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寓話 『 エルフの比喩 』




大陸に生い茂る森の奥深くに、エルフと呼ばれる種族が暮らしていた。

永遠の寿命があるとか、耳が悪魔のように尖っているとか、色々に噂されている彼らだが、彼らの唯一の本質は、感覚と感情を共有して生きているということだった。彼らエルフは互いに、話し掛ける前から視線が合わさり、視線を合わせる前から心が寄り添っていた。

目が何よりも美しく、エメラルドのように透き通っていたのは、彼らエルフに心のやましさや不協和というものが無かったからだろう。如何なるしこりも、どこかに生まれては全体に解消されていくようで、丁度それは、どんな岩石でも海では、いつかは砂になり塩として融け出していくかのようだった。

身体も概して綺麗だった。突発的な事故や災害による傷と瘢痕以外、ありようもなかった。死を確信した時が彼らの死期であり、それまでに死を恐怖するということもなかった。肉体の滅びはさておき、彼らの意識に綻びは生じ得なかった。

彼らエルフは生まれる前から目を開き、周囲に耳を傾けていた。なんなら最初の細胞分裂のことも覚えていて、有性生殖なんて完全にジョークだった。何がどこにあって何をしているかなんて、彼らとっては知覚の結果でなく、知覚の前提かそれそのもの、または身体みたいなものだった。

彼らはただ、揺らぎとして異なりを、収まりとして同じを感じており、そう感じる主体もまた揺らぎと収まりとして感じられていた。この寓話を聞く者には不可思議に聞こえるだろうが、彼らエルフは淡く曖昧に響き合い、そうして完全に整っていたのだ。

彼らの社会について一つ付記をしておくなら、革新は無かった。感覚や感情が共有された社会では、革新を必要とする無理や歪みなど生じ得なかった。彼らは行いの一つ一つの帰結を完全に想像し、永遠の未来と現在とが重なるように生活していた。

だから、自分たちが何で、どこから来てどこへ行くのかなんて、考える必要も考えようもなかった。彼らは本当に、一つの海でありながらそこに泳ぐ魚として完結していた。


  ***


エルフがエルフとなってから、大陸の姿が変わる程に時間が経ったが、彼らの社会はずっと変わらず、完成された完全が宇宙を漂っているかのようだった。

つまり長い奇跡だったのだ。そしてこの軌跡は一つの事件によって唐突に壊された。ある日、二人のエルフが死んだのだ。一人は殺され一人は死んだ。正確には、エルフがエルフを殺して自殺した。そうして一つの秘石が瓦解した。

きっかけは本当に些細なことだった。一人のエルフが物理的に遠のいて、社会の外れか離れと呼べそうな場所に住み着いたのだ。

彼らが食料としていた生物の分布が変わったのかもしれないし、天災がふいに道を塞いだか橋を落としたのかもしれなかった。ともかく一人のエルフは遠のいて、いつの間にか他のエルフを感じられなくなり、次第に自分の感覚と感情を独り占めするようになっていった。

距離が彼らの意識を分け隔てた。気がつくと既に完全に、とあるエルフの味わいは他のエルフのものではなく、他のエルフの味わいは彼のそれではなかった。

彼、こうして生まれた変種を仮にカインと呼ぼう。

必然としてカインは、所有し使役するようになり、その対象や目的は様々に及んだ。周囲のエルフは彼に従う他なかった。というより、従うという発想もなく、彼の言葉に合わせて動き始めた。

それまでは補助的な道具でしかなかった言葉というものは、彼の支配の原理となっていて、彼を含めた誰をも支配しているようだった。言葉のイメージはどのエルフにとっても外側から、感情や感覚とは別に押し寄せて、宿主の身体をその通りに動かした。

エルフは事態を全然理解できていなかった。空白として感じられる彼を不思議だと思う以上のことをしなかったし、できなかったし、できるはずもなかった。彼の(または彼という)空白から押し寄せる言葉の波に翻弄されるばかりだった。そうしてカインは自分から分け隔てられた、エルフを含む周囲の物事を動かし続け、より多くの自然を所有しより多くの他者を使役しようと、それらの発想を強めていった。

彼のような変種が生まれる前にも、エルフは動きを合わせて動いていた訳だが、実態や様相はかなり違っていた。かつては一つの濃密として感じ動いていたエルフは、今や彼に所有され、無感覚になっていった。

こうして、周囲を空白に感じ、周囲から空白に感じられた一人のエルフが、その空白をてこに、空白のエルフをどんどん殖やしていった。この営為は無目的で、それ以上に自己目的的であることを、彼自身も気が付かないでいた。


  ***


このカインという変種に、遂にそれとして気がついたエルフがいた。

この亜種を仮にアベルと呼ぼう。気がついた時にアベルは、周囲のエルフが気がついていないことに驚いた。

「もう彼はエルフじゃない。いや、というより、彼は彼であるゆえに彼、カインだ。そのことにエルフは絶対に気がつけない。」

アベルは憎悪し恐怖した。それはカインをではなかった。カインに対峙するアベルとして起こった自己を、そのアベルに対峙するカインを、この始まったからには終わらないループを憎悪し恐怖した。

つまりアベルは理解していたのだ。だからアベルはカインを殺して自殺して、この無限の螺旋を終わらせようとした。複雑で強烈な痛みとイメージが伝播して、周囲のエルフが気がついたのは、どうにかアベルが自殺した時だった。カインの叫びは誰にも聞こえなかった。


  ***


残されたエルフは戸惑い、危機を感じた。地球が割れ、海が宇宙へ流れ込んでいくような、それ程の危機感だった。

一体、何なんだ。何が起きたんだ。あの痛みは、イメージは、残されたこの感覚と感情は、何なんだ。

疑問に思った幾人かのエルフは話し合い、「黒くて重くて固いものが重なり合っていて、どこから湧いてくるのか分からない」と結論した。でもそんな風に表現を与えたって、何も解消されなかった。彼らエルフは、こんな話し合いで問題を解消したこともなかったのに、そんな話し合いで問題を解決しようとしていた。

寄り添う心の感触は失われつつあり、しこりを融かした海は干上がりつつあった。じわじわ何かが起こっていて、少しずつ彼らは変質していった。そうしてしこりは大きくなって、彼らエルフは、だんだんとそれぞれにエルフではなくなっていった。

変質に従いエルフ達は、無から有を生む必要に駆られて次々に言葉を生み出していった。上下左右や大小前後、それに喜怒哀楽や思い遣り等、これら基本的な感覚と感情の上に、夥しく新しい心の産物が継ぎ足された。その新規さや珍奇さからして、心から遠く離れていっているような気もした。

「黒くて重くて固いものが重なり合っていて、どこから湧いてくるのか分からな」かっただけのことは、「独占への憎悪と殺人への後悔、それらを孕む自己(とその運命)への拒絶」と定義された。

この時点で、エルフは完全に失われ、彼らは議論を始めた。

独占と殺人のどちらがより悪であり罰に値するのか。自殺は個人または集団の罪を贖うのか。事実として何が正確なのか。正確さの基準は何か。それでこの議論の結末は何で、誰が幸福にそして不幸になり得るのか。何より今この瞬間、誰がどこにいて何をしていて、そうして何を感じているのか。または、我々は何で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。

かつて問われるはずのなかった問いが問われ始め、問われ続けた。

無から生まれた有は有を生み、やがては複雑な体系となったけれど、その奇怪な全貌を視界に収めた者は一人もいないようだった。議論の優劣はその体系への視野の広さに由来するようで、だから最も優れた者が何を言っているのかは他の誰にも分からなかった。その途方も無い空疎さがやり切れなくて、最も優れた論者はよく「神」という言葉を生んで頂点に置き、そこに自らへの共感と理解を含めた。

こうして誰もが誰の気持ちも分からなくなっていく一方で、それぞれの者は一つだけ絶対の確信を持つようになった。

「 私が正しい 」

それからは長い長い、争いと諍いの時間だった。正しさが共有されれば戦争だった。偶発する戦争を経て、森は禿げ、川は絶え、土は死に、全ての死が海へ流れ込んだ。

彼らは言葉に引き裂かれる存在となっていた。引き裂きを越えてゆこうと言葉を紡ぎながら、その言葉に引き裂かれ続ける無限の引き裂きとなっていた。今や彼らを何と呼べばいいだろう。何と呼んでも気が付かないような気がした。

荒野に生き残った僅かな者たちは、微かに記憶された理想郷をもう一度手に入れようと、故郷を離れ、自らの信じる道を進んでいった。彼らの歩む道は四方に別れ、その先で幾つもの言語と、幾つかの偉大な文明が生まれた。

そして如何なる偉大な文明も、エルフの記憶を想い出そうと、いつも新しい言語を思いついては忘れていく。エルフの記憶は、そんな言語の雑踏に隠されているのだが、自らを人間と呼び始めたカインの末裔は、生まれて初めて目を開けた時にはそのことを忘れてしまう。

母の胎内で羊水に揺られながら、私はこれをあなたに伝えている。



















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