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【懺悔】動物を全く愛せず、自分をサイコ野郎だと思ってた

学生の頃、ままごとのようにして出来た「彼氏」が、ある日プレゼントをくれた。

ラッピングをめくると、そこには「かわいいネコの写真集」があった。

自由になる少ないお金から、捻出して買ってくれたのだろう。

ありがたい。

だが、「な、良いだろ?」と言う彼に向け、私は少々ひきつりながら「ありがとう……」とつぶやくのが精一杯だった。

なぜなら、そのとき私の本当の感情は、「無」だったから。

その後、件の「写真集」は引き出しの奥にしまいこみ、大切にされなかった本達が眠る、どこかの迷宮に消えた。

大人になった。

ある日、好きな人と車に乗って、海を眺めていた。

「あ、ちょっと待って」

停車した車内で、彼はカメラを取り出した。

そして港の木陰で休憩する野良猫を、微笑ましそうに撮影し、男は笑顔で

「かわいいな」

と、言った。私は言った。

「さっぱり分からない」

「え?」

「うん、ごめん。いや、ホントにごめん。猫や犬を『かわいい』と感じたことがないんだ。もちろん存在は否定しないから、イジワルをしたことも当然無い。健やかに育っていけばいいと思う。でも、動物をかわいいと思う感情が湧いたことは、一度もない」

と、一息に言った。すると彼はウーンと唸り、ひとつの結論を出した。

「こういうのは、なんていうか、感覚的に感じるもんよ」

と、言った。

絞り出して、私を思いやって、ようやく口を衝く言葉が出てきたのだろう。

”正しい愛し方”を教えてくれたことには感謝したが、理解できる自信はまるでなかった。

「SNSにペットを載せる人は全く否定はしないけど、私自身、愛し方が全然分からないから、何かを感じ取るまでに凄く時間がかかる」

と、私はそこも正直に言った。男は、とうとう

「お前はサイコパスか」

と、笑って頭をはたいた。そして、

「まぁでもいつか、その『かわいい』と思う感情が、わかると良いな」

と言った。

そして、その「いつか」が来る前に、忙しい日々の中で彼とは疎遠になった。

子供の頃からペットを飼ったことがなく、人間以外の動物に免疫のなかった私は、困ったことに、「人間以外」のなにかを愛する技術が抜け落ちたまま、大人になってしまっていた。

動物は何を考えているか分からない。

だから、意思疎通が、言葉では全く出来ない。

「何を考え、何を求めているのか」

分からないから、どうしようもない。

人間の赤ちゃんの、”ちぎりパン”のようなモチモチとした二の腕や、頬の丸みは、あんなにも愛おしいのに。

食べてしまいたいと思うのに。

なぜ、私は、動物を「かわいい」と感じられないのだろう。

焦っていた。

だから友人が大切にしていた猫や犬のペットが亡くなると、翌日、目を真っ赤に腫らして学校にやってくるのを見るたび、別の意味で気持ちが傷んだ。

「家族を失った気持ち」は理解できるのに、深いところで共感してあげられていない気がしたから。

知人の家で、猫や犬に舐められると、歪んだ顔を隠すのに必死だった。

いつも自分が、とても薄情な人間に思えた。

だからまず、形から入ろうと思った。

SNSで猫や犬、インコや金魚の「かわいい画像」や「面白い瞬間bot」をフォローした。

タイムライン上であがってくる、猫の「決定的瞬間」。

賢いと思わず唸ってしまう、「犬のしつけ動画」。

日本語をたくみにあやつるインコの「衝撃的瞬間」。

クマやライオンといった猛獣と人間が心を通わせる「種族を越えた愛」。

クスッと笑える動画をみると、どうやら人間同様に彼らが「感情」を持って生きている姿が感じられて、少しずつ心が動かされた。

鳩だけは、死んでも苦手だったけど。

さらに気持ちに転機が訪れたのは、昨年、記者の仕事で大阪の「天王寺動物園」に寄った時のことだった。

それまで動物園といえば、うっかりデートで入ろうものなら、数時間「かわいい」と言い続け演技をし続けなければならない苦行スポットであった。

しかも最後に、欲しくない「動物のぬいぐるみ」を男性に買わせてしまう。

「人でなし」だとバレないために。

ところがその日は、仕事だということもあり、真剣に動物に向き合った。

夕日を浴び、頭では何を考えているかわからないけれど、恐ろしくサマになるライオン。

餌欲しさに、飼育員の腕をベロンベロンに舐めまくるお茶目すぎるキリン。

まさか人間にケツを見られているという概念はなく、水槽でプリッとしたバックショットを見せてくれるカバ。

あぁ、そうか。かわいいな。

たしかに、その時そう感じた。

これって、こういうことか。すべてのパズルが、カチッとハマっていった。

これまでの人生ですれ違ってきた男達の言う、

「な? かわいいだろ」

とは、こういうことだったのか。

ようやく、人間以外のなにかを愛せそうな気がしはじめた。

人間の愛し方すら危うい私だが、そこで初めて、「生き物を許容し、共鳴する」ということを感じることができた。

彼ら生き物は「誰にどう見られているか」など気にせず、ただ、そこに居た。

その姿に、むしろ好感が持てた。

素直になれない人間よりも、よほど誠意があると感じたのは、私が大人になり、「本当の気持ち」を伝えることが出来ず育ってきた証なのかも知れない。

私もいつか、愛する人と一緒に住んだときに、猫や犬と住むのだろうか。

そのときまた1つ、カチッとパズルのピースがハマることを期待したい。

それと、今まであまり上手に愛せなくて、ごめんな。動物。







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