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SNS発信してる自分としてない友人の違いは何か? -続けることで客観視できるように

先日、友人とちょっとしたトラブルがあり、考えたことがある。トラブル内容は大したことではないけれど。

ブログやSNSで文章を書き続けていると、どうしても自分のそのときの気持ちや考え方を発信することになるし、発信がプライベートな内容ほど面白いと言ってもらえる。
日に日に、起こった出来事の自分への理解は進み、自分自身を振り返って客観視するようになるし、その発信をみる人の意見も飛び込んでくるもの

ところで日々の自撮り写真って客観視すると滑稽よね?(笑)

「相手のことを具体的に考えて表現する」という行為を何年も毎日毎日、続けている私と、SNSでの発信をしない人、またはSNS発信に意味を感じていない人との距離があることに気づく。

わたしが培ってきた発信(文章)は、わたしの生き方やかっこ悪い自分をさらけ出した、いわゆる分身のような存在になるブログ。そういう分身を5年以上育てて来た気持ちは、やっていない人には理解されないけど。
それでも、理解しない相手が悪いわけでもない。じゃあ、わたしが理解されない現実について相手に理解を求めるっていうのもどうなのよ??

面倒なことは嫌いだ。
何故ならわたしは、自分ほど面倒な人間はいないと思っているから、これ以上の面倒は抱えたくないのが本音。

どんなに身近に親しくしている人だって、理解できないことや理解してもらえないことだって多いんだもん。

何なら、自分のパートナーだって「人のことをブログで書いたんだから、批判されても当然だろう?」と言い切る始末。
あんたは、わたしの分身をわたしがどんな想いで育ててきたのか知ってて言ってんのか?ブログを書いたこともないのに?となるわけだ

ほら、面倒で厄介な自分が出ちゃうから、これ以上の訳わかんないモヤモヤはめんどくさい。
だよね?

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