たとえばあなたにとっての食パンが、私にとってのバナナです
バナナ。
それは私にとって食パン以上に朝食だ。
ご飯半杯分、6枚切り食パン半分に値する
80カロリーに含まれた栄養素は、
その日1日のコンディションを左右する。
朝はパン派かご飯派か。
パン派を推された私は胸を張って言う。
あなたにとっての食パンが、私にとってのバナナです。
たとえばこれは、事務職で働いていた数年前、片付けの苦手な私がやっとの思いで靴を一掃した時のお話しです。
「サンダル買ってきたのよ。ちょうどいいのがあって。」
帰ると母は、おもむろに白い箱を取り出した。
―なんということだ。せっかく靴を減らしたのに。
しかし、もう買ってきたことに変わりはない。
きっと母は喜ぶ私の顔を期待している。
なにかやんわりと伝えられる言葉がないものか。
「探しても調度良いのなかなかないから。」
そういう母は得意げで、
輝く瞳は、今に限ってむしろ凶器だ。
そう言われても、サンダルを履くのは母ではなく私だ。調度良いかどうかに関わるのは私である。
「母のじゃないんだから、探さなくていいよ。」
「まあ、持ってくるから履いてみてよ。」
全く気乗りはしないが、おざなりにするのは申し訳なくて、「今履く」と言ったはいいものの、やはり気乗りがしない。
母から渡された箱の中には、踵にゴムがついた黒サンダル。
ぱっとみてシンプルなデザインは、
むしろ私が探す社内履きにぴったりだった。
社内履きなら玄関にかさばることなく、毎日のように活用できる!
一筋の希望が見えたのだが、母は外履きにと思って選んでくれたのであろう。
「社内履きにぴったり」と言うとあからさまにムッとした。
試しに足を入れてみる。
きつい。見事にぱんぱんだ。
むしろ社内履きとしても難しいかもしれない。
「残念ながらきついよ。デザインはいいけど、きつい。」
それみろ。靴は本人が試し履きをしてから買った方がいいって口酸っぱく言っていたのはそっちじゃないか。
そもそも履けないことへの現実に、
どうにもせっかく減らした靴への悔しさが勝ってしまう。
ぶっきら棒に言うと「きついはずない。ちゃんと履いてよ」と言う。
母は有名なスポーツメーカーのサンダルだから買ったのだ。
娘の大きな足に入ると思ったからこそ買ったのだ。
「だからきついって。」
もう一度試したのち、いや。プラスの言葉も含めなければと言い直す。
「きついけどデザインはいい。デザインはシンプルでいいけどきつい。」
言いながら、母の不服な顔に悲しくなる。
-せっかく買ったのにー
そんな声が聴こえてきて、もはや履けないことさえ腹立たしい。
やはり「ありがとう」と言うべきだったのか…。全く嬉しくないのに。
―そもそも入らなかった―虚しい事実を突きつけられて、母は静かに片付け始める。
そうだよなあ。
ショックだよなぁ。
箱にしまう母の手をそっと止め、
試し履きをもう一度。
なにせゴムだ。
いずれ伸びる。
社内履きは譲れないけど、
履いてみせると心に決める。
私にとっての社内履き。
母にとっての社内履き。
すごい必要なんだぞ社内履き。
1つの物事に対する価値観に、
一人一人の優先度があることを感じながら
記事を見つけて下さり、最後まで読んでいただきありがとうございます。 少しでもなにか心に残るものを届けられていましたら、こんなにも嬉しいことはありません。