現在を手放し続けるお前を、私は唾棄する

















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