「学校」という村で暮らしていた頃の地獄

小学校の頃の話。

当時、私はシャイで頑固な子供だった。

スクールカーストでいえば、下位層寄りの中位層。

算数と体育に弱く、授業によっては未発達な一面をみせた。

教師の発言で疑問に思う点があれば、水に流すことはできない。

けれど、毅然と指摘する勇気もない。

だから、遠い場所を見つめるような瞳で自席から教師を睨みつけ、「今の発言はおかしい」と、空想上の電波に乗せて飛ばしていた。

はっきりと、絶望した表情をみせながら。

不感症な大人には、どうせその電波はキャッチできないだろう。

そんな風に、高をくくっていたように思う。

ところが横暴な教師こそ、「何も言わぬが何かに気づき絶望している生徒」をキャッチする能力に長けている。

私は、一部の教師に嫌われていた。

クラス内をよく観察すると、ヒエラルキーのトップから順に、教師→スクールカースト上位層→中位層→下位層と、見事に完成している。

時々、下位層の男子が「お笑いキャラ」としてポジションを確立し、上位層男子と交流戦を見せることもあったが、私は常に不安定な立場にいた。

周囲にいるだいたいの生徒は、天真爛漫で笑うことが大好き。

給食は教師から言われた通りよく食べ、昼休みはドッジボールなどをして遊ぶのがデフォルト。

私も必死に馴染まなくてはと、腹をくだしても苦手な牛乳を飲み、無理に給食を流し込み、輪の中に混じって遊んでみたりした。

けれども、心の中でいつも「子供らしさ」の鎧を演じることに疲れていた。

ふと見渡すと、私と同じく「無理矢理演じること」に疲れている女子生徒がいた。

その苦痛さを「出すまい」としていても、漏れ出てしまっている。

彼女を見つけたとき、私は初めて「共闘する仲間」を見つけた気がした。

この苦痛時代をお互いに健康的に生き抜くため、彼女と手を組むことにしよう。

その子とは、やがて親友同士になった。

当時、違うクラスでも早々「この学校という組織はヤバイ」と感じ取っている友人がいて、その子とも仲良くなった。

彼女は時々、

「これはズル休みではなく、大人で言うところの有給消化みたいなもの」

と私達にハッキリ告げ、身体のリズムを調整するため学校を休むことがあった。

そこにあるのは、大人達が感じているような、かわいらしいミニマムな世界においての「ズル休み」ではない。

彼女にとって学校を時々休むということは、戦場で戦に疲れ英気を養うためのやむを得ない手段だったのだ。

彼女は心のバランスをとるため、3週間に1度ほど、定期的に1日休むようにしていた。

私達は、日々、猛烈に疲れていた。

「学校という村」で暮らす我々。

どのような理不尽な贔屓があっても、嫌味を言われても、パワハラがあっても、とにかく平穏に過ごさなければいけない。

ブラック企業へ勤めるのと同じくらいのストレスを抱え、組織の一員として生活していた。

無論、全ての教師に絶望しているわけでなく、「子供の声」に耳を傾けてくれる勘の良い教師もいたが、それはこちらでは選べなかった。

そんな私が、ある学級に籍をおいていた時のこと。

当時、そのクラスにおいて変わった習慣があった。

お言葉」と呼ばれるそのシステムのルールは、こうである。

①自分がクラスメイトの誰かに親切にしてあげたら

(例:教科書を見せてあげたり、消しゴムを貸してあげたりすること)

②「あなたは親切で良い行動をしました」と、書かれた短冊型用紙を教師から渡される。

※これがいわゆる「お言葉」という紙。

③縦15cmほどの長方形に切られたこのぺらぺらの紙「お言葉」を連絡帳に糊付けして貼る。

④学期末のホームルームで、クラス内で誰が一番「お言葉」の枚数を獲得したか数える。

⑤その結果、一番多く「お言葉」を集めることが出来た生徒は、教師からちょっとしたプレゼントが配られる。

***

こんな感じのポイントシステムだった。

教師が「アナタ頑張ったね」と生徒に個々に配ることもあったし、状況によっては生徒自ら、

「先生、僕、◯◯ちゃんに良いことしたから、お言葉の紙、ください」

と自己申告して紙をもらうこともあった。

お言葉は、1種類ではなく、いくつか文面違いがあった。記憶をたどる限り、

・他人に親切にしたときに貰えるお言葉

・テストで高得点をとった時に貰えるお言葉

など2〜3種類ほどあった気がする。

このネーミングは、私個人が勝手に命名したのではなく、当時から、

「これは先生からのお言葉です」

という風に呼ばれ、その呼称で存在していた。

そして、クラス内における通貨のように、共通の「ポイント制度」として利用されていた。

私は、この制度について、ずっと言語化できない気持ち悪さを抱えていた。

大人になった今でも、ずっと。

なぜ、「良いこと」を強要され、自らがポイントを稼ぐために躍起になって行動しなくてはいけないのだろうか。

私は、教師から「お言葉」を貰っても連絡帳に貼らず、極力ポイントを貯めない姿勢をとっていた。

貰うたびに、道具箱の奥に紙をぐちゃぐちゃに丸めて、しまっていた。

時々思い出したように、「そろそろ貼らないと、少なすぎて怪しまれるな」というタイミングで申し訳程度に貼り付けていた。

連絡帳が「お言葉」の厚みでパンパンになってしまう生徒は、担任教師が死ぬほど贔屓する優等生の生徒達か、大人からのポイントを稼ぎたいと純粋に願う生徒だった。

彼らが学期末、クラスメイトの皆の前で、

「さすが◯◯くん! よく頑張ったね」

などど教師から褒め称えられながら、ちょっとしたノートや本がプレゼントされる姿は、異様な光景だった。

「最優秀お言葉獲得賞」は、毎回、ほぼ教師お気に入りの男子生徒1名が選ばれていた。

表彰された彼のほうに、罪はないと思う。

子供達は教師への態度を選べる状況ではなかったし、性格の良い彼にとって、教師から褒められることは、ナチュラルな行いを続けた上での結果に過ぎないのかも知れないから。

ただ、その制度が発育上どのように影響があったかは、わからない。

大人になった今、人格的形成に良くない影響をおよぼしていないか個人的には心配している。

なぁ、「親切心」や「優しさ」は、他者と関わる中で、自然に芽生えるものではないか。

そして、失敗しながら節度を学んでいくものではないだろうか。

少なくともクラスメイトから親切の押し売りをされているあいだ、私はずっと苦痛だった。

この教育方針が、20年ほど前の公立学校の教育過程において認められていたものなのか、教師が独断で行っていた”グレーな個人プレイ”なのかは、今でも知る術がない。

ただ、少なくとも一部の保護者から「この宗教的な制度は一体なんなんだ?」と疑問の声が上がっていたようである。

ちなみに同教師のエピソードで、印象深いことがもう1つ。

氏は、クラスのうち誰かひとりが校外へ転校することがあれば、

「皆、さぁ、泣きましょう」

といって、一斉に子供達を強制的に泣かせることが多々あった。

心優しく単純な生徒達は、ポーズだけでも泣く姿勢をとるうち、本当に哀しくなってくるらしく、アンアンと泣いていた。

一方、私と親友は「え? さほど仲も良くなかったクラスメイトが転校くらいじゃ、まったく泣けねぇよ?」と心から困惑した。

クラスメイトが居なくなる(転校する)悲しみをクラス中で共有するため、涙を強要され、”絆”を重視される。

人工的に作られた「お涙ちょうだい」は、まっぴらごめんだった。

私は「アーンアン」と泣き声を出してみながらも、1適の涙も出ず、干からびた魚のような表情をしていた。

そのとき運悪く、教師と目が合ってしまったところ、

「亜希子。アナタは仲間がいなくなることが悲しくないの? どうして泣かないの? 泣きなさい。アナタ最近、生活がたるんでるよ?」

と詰め寄られ、おまけに生活習慣を指摘され、絶望した。

そのときのことは、今でも覚えている。そのストレスは凄まじいものだった。

近頃の「ブラック校則」「セクハラ校則指導」における記事をいくつか読み、当時のことを思い出してしまったので、ここに記しておく。

https://president.jp/articles/-/25835

「大人に物言えぬ生徒の絶望」というところでは、少し近しい話だと思う。

義務教育を生きる全ての学生が、より素敵な先生に出会えますように。

あのときの「お言葉先生」、今もお元気にしていらっしゃいますか?

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大木 亜希子

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