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人間の内在的価値について:鬱を経た精神論のようなものを、BUMPの歌詞と共に

“自己肯定感”。”承認欲求”。或いは”毒親”等々。

そうした用語が広く浸透し、
時に揶揄や蔑みや自虐の道具とされながら、
やたらと囃し立てられる今日この頃。

それは大衆社会用に単純化されたストーリーであり、一つの啓蒙だ。

人知れず抱えてきた「生きづらさ」を一定程度一般化してくれる、
という面では安心感や連帯感を提供しうる一方で、

そんな「生きづらさ」さえ自嘲や冷笑で誤魔化さなければ生きてゆけない我々、特に若者の置かれている状況の過酷さを体現してもいて、

そうしたワーディング自体が「生きづらさ」を加速させてもいるのではないかと思う。


本当は一人ひとりの生きづらさなんて、そんな単純な言葉で語れるものじゃない。



とてもじゃないけど一般化できないような、

どこまでも個別具体的な自分だけの苦しみ。



社会がどれだけ包摂的で、
多様性に溢れたものになろうと、

究極的には誰にもわかってもらえないような生きづらさを、
誰もが多かれ少なかれ抱えて生きることに変わりはないだろう。


そして、
たとえ同じような経験をしても、
それによる傷の深さも致死量も
人によって異なる。


やりたい事に似た逆の事 誰のための誰
分かち合えない心の奥 そこにしか自分はいない

もう答え出ているんでしょう どんな異論もあなたには届かない
もう誰の言う事でも 予想つくぐらい長い間 悩んだんだもんね

BUMP OF CHICKEN/beautiful glider

まぶた閉じてから寝るまでの
分けられない一人だけの世界で
必ず向き合う寂しさを
きっと君も持っている

BUMP OF CHICKEN/Small World

分けられない痛みを抱いて
過去に出来ない記憶を抱いて
でも心はなくならないで
君は今を生きてる

BUMP OF CHICKEN/ガラスのブルース 2011.3.28 BUMP LOCKS!より



私の場合は、
抱えきれなくなった一人だけの世界が、

鬱という病
——以前の生き方に対するアンチテーゼでもあった——

として現れることとなった。


これを止揚し、
“乗り越える“
(という言い方はあまり好きではないが)
ためには、

他の誰でもなく自分自身で、
自分自身のために、
自分自身の生きづらさについての説明を為す

ということが絶対に必要だった。


その過程で気づけたこと、
私なりの精神論のようなものは、
もしかしたら、誰かのためになるかもしれないと思いこれを書く。

約17ヶ月間、

自分の内面とひたすらに向き合い、

永遠に続くような苦しみと悲しみと疲れと

世界への恐れと

自分の決壊を認め受け入れることの怖さと

生き方を変えることへの躊躇いと

思考パターンを変えるための地道な自主トレーニングと

常におぼつかないリハビリ的な社交と

成果として得た世界の見え方の変わりようへの驚きと喜びと戸惑いを

一つ一つ噛み締めてきた私が気づいたこと


それは、
極大化された人間性の差異を超えて通底するであろう、

心の健康の絶対条件

かつ、自己存在の持続の帰結

だと思えるものの存在。


数えた足跡など 気付けば数字でしか無い
知らなきゃいけない事は どうやら1と0の間

BUMP OF CHICKEN/カルマ


どん底の精神状態を経験した私にとっての
1と0の間
を埋めるものについてのお話を丁寧に記録する。



*お分かりの通り、
中2で出会って以来常に私の1番そばで私を支えてくれ私の哲学の核を作ってきた、
BUMP OF CHICKEN、藤原基央の詞を
沢山紹介しながら書きます
👊
大好きな大好きな詞達のうちのほんの一部ですし、
歌詞を切り取って引用するのは本意ではないのですが、
ここではあくまでも紹介という意味で、
私が語りたいストーリーに都合の良い形で、
散りばめさせてもらっています🙇‍♀️


前置き


食わず嫌いだったnoteというものを初めて書いてみるにあたっての自己紹介のようなものを。

膨大な知識があればいい 大人になって願う事
心は強くならないまま 守らなきゃいけないから

少女はまだ生きていて 本当の事だけ探している
笑う事よりも大切な 誰かの手を強く握って

優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま
感じる事を諦めるのが これほど難しい事だとは

BUMP OF CHICKEN/HAPPY


第一に、私は非常に感受性が強い。

人と比べられるものではないし、
人の感受性の強さなんて他人が測れるものではないし、
そもそもみんな隠しているとは思うけれども、

それでも、相手が大体どんな感性を持っているかというのは関わっていくうちになんとなくわかる。

今までどんな人と出会っても、
基本は「やはり自分の方が感受性が強いな」と思いながら生きてきた。

これは時に劣等感にも優越感にも変形し得るのだが、元々はただ「感性が違う」というのに尽きると思う。


あまりの周囲との違いに、自分の異常性について思い詰めてしまうことも度々あった。

「考えすぎ・感じすぎ」をやめたら楽になれるだろうにと思いながらも、
感じることを諦めたら自分ではなくなってしまう、
自分を見捨てることになる
ような気がして、
思春期の頃は泣いてばかりいた気がする。


感受性の強さには先天的な部分と後天的な影響の両方があると思う。
HSP*というラベリングに頼らせてもらうこともある。

自分の感受性を自分で守れるようになることが、
「強くなる」こと、
「大人になる」ことなのかなと最近は思いながら。



第二に、ついついメタ的な思考・形而上学的**な思考
(というほど大それたものではないけど...)
をしてしまう性格だ。


そしていつも「本当のことだけ探している」。


気を抜くとすぐ答えのない問いについてぐるぐると考えてしまい、体の中が飽和しているのが常態である。

5〜6歳の頃から「人間はなぜ、なんのために存在するのか」「世界というものはなぜ生まれたのか」とかいう問いを考えていたのだが、
その疑問を母親に思い切って伝えてみたことがあった。

優しい母は、戸惑いながらも、
宇宙の始まり(ビッグバンとか)が知りたいのかなと考えたようで、
宇宙についての図鑑のような立派な教育本を買い与えてくれたのだが、
「知りたかったのはこういうことじゃない...。」と思ってしまった、という思い出がある。
(このことを思い出すと、私は生まれつきの文系だなあと思ったりする。)

そうした経験を経て、
普通はみんなこういうことをあまり考えないものなのかな、と幼心に悟ったのだが、
誰かが答えを与えてくれるわけではない問いの答えを求める姿勢が知的好奇心に繋がったのかなとも思う。

それはさておき、そんな性分であるのにも関わらず、
感じたことや考えたことをクリエイティブな形でアウトプットする、
という才能をあまり持ち合わせていないのが悔しいところである。
だから溜め込みやすい
というのもある。


芸術を愛しているが、芸術家にはなりきれない。


*HSP (: Highly Sensitive Person) については、こちらのTedを見てもらうのが1番わかりやすく、フラットだと思う。
**形而上学という言葉に馴染みがない人にもこのnoteは読んで欲しいので一応説明すると、 「世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、 感覚を超越したものについて考えること」(Weblio辞書)。



私にできることは、文章を書くことと写真を撮ることくらいしかない。

だから、写真と文章で構成されているInstagramという媒体は、
高校生の頃からずっと自分の内面を表現するのにはちょうどいい居場所だった。

大学生になってから始めたTwitterも、
最初は鬱憤や差別意識の溜まり場のようで吐き気さえ覚えていたのだが、
段々と扱い方を習得してからは、
自分の中からとめどなく流れ出てくるちょっとした思いや考えを書き留められて、
アカデミックな知見にも気軽に触れられる、
という便利さに気づき、今ではすっかりヘビーユーザーになってしまった。


それでもやはり、
SNSというーー多様な人間の多様な関係性の中で多様な感情や生活が絶えず交錯しているある種狂気的で混沌としたーー場において、
自分の途方もないデリケートな深淵を晒すというのは
いつだって勇気がいることだった


引いてしまうような長さの長文を投稿しても、
読んでくれて、温かい反応をくれたり考えを共有したりしてくれる人は思っていたよりもずっと沢山いて、だからやめられないのだけれども。
実際、このnoteもSNSでシェアするわけだし。
それにnoteもSNSのひとつともいえるし、正直、これを読まれてどう思われるかは怖いままだが...。

とはいえSNSに長文を書くのがまあまあ定着していたので、
noteについては「意識高い系」感がなんとなく厭だなという理由で(笑)、忌避していた。

でも、SNSで繋がる人々が増えて、
それもさまざまな関係性の人で構成されるようになると、
ある種の公共性を帯びてきてしまうだけでなく、
他の人に変に思われないように、でも受け取るべき人に届くように、私の独特な思いを伝えるというのがどんどん難しく感じるようになった。

noteという場所なら、ただ単に長文を書くための場所であるっぽいので、
公共性を担保しながらも思い切り長文を書ける。

ということで、
思い切り言語化したくなるようなターニングポイントにいる今、こうして書いてみようと思った。



自分にとってもはやデリケートな話題でもなくなってきているし、
むしろ割とオープンに話したいと思っているのだが、
私は大学2年の11月頃に鬱を発症して以来、心療内科に通い続けてきた。

(元気とはどんなものを知った今だからこそわかるが)
あの頃はどう考えても
異常(あえてこの言葉を使いたい)な精神状態に陥っていた。

世の中の全てが恐ろしくなり、
かつて自分に課してきたもの、なんとかして努力してきたはずのもの全てが
嘘になったような・失ったような気がして、
自分が存在することをどうしても認められず、
漠然とした不安に襲われ、
何の気力も湧かず、
そんな中でも続いていく日々をいっそ止めてしまえたならどんなに楽だろうと思った。

それでも、家族や専門家に助けを求めるだけの気力は少しだけ残っていた。
生きたいという気持ちがあったということだと思う。

世界に誰もいない 気がした夜があって
自分がいない 気分に浸った朝があって
目は閉じてる方が楽 夢だけ見ればいい
口も閉じれば 呆れる嘘は聞かずに済む

そうやって作った 頑丈な扉
この世で一番固い壁で 囲んだ部屋
ところが孤独を望んだ筈の 両耳が待つのは
この世で一番柔らかい ノックの音

BUMP OF CHICKEN/プレゼント


それからわずか1年半ほどで「死にたい」と一切思わなくなるくらいにまで回復させた自分を、心の底から褒めてあげたいと思う。
このすごさは自分自身にしかわからないのだけど、それでよいと思う。
この文章から私の明るさが伝われば、それだけで嬉しい。

あまり泣かなくなっても 靴を新しくしても
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない

BUMP OF CHICKEN/ray


今、私の精神世界の旅路における一つの節目を感じている。

そして、かつての苦しみの根っこの部分についての、
ある確信を得つつある。


以下では、
その鬱がどれほど辛かったかというような悲劇的語りはなるべくしないように気をつけながら(概要は前にインスタの投稿に書いたし)、

私が鬱になった根本的な原因であると思われる
“認知の歪み“について、

そして今私がそれを変えつつある、
あるいは変えようとすることができてきている
その理由
は何なのかといったことについて、

記したいと思う。

せっかくの初note、字数を惜しまずに書き溜めてみたい。


そして、
書きたいということは、読ませたいと思っているということとほぼ等しい

僕もまた同じ様に 沈黙を聴かれた
君もまた同じ様に 飛び込んでくれるなら

口付けを預け合おう 無くさずに持っていこう
君に嫌われた君へ 代わりに届けるよ

誰もが違う生き物 他人同士だから
寂しさを知った時は 温もりに気付けるんだ

BUMP OF CHICKEN/メーデー


私という究極的に個別具体的な存在の、

「深い心の片隅」に「飛び込んで」もらう。


そうすることを躊躇しないでくれて、
面倒がらないでくれて、
一つの経験・一つの精神論として尊重してくれるのであれば、
あなたがどんな感受性や知性や考え方を持っていようとも、
最後まで読んでもらえたならそれはとても嬉しいことだなと思う。


同時に、
これから書くことは決して私だけの問題ではない人間共通の問題であると思うし、
きっと誰もがどこかで、
人生のどこかの局面で、
程度の差こそあれども、
向き合うことになっている問題なんじゃないかと信じている。


特に"自己肯定感"だの"承認欲求"だのがいとも簡単に囁かれ、
他人や自己を蔑めるための言葉としても濫用されている今日だからこそ

大学時代に鬱を経験した私なりに考える、

心の発達・健康に本当に必要不可欠な認識のあり方について

伝えたい、と言えば簡潔だろうか。


なので、個人的経験をベースにしつつも、
なるべく一般化して書くようにする。

私の言い分はもともと抽象的すぎるくらい抽象的になりがちなので、そこは安心してもらいたい。
(むしろ不安?)


冗長で、循環的で(論文とは正反対...)、拙く、教養の不完全さと自意識過剰さが露呈する文章ではありますが、何卒。



内在的価値とは


結論から言うと、

とにかく表題の【内在的価値】を認識することの重要性についての思慮を記すのが、このnoteの主な目的。


自己の【内在的価値】の受容というのが、
振り返れば心の回復に最も肝要だったものであり、
身体的に定着するのにかなりの時間を要したものであった。

本来は幼少期の人格形成時に自我が育っていく過程で無意識的に身につけるべきものだろうと思うのだが、

私の場合はまあ色々あって欠如というか不足していたみたいで、
鬱の発症によるその致命性への気づきを経て、
21歳になった今漸く身につけられたと自負している。


内在的価値=内在的な価値、
読んで字の如くではあるのだが、
少しだけゴツさのあるこの概念について、
私の出会いを含めてじっくり説明するところから始めたい。



近代的合理性と内在的価値(橋本摂子先生の授業から)

私がこの言葉に出会ったのは、
東大の前期教養の社会科学科目、橋本摂子先生の「社会Ⅰ」の授業でのことだった。


講義の最終的な議論はナチスドイツの官僚制とホロコーストの関係へ向かうのだが、

その準備段階として、授業の序盤で

【近代的合理性とは何なのか】

についての説明が丁寧に丁寧に行われていたのを今も鮮明に覚えている。



※以下はそのほんの一部であり、私が勝手に印象に残った部分を思い起こしてまとめているだけのものなので、くれぐれもご承知おきください。

近代的合理性とほぼ同義である功利主義は、
主観に基づく道徳思想を批判したベンサムによって生み出された。

「手段Aは目的Bの役に立つから合理的である」
というシンプルな手段-目的の対応関係。
手段Aの価値は目的Bの価値に従属している
これが功利主義独特の思考方法だ。

では、その目的であるBが合理的なのはなぜか?というと、
「BはCの役に立つから合理的だ」と答える。
これは
「CはDの役に立つから合理的だ」
「DはEの役に立つから合理的だ」
...
というように、延々と繰り返されていく。

Aは、Bの存在なしに自らの合理性を証明できない。
そのBの合理性はCなしに説明できない。
そのCの合理性にはDが必要...というように無限に連鎖する。

BはAの価値を保証することはできてもB自身の価値を示すことができない。より上位の目的Cによって示さなければならない。


「合理性は自らの合理性を説明できない」。

合理的でなければならないという考え方はそれ自体を説明しない。

合理性は循環する。自己準拠。

アレントの功利主義批判である。

それは、合理性の本来的欠陥といえるかもしれない。



先生は、

  • 近代的合理性がいかに人間社会を包括的で平等で自由で豊かでより良いものにしてきたかということ

  • 近代が封建社会よりもはるかに良い時代であることは疑いようのない事実であること

  • 合理性に反する行為をすればいいという意味ではないということ

などを強調しつつも、

功利主義の「道具的価値」に対抗しうる、
つまり近代的合理性の外側にある"それ以外の価値"である
【内在的価値】


すなわち
「AがAであることそれ自体の価値」

「それ自体において不可侵である価値」

もまた本来存在するはずであり、


近代の病理や合理性の限界をもはや知っている我々は、
合理性の外側にも価値や正しさがあることを忘れないようにしなければならず、

「そのものの価値をそれ以外のものの価値に代替させないこと」が対抗手段になる
と説いた。

(そしてその後の授業は、近代合理性・効率性の徹底である官僚制という手法が招いたホロコーストの特殊性の説明に至る。さらに、アイヒマン裁判、ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験、アレントやフロムの思想等が紹介されるなど、大変興味深く印象的な講義だった。)


自己存在の【内在的価値】

前期課程では結構有名な授業だと思うが、私はあの講義のことをきっと一生忘れないだろう。

というのも、私が中高生の頃からずっと抱いていた、

合理主義への嫌悪感や、

厭世観、

そして現代文で読んだ数々の進歩主義批判系の論説への共感・感銘、

それらがまさに解き明かされるような瞬間
だったからだ。


そんな授業体験以来、
【内在的価値】という言葉はまるで発明品のように、
私の心に棲みついたのだ。

手段と目的によって構成される合理性は繰り返されるので終わりがなく、
個々の事物それ自体の価値証明にはならない。


Aを自分という人間存在に置き換えてみたらどうだろう


Bという地位や名誉あるいは容姿や性格、
さらに
それに対するCという他者による賞賛、
などというものを自分の価値の証明のために追い求めようとしても、
その追求には永遠に終着点がない。

自己の価値の拠り所を何かに依存している限り、
自分の存在自体が他から独立して肯定されるということは
いつまで経ってもない。

"自己肯定感"だの"承認欲求"だの、
永遠に満たされない。


根拠のない自信、
根拠のない自己肯定。

それがどんなに重要か。

自分の内在的価値を認めることができるということ。


少し転じて、

「自分」が何かを選び行動していく、
その【主語】の「自分」には、

ほんとうは、

何の裏付けも存在証明も必要ないのだということ。


存在しているだけで、
内在的に、

つまり他の存在に一役買ってもらう必要なんかなく、

そもそも価値があるのだということを、

我々は何度でも思い出さなければならないのではないか。



(ちょっとだけ進撃の話。
進撃の巨人の中でも特に好きなキャラクターの一人であるキース・シャーディスに焦点を当てた第71話「傍観者」の、思い入れ深いシーン。
本筋からは逸れるが、この後エレンが最終的に犯すことになる罪(賛否が巻き起こったクライマックス)についても少し触れておきたい。
母親からの無条件の愛への気づきなどを経た自己の【内在的価値】の受容による「原初的欲求」の解放。
それが社会倫理(進撃の場合は、想像したよりも広すぎた世界において異なる帰属意識の下で生きる他者との共存、彼らの人格や人権の尊重)と衝突する、
というのは人間が本来的に直面しうる現実なのだと思う。
その衝突を、「反社会性人格障害者の悲哀」をも交えながら、最も残酷な形で描いているのかな、というのが個人的な感想である。)


予想される反論と事例分析
(サンプルは私のみ)(笑)


ここまで読んでくれた人は、

なんだ、「ありのままの私」理論か。
ただの綺麗事。

と思うかもしれない。


これには少しムキになって反論してみようと思う。


ほとんどの人が当たり前に持つことができているであろう、
【自我】というものーー【主語】と言い換えてもいいかもしれないーーは、
その人が自分自身の【内在的価値】を受容していない限り、
成立しないものではなかろうか。


「あなたは存在するだけで価値がある」。

それだけ聞くと確かに綺麗事だし、
それだけじゃ生きていけないのはわかる。

たくさんの目的合理性の中で、自分を闘わせていかなければいけない現実の厳しさもわかる。

でもそれでも、
自分のゼロ地点、スタート地点は、
絶対に【内在的価値】にあるべきだ。

自分という存在を疑ってしまったようなときには、
いつも思い出されるものであるべきだ。

なぜなら、あなたが存在し、行動し、何かを選び取り、生きていくということの、たった一つの根拠であるからだ。


綺麗事どころか、人が自立して生きていく原点であると思う。


大したことのない当たり前のことのように思えるのなら、
それはあなたの心が健やかである証拠かもしれない。

異常な精神状態を経験していた私にとっては、世界の秘密を知ったかのような気づきだった。

これを咀嚼することができて初めて私は、
どんな後ろめたさや劣等感や無価値感や孤独感をも捨象して、
「今、ただここに存在している自分」を肯定することができた


いっそ人生を終わらせられたならという恒常的・慢性的な苦しみの中に陥った消極的な生を克服し、
無根拠のままに生を前向きに選ぶことができるようになるまでに。

美しくなんかなくて 優しくも出来なくて
それでも呼吸が続く事は 許されるだろうか
その場しのぎで笑って 鏡の前で泣いて
当たり前だろう 隠してるから 気付かれないんだよ

夜と朝を なぞるだけの まともな日常

愛されたくて吠えて 愛されることに怯えて
逃げ込んだ檻 その隙間から引きずり出してやる
汚れたって受け止めろ 世界は自分のモンだ
構わないから その姿で 生きるべきなんだよ
それも全て 気が狂う程 まともな日常

BUMP OF CHICKEN/ギルド

出さなくたって大きな声 そこからここに響くよ
これほどに愛しい声を 醜いだなんて
あの雲の向こう側の全部が 君の中にあるんだよ
たとえ誰を傷付けても 君は君を守ってほしい

BUMP OF CHICKEN/流星群

あなたの その呼吸が あなたを何度責めたでしょう
それでも続く今日を 笑う前に 抱きしめて欲しい

BUMP OF CHICKEN/ウェザーリポート



もう一つ、予測される反論を(笑)。


あなたは、
(【内在的価値】なんて仰々しい名前をつけて)
わざわざ意識する必要なんてあるのか
と思うだろうか。


これにもムキになって反論してみたい。


そのために、繰り返しになる部分も多いが、自我を抑圧してきた私の経験を、反証として持ち出させてもらおう。


※決して、私はこんなに可哀想、と主張したい訳ではない(今は特に本当にそう思っていない)ことは、どうかわかってただけると助かる。


自他境界線をうまく引くことができないままに大学生になった私は、
自我をちゃんと育ててきた周囲の人たちに圧倒されたのだ。

私はかつて間違いなく早熟な子供だったと思う。

自分で言うのもおかしいけど、
他の子よりいろんなことに気がついていたことも多かったと思うし、
精神年齢も実年齢より高かっただろうし、
いろんなことを悟っているきらいがあった。


だが、自己の内在的価値の受容不足、
ひいては自我の欠如という根本的問題を抱えていた私の欠陥性
は、
高校生までの限られた社会の中で生きる上ではそこまで気にならなかったのだが、
大学生になり世界がぐんと広がると、
はっきりと露呈することになる。


決定的だったのは、大学の後期課程に進んだ頃だったように思う。

いつの間にか周りに追い抜かされた
と感じるようになり、アダルトチルドレンの自覚が芽生えるようになる。

"追い抜かされた"というのは、
同級生の意思のあり方、探究心や知的好奇心のあり方、努力の仕方を見て
総合的に感じたことだった。


私はずっと、自分の本来的な(合理的な根拠のない)”好き嫌い”
というものを感じないようにしながら、
する「べき」ことばかりをこなしてきたんだと思う。


20年ほど、
毎日毎日、
常に義務感と強迫観念に駆られて生きていた。


できないことはできないと、
実は苦手なんだと、
実は嫌なんだと、
言うことはできずにいた。

できないということを認めたくない部分もあった。


無理やりなんとか取り繕って、なんとか努力して、
自分の中では常にギリギリの状態、満身創痍になりながらその場を凌いでは、
所謂インポスター症候群*に苛まれたり。


*自分自身で自らの能力や実績を認められず、順風満帆に経過していても、あくまで運が良かっただけで周囲の強力なサポートがあったからに過ぎないと思い込んでしまうことで、自分の力を信じられない状態。



自分の中では自分の信念のために頑張っていると信じ込んでいて、
実際そういう部分もちゃんとあるのに、

「社会通念上望ましいから」
「他人に評価・賞賛されるから」
といった【外在的価値】が、

ただ入り込むだけでなく、蔓延していた。


純粋な「好き」や「面白い」のために、
自ら選び取り、自ら責任を取り、自ら努力する同級生たちは、
眩しく見えた。

そういう人たちに、敵うはずもないとなんとなく悟りつつも、
そんな自分を認めたくなくて受け入れられなかった。
本当はみんなみたいに努力したかったし、できるはずだと思っていた。
できない自分がもどかしかった。
鬱の身体的影響で、どう頑張ってもやる気が出ない状態は、どうしても周りからは甘えているように見えてしまうと思うが、計り知れない辛さがあった。

たぶんそれが私の絶望の始まりだった。


しかし、心療内科の先生や家族のサポートを得ながら、
螺旋階段のような回復の道を歩み続けて1年半ほどが過ぎ、

自分の未来にたしかな希望を見出せるまでになった。

あらゆることへの意欲を、徐々に徐々に、取り戻すことができた。


他人からの許可や承認という外在的なものを介さなくても自分が存在していいんだということ、

私という主語に裏付けなんか必要ないということを、

頭で理解するだけでなく心と体で実践できるようになったからに他ならない。


だからこそ、絶望と鬱の中で完全に見失った

”なんでかよくわからないけど”、
「好き」「面白い」「やりたい」、

という気持ちも、
取り戻すことができた。


皆が走って先急ぐ サーカスが来たってはしゃいでいる
なんとなく僕も走りたい チケットも持っていないのに
叱られるって思い込む 何か願った それだけで
ぶつかってばかり傷だらけ だけど走った地球の上

どうしたくてこうしたのか 理由を探すくせがある
人に説明できるような言葉に直ってたまるかよ

とても素晴らしい日になるよ 怖がりながらも選んだ未来
君の行きたい場所を目指す 太陽は今日のためにあった
体は本気で応えている 擦りむく程度はもう慣れっこ
喜んでいいものなのかな 一生今日が続いて欲しい

誰かが誰かを呼んだ声 知らない同士 人の群れ
辺りは期待で溢れた 僕だって急いで走った
何かが変わったわけじゃない 何かが解ったわけじゃない
ゴールに僕の椅子はない それでも急いで走った
思いをひとりにしないように

とても素晴らしい日になるよ 選ばれなくても選んだ未来
ここまで繋いだ足跡が 後ろから声を揃えて歌う
心が宝石を生む度に 高く浮かべて名前付けた
強くなくたって面白い 涙と笑った最初の日

何かが変わったわけじゃない 何かが解ったわけじゃない
でこぼこ丸い地球の上

BUMP OF CHICKEN/GO



もちろん、社会で生きる以上は「〜すべき」や「〜しなきゃ」を
完全に取り除くことなんてできやしないけど


大事なのは自分で選び取っていく・選び取ってきたという意識を
どこまでも追求すること、
境界線を引くこと、
見失わないようにすること
だ。



【相対的存在】としての人間と
【絶対的存在】としての人間。


前者は、
人間が他者との関わりの中で他人と認め合いながらしか生きていけないことを意味しており、
他者と共に生きていく以上は常に意識されるべきものであり、
実際、毎日の生活の中で否が応でも思い知らされる。

だが、そんな社会の中で、
【絶対的存在】としてのかけがえのない私を根拠もなく認めてあげること、
信じてあげることは、
他でもない私にしかできないことであり、

私の心の中でひそかに許された自由、なのかもしれない。

それは一つの宗教に近いようなものかもしれない。


そして、絶対的存在としての自分自身を認めるからこそ、
他者を認める基盤ができ、
相対的存在としても生きることができ、
自分というものを保持しながらも他者と深い関係を築きうるのではないか。

僕を無くしてもあなたでいられる それでも離れずいてくれますか
ただその掌で撫でてください それだけで心を守れる

ワクワクだとかドキドキだとか あなたとしか分けられない様に
出会う前から育った 会いたかった

僕にだってきっとあなたを救える 今でも好きだと言ってくれますか
あなたを無くしても僕は生きていく それでも信じていてくれますか

ただこの事だけ疑わないでね それだけで声が出せたんだ
立てたんだ 歌えたんだ

BUMP OF CHICKEN/66号線

ふたりがひとつだったなら 同じ鞄を背負えただろう
ふたりがひとつだったなら 別れの日など来ないだろう

ひとりがふたつだったから 見られる怖さが生まれたよ
ひとりがふたつだったから 見つめる強さも生まれるよ

ふたりがひとつだったなら 出会う日など来なかっただろう

BUMP OF CHICKEN/真っ赤な空を見ただろうか

そこで涙をこぼしても 誰も気付かない 何も変わらない
少しでも そばに来れるかい? すぐに手を掴んでやる

風に揺れる旗の様な あのメロディーを思い出して
遠い約束の歌 深く刺した旗

BUMP OF CHICKEN/メロディーフラッグ


万能感や特別感、"ノブレスオブリージュ的使命感"の克服


ここまでひたすら、
「私は自分に内在的価値を認められないせいで、こんなに抑圧されて育ってきました」
という悲劇のヒロインのような話をしてしてきたように
どうしても見えてしまうかもしれない。


それは本当に違っていて、
私が患っていた"認知の歪み"は、

抑圧する方向だけではなく、

謎の万能感や「私は人と違って特別だ」という
屈折した意識を育てるという形でも働いてしまっていた
ことを最後に語っておきたい。



常に内省と他者からの評価や承認に気を尖らせて生きていた私は、

自分という存在が圧倒的な善であることを疑わないような人を前にすると
決まって気後れし、怒りさえ感じてきた。

心の中で見下していたと思う。


でも本当は彼らが羨ましかったんだと思う。


例えば、卑近な話だが、
世の中には「頑張りたい人」と「頑張りたくない人」がいる、
というような話が少し前にTwitterであったらしい。


確かに一理あると思う。
そして、私の意見だが、
前者の「頑張りたい人」の中には、
相当な数の「頑張れてしまう人」がいるんじゃないかと思う。

そういう人は、自分に課す基準を高く設定しているからこそ、
自己肯定感というのはなかなか得られるものではないのだ。


逆に、たとえ努力できる環境が整っていても、
そこまで頑張らなくても自分を認められる、
幸せを感じて生きていけるという人
はいて
(もちろん彼らは彼らなりに頑張っていると思うし、自分の幸せを責任もってちゃんと追求している)、

私はそういう人たちを見ると苛立たしかったし、
いつしかその苛立ちを感じないようにするために、
彼らは自分とは違う人間だと自分自身に言い聞かせるようになっていたと思う。

そういう風に生きても別に良いのだということが、
今はもう腑に落ちるようになった。

自分にはそれを許さない、許せないというストレスが、
私に彼らのことを見下させていたのだろう。


自分は特別だと信じ込んだり、
誰のこともうっすら嫌ったりしないと、
やってられなかったのかもしれない。

易々と気は許さないさ 紛い物ばかりに囲まれて
まぶたのこちら側で ずっと本物だけ見てる


大勢の人がいて ほとんど誰の顔も見ない
生活は続くから 大切な事だってあるから
情報が欲しくて ドアからドアへと急いで
心は待てないから どうせ雲のように消えるから

何も知らないんだ 多分 全然足りないんだ まだ

BUMP OF CHICKEN/ディアマン

自分を嫌えば許される それは間違い
自意識が過剰 そもそも嫌えていない

BUMP OF CHICKEN/イノセント


そして何よりも、私はずっと、
自分の「頑張れる」能力、
「頑張れる」環境で育ったという恩恵を、
社会全体あるいは恵まれない人々に還元しなければならない
という使命感
で生きてきた。

自分が存在するだけで罪悪感を覚えてきた。

川人ゼミの新歓パンフレットの挨拶で書いた文章がまあまあ気に入っているので自ら引用すると、

自分の生い立ちの中にある「特別」と「普通」の矛盾と葛藤の世界に埋没し、生かされている現状に胡坐をかく無力な子どもとしての自分自身に耐えられなかった時期。恵まれた環境で育った自分のような者には、世界の不条理の「被害者側」を救う義務があり、そのために社会をより「良い」ものにする責任があり、生まれてこの方与えられてきたものを世界へ還元しなければならないと信じていた時期。そういう使命感のようなもののためでなければ生きていけないと思っていたような時期…。そんな思春期そのもののような青臭い中高生時代は、学校の授業やあらゆる講演会、そして部活動や委員会などをも通して、ひたすら自分の中で悶々と考え、考え、悩んだ日々でした。


この使命感には青臭さや驕りを感じこそすれ、間違ったものだったとは思わない。

一つの価値であり、秩序であり、道義であり、倫理であると思うし、
私が今後も生涯持ち続けていく軸の一つだと思う。


けれど、どこまでいっても自分が「頑張る」のは自分のためでしかないし、
むしろそうであるべきなのだろう。


確かに自分が「頑張れる」のは、自分だけでなく環境のおかげも大いにある。
感謝は絶対に忘れてはならないと思う。

だからといって、他人のための頑張りをひたすらに続けていても、
報われないあるいは役に立たないどころか、
自分や世界を見失ったり、
ややもすれば卑屈の道を選んでしまうかもしれないのだ


実際、鬱になって私は全く「頑張れなく」なったのだから。

ひとつだけ 誤魔化したままだ お互い気付いてる
何を背負っても 自分のものじゃないなら

どれだけ大事にしても偽物だよでも大事な事は本当だよ

預けたものなら要らないさ 迷子のままでも
君さえいれば きっと僕でいられるさ
一緒に ここから 離れよう

BUMP OF CHICKEN/arrows



今では、
自分のために頑張った先に、他人のためになることができれば、
これ以上のことはない、と思い直すようになった。


他人のために働けることはこの上ない憧れであるけれども、
それが本当に他人のためであるかは常に疑わなければならないし、
やはりそういう意味でも第一義的には自分のための行動になるだろう。


私が自負している豊かな想像力と共感力を、適切な形で、恩着せがましくなく、活かしていけるように。

懐かしむ事はない 少年はずっと育ってない
昔話でもない 他人事でもない でもしょうがない
何にだってなれない 何を着ようと中身自分自身
読み馴れたシナリオの その作者と同じ人

アンプは絶叫した 懸命に少年に応えた
シンガーは歌った イヤホンから少年へと
どこにだって行ける 僕らはここにいたままで
心は消えないから あの雲のように何度でも

何も知らないんだ 多分 全然足りないんだ まだ
その声とこの耳だけ この声とその耳だけ

BUMP OF CHICKEN/ディアマン



そして、人間を差別することについては敏感すぎるほどに異を唱えたいが、
人間を区別しなければならない局面というのは山ほどある。

感受性や知性や想像力や問題意識や価値観が自分とは異なる他人とは、
適度な距離感を調節しながら付き合っていくことが、
自分を大切にするということであり、
相手を大切にするということだ。

個人主義的で寂しいけれども。


全ての人に合わせようとすること、全ての人をわかってあげようとすることは、
自分を殺すことに繋がりかねない。


相手が劣っていて自分が優れているとか、良し悪しや善悪の話ではなくて、
「自分とは違う」という意識は、決して全て表に出す必要はないが、
自分の中で自分のために持っておく必要は、間違いなくある。


それが、自他境界線を引くということなんだと思う。



「同質性と異質性のはざまで」生きてゆく。

東大の入学式で感銘を受けた、
森山工先生(当時の教養学部長)の式辞を思い出す。


最後に

何が許せないの 何を許されたいの
いつか終わる小さな灯火

BUMP OF CHICKEN/Flare

目先の他人からの賛辞や評価のためばかりで、

いつも現在の自分や世界を許すことができなくて、

これから先もずっと続いてく、
けれど必ず終わりのある自分自身の人生のために
「やりたいこと」を探すというのが苦手だった。


それはそのとき今という時間を生きるのにあまりにも必死だった、
不安だったからこそだ。


これからはもっともっと、
"別に他人に褒められなくても楽しいこと"
を探していきたいと思う。

既に持っているけど気づいてないだけのものも沢山あると思う。

星を廻せ 世界を掴め
僕らの場所は 僕らの中に どんな時も

微かでも 見えなくても 命の火が揺れてる
風を知って 雨と出会って 僕を信じて燃えてる

BUMP OF CHICKEN/fire sign

もう一度 もう一度 クレヨンで 好きなように
もう一度 さあどうぞ 好きな色で 透明に

BUMP OF CHICKEN/Aurora




これは私がかなり元気になってから気づいたことだが、

私の学科(自慢だけどめちゃくちゃ優秀!)の同期には、私以外にも、
こうした存在論的問いに向き合い、

「自分がただ何もせず存在すること」の意味や価値をどうにかして肯定しようともがいていたり、

社会的規範による束縛と自分の意思との棲み分けに悩んでいたりする友人が
たくさんいた。

私から見ると彼らはものすごくたくさんの社会的な栄誉を手にしているにも関わらず。
むしろ、だからこそ悩むのだろう。



そんな彼らや、これを読んでくれた人に、たくさんの愛を込めて。


わたしもあなたも、「自ら選び取っていく人生」を生きられることを願う。

生み出してしまった希望を 頷いてくれた絶望を
他の誰とも分かち合えない全てで 宇宙を震わせろ 今

BUMP OF CHICKEN/窓の中から



Every child has a beautiful name.


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