世界中に孤独がたくさん

 3月2日, Zepp Tokyo, ナンバーガールの無観客ライブ。omoide in my head での森山未來の踊り。極限まで内省した先の世界から手を伸ばし、息苦しい現実世界じから人々を連れ出してくれるような、否応無しに共感を呼び起こす踊り。世界に自分しかいないような孤独のなかで、諦めにも似た、それでいてどこか清々しい笑顔をたたえながら、力の限りの抵抗を表現した踊り。一万人のデモにも匹敵する迫力があった。

 昔、村上春樹のエッセイで、人の心象は3層になっていて、表層ほど個別性が強く、内面に近づくにつれてその心象は普遍性を帯びるというような趣旨の記事を読んだことがある。これは通常具体的に結ばれる心象が深層に行くにつれて抽象的になることに因るためではないかと思う。つまり最も個別的と思われる心の原風景のそのトリガーは多くの人に共通しているのである。そしてその引き金を引くことはあらゆる表現者にとっての至上命題と思われるが(なぜならそれは他者の感情を深く揺さぶるということと同義だからだ。)実現できる者はそう多くないだろう。だが、今回の森山未來の踊りとナンバーガールの演奏には人の心を根底から突き動かす熱量が確かにあった。ギターを掻き鳴らし叫ぶ向井に呼応するように、どこか吹っ切れた清々しい表情の森山未來の踊りは、その背負ってるカバンを放り出してどこか遠くに行ってしまおうぜと誘うようで、観る者の心を軽くしてくれた。そして、一人で踊っているのに、一人で観ているのに、なぜか寂しさを感じなかった。彼の踊りを観て、世界中にたくさんの孤独な一人がいて、その孤独を抱えながら前を向いているということが反射的に理解できたからだ。そこには不思議な連帯感があった。一言もみんなで頑張ろう、一致団結しようということは言っていないのに、である。あれは向井なりの背中の押し方だったんだろうと思う。

 もしもいまの感染症が蔓延せず万事無事にことが進み、zepp tokyoでのライブが予定通りに開催されたなら森山未來が踊ることもなく、この感動は生じ得なかっただろうと思う。(勿論、待望のナンバーガール復活ライブであったのだからそこには別の感動と興奮があったはずであるが)私はあの踊りに希望を見出すことができた。いつかこの出来事をナンバーガールや森山未來のファンと語ることができる日を心待ちにしている。新宿あたりの、狭くて騒がしい居酒屋で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?