DUMP, the catcher in the cache of lie, エネルギー全体の流れと通りと支払いについて、加えて天使と悪魔と遣い魔に餓鬼




形骸化とは無意味化と無関係だ
もしそうならそのように呼んだ方がいい
じゃなきゃこっちの感覚がやられる


1. エネルギー全体の流通と支払いについて

エネルギー全体の流れと通りがあって、それは掴むことができ、それを掴むことによって、流れと通りに渦、溜まりや淀みを作ることができて、そしてその反動としてメタなエネルギーであるところの加速度を生むことができるが、エネルギー全体の流通の元々の運行に対してラグやログを生むことも間違いないので、そのことに対し関する支払いと、付随して利息が、全体として支払いが発生する。

このことの支払いに応じなければエネルギー全体の流れと通りは取り立てによって応じる。この取り立ては物理から情報までのエネルギーフルスペクトラムに於いて勘案され絶対事項として遂行される。誰もこれから逃れることはできずもはやこの摂理は私たちの基本的な認識や発想を支えている。

生命とはエネルギー全体の流れや通りに対する最も一般的な渦であり溜まりであり淀みであり勢いであって、この生命という出来事そのものに対する支払いは死であり死への恐怖と不安が利息の支払いであるのだが、この支払いそのものを人生、自分という渦溜まり淀み勢いとしてしまう人も多い。

しかし一部の人々は生きながらにしてこの支払いを、利息も含めて済ませてしまう。それは如何様になされるのか。思うにこれは自分の必要としていた非実体 negativity を、自分の思う実体 positivity によって置換し充当することによる。それは一度加速度を速度に還し、速度を単なる通過に戻すようなことなのかもしれない。


2. 天使や悪魔について

現代国家の多くは中世カトリック的神話世界に浸されていると言ってもいいし、そのベースとして各国各地域の土着アミニズムが存在すると言い加えてもいし、また別の事柄としてより端的に、私達という存在と関係性として、天使や悪魔、そして遣い魔に餓鬼は存在すると言っていい。

天使は環境であり促し、可能性と献身と言っていいだろう。川に掛かっている橋であり川そのものであって、そこを昔から通る船であると言っていい。悪魔とは須く堕天使であり可能性に絶望し献身を憎悪する力であって、自分の憎悪に対する憤怒を契機として新しい王国を見込む反転の乱でもある。悪魔は橋を戦争の切っ掛けとして川を干上がらせ、一帯を砂漠にしてから王国を建設し近傍にオアシスを探そうとする。実際に見つけてしまい、新しい王国に新たな幸福を齎してしまうこともある。そういったことをした悪魔はその国で王と成り天使に孵る。少なくとも束の間。遣い魔は単にエネルギーの運び屋であり、悪魔に常として、天使より時として必要とされる精霊のようなものであり、その善悪は天使と悪魔のどちらに仕えるかに依り自身に依っては何も意味することができない。つまり実際や実態としては世界の寡黙なキャラバンで、繰り出す言葉はラクダの吐息、愛すべき呻き。餓鬼は貪り。

多くの人間はこれらどれにも当てはまらないホモ、同質性追求項である。世界が一つの纏まりであるには太い幹と大きな収斂が必要となる。この発想には極端な危険性があるかもしれない。しかしながらあらゆるモチーフは全体をバランスよく反映することができない。最後にこのモチーフに関する注釈として幾つかを挙げようと思う。

堕天したはずの天使は自我と契約して悪魔に成らなくてはならない。このプロセスから逃避した天使は最大級の餓鬼となる。自我の芽生えた特級遣い魔は世界を使うことを覚えなくてはならない。自前のフットワークを武器として早々と悪魔さえもを卒業すること。天使である方々は世界に深く深くお辞儀をすること。足がどのように地に付いているのかは時たま確認しておいた方がいい。


3. これと言って今思うこと

できるを出来ると表記することが好きで、実際のところ蓋を開け栓を抜くことによって引き出されるものだと思っている。能力一般についてだ。早くに泉を掘った人間は何に対しても水を分け与え、海まで続く川を引くことができる。まさにそれは湧いて、出て来るのだ。誰かと二人佇む奥深いポプラの森の底から。俺とお前がそのどちらかということもない。あらゆるモチーフは人間という存在と関係を物語っている。寓話はモチーフを重ねることによって得られるメタな重層テキスタイルだ。新たな世界を産むときにはどうしてもこのようなスケール感が必要となる。


the catcher in the cache of lie
羽裏返る蝶のような真実を探して












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