【懺悔】動物を全く愛せず、自分をサイコ野郎だと思ってた
学生の頃、ままごとのようにして出来た「彼氏」が、ある日プレゼントをくれた。
ラッピングをめくると、そこには「かわいいネコの写真集」があった。
自由になる少ないお金から、捻出して買ってくれたのだろう。
ありがたい。
だが、「な、良いだろ?」と言う彼に向け、私は少々ひきつりながら「ありがとう……」とつぶやくのが精一杯だった。
なぜなら、そのとき私の本当の感情は、「無」だったから。
その後、件の「写真集」は引き出しの奥にしまいこみ、大切にされなかった本達が眠る、どこかの迷宮に消えた。
■
大人になった。
ある日、好きな人と車に乗って、海を眺めていた。
「あ、ちょっと待って」
停車した車内で、彼はカメラを取り出した。
そして港の木陰で休憩する野良猫を、微笑ましそうに撮影し、男は笑顔で
「かわいいな」
と、言った。私は言った。
「さっぱり分からない」
「え?」
「うん、ごめん。いや、ホントにごめん。猫や犬を『かわいい』と感じたことがないんだ。もちろん存在は否定しないから、イジワルをしたことも当然無い。健やかに育っていけばいいと思う。でも、動物をかわいいと思う感情が湧いたことは、一度もない」
と、一息に言った。すると彼はウーンと唸り、ひとつの結論を出した。
「こういうのは、なんていうか、感覚的に感じるもんよ」
と、言った。
絞り出して、私を思いやって、ようやく口を衝く言葉が出てきたのだろう。
”正しい愛し方”を教えてくれたことには感謝したが、理解できる自信はまるでなかった。
「SNSにペットを載せる人は全く否定はしないけど、私自身、愛し方が全然分からないから、何かを感じ取るまでに凄く時間がかかる」
と、私はそこも正直に言った。男は、とうとう
「お前はサイコパスか」
と、笑って頭をはたいた。そして、
「まぁでもいつか、その『かわいい』と思う感情が、わかると良いな」
と言った。
そして、その「いつか」が来る前に、忙しい日々の中で彼とは疎遠になった。
■
子供の頃からペットを飼ったことがなく、人間以外の動物に免疫のなかった私は、困ったことに、「人間以外」のなにかを愛する技術が抜け落ちたまま、大人になってしまっていた。
動物は何を考えているか分からない。
だから、意思疎通が、言葉では全く出来ない。
「何を考え、何を求めているのか」
分からないから、どうしようもない。
人間の赤ちゃんの、”ちぎりパン”のようなモチモチとした二の腕や、頬の丸みは、あんなにも愛おしいのに。
食べてしまいたいと思うのに。
なぜ、私は、動物を「かわいい」と感じられないのだろう。
焦っていた。
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だから友人が大切にしていた猫や犬のペットが亡くなると、翌日、目を真っ赤に腫らして学校にやってくるのを見るたび、別の意味で気持ちが傷んだ。
「家族を失った気持ち」は理解できるのに、深いところで共感してあげられていない気がしたから。
知人の家で、猫や犬に舐められると、歪んだ顔を隠すのに必死だった。
いつも自分が、とても薄情な人間に思えた。
だからまず、形から入ろうと思った。
SNSで猫や犬、インコや金魚の「かわいい画像」や「面白い瞬間bot」をフォローした。
タイムライン上であがってくる、猫の「決定的瞬間」。
賢いと思わず唸ってしまう、「犬のしつけ動画」。
日本語をたくみにあやつるインコの「衝撃的瞬間」。
クマやライオンといった猛獣と人間が心を通わせる「種族を越えた愛」。
クスッと笑える動画をみると、どうやら人間同様に彼らが「感情」を持って生きている姿が感じられて、少しずつ心が動かされた。
鳩だけは、死んでも苦手だったけど。
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さらに気持ちに転機が訪れたのは、昨年、記者の仕事で大阪の「天王寺動物園」に寄った時のことだった。
それまで動物園といえば、うっかりデートで入ろうものなら、数時間「かわいい」と言い続け演技をし続けなければならない苦行スポットであった。
しかも最後に、欲しくない「動物のぬいぐるみ」を男性に買わせてしまう。
「人でなし」だとバレないために。
ところがその日は、仕事だということもあり、真剣に動物に向き合った。
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夕日を浴び、頭では何を考えているかわからないけれど、恐ろしくサマになるライオン。
餌欲しさに、飼育員の腕をベロンベロンに舐めまくるお茶目すぎるキリン。
まさか人間にケツを見られているという概念はなく、水槽でプリッとしたバックショットを見せてくれるカバ。
あぁ、そうか。かわいいな。
たしかに、その時そう感じた。
これって、こういうことか。すべてのパズルが、カチッとハマっていった。
これまでの人生ですれ違ってきた男達の言う、
「な? かわいいだろ」
とは、こういうことだったのか。
ようやく、人間以外のなにかを愛せそうな気がしはじめた。
人間の愛し方すら危うい私だが、そこで初めて、「生き物を許容し、共鳴する」ということを感じることができた。
彼ら生き物は「誰にどう見られているか」など気にせず、ただ、そこに居た。
その姿に、むしろ好感が持てた。
素直になれない人間よりも、よほど誠意があると感じたのは、私が大人になり、「本当の気持ち」を伝えることが出来ず育ってきた証なのかも知れない。
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私もいつか、愛する人と一緒に住んだときに、猫や犬と住むのだろうか。
そのときまた1つ、カチッとパズルのピースがハマることを期待したい。
それと、今まであまり上手に愛せなくて、ごめんな。動物。
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